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 一瞬だけ気の遠くなるような感覚が、全身を駆け巡った。

 静かな浮遊感。

 意識を手放してしまいそうになったとき、急に視界が開けたようだった。

 赤と黄色―――色鮮やかなものが、広がっている。

 硬い床に立っていたはずだったのに、急に足元がふわふわして後ろによろめいたら、誰かに強引なほど強く腕を引かれた。

「来たか、嫁」

 聞いたことのある声にはっと顔を上げると、すぐ目の前に穢れない宝珠のような双眸があった。

 薄い、青空の色。

 あまりの近さに、ユティアは反射的に身を引いた。……いや、引こうとしたのだが、その腕を強くつかまれていて、身体は実際にはほとんど動かなかった。

「え、え、えぇ?」

 何が起こったのかまったく理解できずにユティアは、何度も瞬きを繰り返した。

「シオンは? カ、カディは……」

「おれに会いたかったであろう? 礼はよいぞ」

 人の意見をまったく無視した言葉を、息がかかりそうなほどの距離で告げたのは、鳥男……『白鷺』と名乗った男だった。

 まったくわけがわからず、顔をそむけると、ユティアはさらに驚愕する。

「……あ」

 こちらも見覚えのある顔、ジュリアス=クラウドがユティアの横にたたずんでいたのだった。

 ますます混乱するユティアは、どうしていいか分からずにただ視線をあたりにきょろきょろと彷徨わせた。

 ジュリアスを見ることも、この『白鷺』を見ることもできず。

 自然な風を感じる外に、ユティアたちは立っていた。

 あたりは広場のようだ。

 噴水があり、木々が植えられている。ふわふわの足元は、赤や黄色の落ち葉のせいだと気づいた。けれど、ほかには誰もおらず、閑散としている。

「何を、しました?」

 ジュリアスの冷めた声は、ユティアではなく『白鷺』に向けられていた。

 この二人が知り合いだということにも、ユティアには驚きだ。まったく性格の異なる彼らが同じ場所にいるということが、なぜかあまりにもそぐわない気がした。

「この本の名を、『吉』としよう」

 少年は相変わらずというべきか、ジュリアスの問いとはまったく関係ないことをつぶやいた。

 見ると、『白鷺』の手には、表紙の真っ白な大きな本が握られている。

「お前はこの本の中から突然現れたのだ」

 唐突なジュリアスの言葉の意味が、すぐにはユティアにわからなかった。

(ほんの、中から……現れた? わたしが?)

 ジュリアスと『白鷺』を交互に見やるが、どちらも冗談で済ますような性格ではなさそうだった。とくにジュリアスは、ここで嘘や冗談をユティアに言ってもまったく利益がないだろう。

(……そういえば、空、飛んでたんだっけ)

 不思議なことをやってのける彼ならば、ユティアをこんなふうに呼び寄せることも可能なのかもしれない。どんな突拍子のないことでもそう思わせてしまうだけの奇抜さを、なぜか彼は持ち合わせていることに一度の出会いで気づいてしまった。

「何をしていた?」

「……え、えっと。エンディーンがいなくなってしまって、シオンと一緒に魔道で探してたらいきなりこんなことに」

 目線を合わせられないユティアは、少しうつむきながらしどろもどろに答え、ジュリアスがエンディーンの名に軽く眉根を寄せたことに気づかなかった。

「あの、わたし、サイロン家に……」

 帰りたい、と自分の希望を言いかけて口をつぐむ。顔を上げたら、そんな雰囲気ではなかった。

 ジュリアスの視線は相変わらず、その眼光だけでユティアを射殺してしまいそうであったし、『白鷺』は破れた本の一貢を見て、衝撃の緩和がどうのこうのとユティアにはわからない言葉を一人つぶやいているのだ。

「……ここから一人で戻るのは難しい。あとで送る」

「そ、そんなに遠いんですかここ」

 ジュリアスがいるのだから、クラウド家の屋敷かその別邸あたりだろうと思っていた。どちらも一度しか訪れたことはないが、ユティアが一人歩いて帰れない距離だったのだろうか。

 ユティアの簡単な問いに、なぜかジュリアスは無表情のまま答えなかった。

「この娘をどこに送らせるというのだ? おれが貰うと決めたものだ」

「―――何?」

 珍しく彼の眼光が変化した。だが、よけい鋭くなっただけだった。クラウド家出身の彼に対してまで、それほど尊大な態度を取った『白鷺』にはらはらしつつ、ユティアはなんとなく次に来る言葉を予測して身構えた。

「おれの嫁だからな」

「……ち、違―――」

「ここに住むことが決まっている」

「だから違……」

「おれの『作品』への理解があるのだ」

「……―――」

 もう否定する言葉も出なかった。

 そうとう呆れたのか、ジュリアスもしばらく無言を突き通した。

「皆に今すぐ紹介するか」

 彼はユティアの手を当然のように取り、引いて歩き出す。振り返ると、そこには神殿よりも大きな建物がそびえたっていた。……たしかにクラウド家ではないとユティアにもわかった。ただ、それよりもさらに大きい建物が存在するとは思っていなかった。

 白い柱の一本一本が、本物かと思うほど精巧な女性の像になっているし、天井も明らかに高い。壁にも彫刻が施され、石の床の上には細かい刺繍の絨毯が敷いてある。

「おれの部屋でゆるりとくつろぐことを許そうぞ」

「お一人で決めてよいことではございません」

 そのときユティアは、ジュリアスの言葉遣いが敬語であることにふと気づいた。

 だが、何も尋ねることができないまま、二人は建物の中に入っていく。ユティアも後を追うしかなかった。

 すぐさま何人もの人々がいっせいに膝をついて顔を伏せた。

 絢爛豪華の頂点にあるような屋敷だ。そこにいる人々も異様なほど多く、この奇怪な少年とジュリアスを見るなり、誰もが深々と頭を下げた。そしてこの目立つ二人とともに歩くことになり、かなりの好奇の視線に晒されることになったユティアには、戸惑いと羞恥だけが膨れ上がっていく。

 彼に腕を引かれ、ユティアはもつれそうになる足で、小走りについていくのが精一杯だったが、うしろからジュリアスがついてきてくれていることだけがなんとなく救いに思えた。誰も知らない人々の中に放り出されるよりは、無愛想でもなんでも知り合いというのは心強いものだ。

 そのジュリアスは、いつもにも増して無表情を貫き通し、くだらない感情を押さえ込んでいたのだが、そんなことを知る余裕はユティアになかった。

「……馬鹿が」

 ジュリアスの小さな呟きは、頭がほとんど回転していない今のユティアにはまったく聞こえていなかった。その間にも、広い回廊を『白鷺』はずんずんと歩いていく。跪く人々には見向きもしていないようだった。

「嫁。雲雀の葡萄酒の部屋と泣ける飴玉の部屋、どちらの部屋がいい?」

「……は?」

 わけのわからないことをまた聞かれた。『白鷺』は、またもやじっと、顔を近づけて覗き込んでくる。

「魚の暦の部屋と黒い銀色の部屋だ」

 先ほど聞いたものとはまったく違う部屋になっている気がしたが、指摘するべきはそこではないような気がしてユティアは押し黙った。

 意味がわからなかった。

 だからこそ、ユティアは少し試してみたくなった。

「蒼い海の、部屋……」

「―――わかった」

 彼は何の疑問も持たなかったかのように、再び歩き始めた。ユティアはまた同じように引きずられて後を追った。

 しばらく行くと、少し雰囲気の違う回廊に出る。

 色や大気がやわらかい。あたりを歩くのも女性たちばかりになった。

 そんな中で、前方から一人の男が歩いてきていた。誰にも目を止めなかった少年が、初めて彼を見て歩みを止めた。

 突然のことに、ユティアは彼の背中に鼻をぶつけてしまう。

「ご機嫌麗しゅう」

 ジュリアスよりもさらに年上に見えるその男は、柔らかな眼差しで『白鷺』に軽く立礼した。

「あぁ、『古代文字』か」

 男はあくまで紳士的な笑顔で、変な呼び方を無視した。

「……どうしたのですか、その可愛らしい女性は」

 ユティアに甘い視線で片目をつぶって見せたが、ユティアにたじろぐ隙すら与えずに少年は答える。

「嫁だ」

「―――……」

 見知らぬ男性にまでそんなあっさりとした紹介をされたのだが、ユティアはもう反論する気力がなくなっていた。どんな言辞も、彼のこころには届かない気がしたから。

「はぁ、嫁ですか?」

 どれだけ驚かれるのか、もしかしたらとんでもないと怒られるのか、どちらにしてもこの屋敷を我が物顔で歩ける少年なのだから、まともな大人ならこんな得体の知れない女を嫁にできないと反論してくれるだろうとユティアは思っていた。

 だが、古代文字と呼ばれた男の口から出たのは、まるで緊張感のない一言だけだった。

「ジュリアス殿のご後見の姫君かなにかなのですか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 話を振られ、さすがのジュリアスも曖昧に答えた。

 どちらにしろ、とりあえずこの男性もこのような馬鹿げた話を本気にはしていないようだったから、ユティアは安心した。

 少年は、彼の気のない返事でも満足したのか、ひとつ大きく頷いてまた歩き出した。当然ユティアの腕を強引に引っ張っている。

「宰相殿、これは内密にお願いいたします」

「ええ、そのほうがよいでしょうね」

 彼らの背後で、交わされた二人の男の小声は、ユティアにまで届かなかった。

 そして、とある豪奢な一室に、ユティアはジュリアスとともに押し込まれ、当の本人は待ってろという言葉一つでどこかへ消えてしまったのだった。


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