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セトは何事もなかったかのようにゆったりとした動作で歩いた。
その背を振り返ってももうシオンはどこにもいないだろう。
(相変わらず、あの才は素晴らしいな)
主が執着するのも、その点だけを見れば納得する。いかに性格や出自に難ありと思っていても、陥落させたいと画策するだろう。
あの自尊心を折るのは難しい―――故にやりがいだけはある。
そんなことを考えてしまう自分に薄く笑う。
やりがい……久しぶりに思い出した言葉だ。
まっすぐ行けば大通りに出るというところで、セトはふと道を曲がった。何があるわけでもない、寂れた問屋などが無駄に並んでいるだけの道。
長衣に目深なフードをかぶった小柄な影が、趣味の良い香水とともにセトのそばに近づいてきた。
顔も見えなかったが、その立ち振る舞いから若い女性だろうというのは一目瞭然だった。
もう潰れて久しい店のそばで、二人は立ち止まる。
「あの少女は、王城だそうですよ」
はっと彼女が驚愕に全身をこわばらせたのを、セトも感じた。表情が見えなくても、分かりやすい反応をする。
「手に入れるのはなかなかに、あの男以上に難しい……」
「それでも、諦めることなどできないのでしょう? ならばわたくしもそうするだけ」
思いのほか強い決意に、セトは驚く。もっと流されやすいのかと思っていたが、それなりの意志はあるようだ。
「姫君」
布に隠された奥の瞳が、震えながらセトを見上げている。
「だからといって、もう、突然カイゼまで行くような真似はしないでくださいね。聞けば何度も領主に会いに行ったというではありませんか」
「……それでもあの方は、何も気づいてくださらない」
この女は、地位も金もなにもかも、羨望や妬みに晒されながらほしいままに手に入れておきながら、絶対に手に入らないものだけをいまだに求めている。その不可能に、気づいてもなお。
贅沢に、慣れすぎているのだ。
セトが彼女を見下ろす双眸に、侮蔑の光は一閃もなかった。ただ、憐れみ、哀しいことだとすら思う。
けれど、こんな感情を抱かせるこの女は、本当に珍しい存在だとも感じている。
(かつての自分と重なるからか……)
いつか振り向いてくれるかもしれない、他人の愛。
不確かで目に見えないそれを、ただ純真に希求して。
そんなものは、どこにもないとわかったときに、セトの世界は広がった。
「たったそれだけのために我らに協力し、資金提供などまで惜しみなくしていただけるとは、奇特な方ですね」
主観的に見れば奇特でいいのだが、冷静な自分の瞳には、奇怪で無駄としか思えない行動だ。
褒めたつもりだったのだが、女はぴくりと大げさなほどに肩を震わせた。気づかれていなかったと思っていたその単純さに、セトは感服すら覚える。
(箱入りの姫君だからか)
策を弄するわりには、ときおり驚くほど愚かな素直さを見せるのだ。
せっかくカイゼの領主の不正を楯に、サルナードに到着する前に捕縛してしまおうと動いたのだが、結局その息子に邪魔された。この女の落ち度とはいえないが、ミントという嫡男を無視し続けた結果だった。
「いいのですよ。動機がなんであれ、協力して、裏切らないでいただけるのであれば」
「……う、裏切るだなんて」
初めて聞いた言葉だったかのようにうろたえながらも、女は首を横に振って否定した。
けれどセトは知っている。
この女が求める、他人への愛は、いつも受け取ろうとするだけで、自分から誰かに与えることはないことを。
何かを享受することに慣れすぎているのだ。
そっと、その顔に指を伸ばした。こうして隠していても、彼女は誰よりも美しかった。
首筋に触れると、少しだけ身じろぎをしたが、逆らわない。愛を与えられることにすら慣れすぎている。
だからセトは、その飢えを満たしてやるためだけに、そっと抱き寄せた。強く、優しく、望みどおりに。
その代わりに得られるもののために、セトは自分が必要のない愛情を誰かに惜しげもなく与えることができるから。