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「用事は済んだのか?」
「―――ああ」
神殿の大きな円柱に寄りかかる男に、唐突に声を掛けられてもエンディーンは冷静だった。
二人は並んで、人の中を歩いて神殿の丘を降りていく。男がさりげなく手を揺らしたときの淡い光を、エンディーンだけが確認した。軽やかな風が通り過ぎ、男の少し癖のある黒髪を靡かせる。
彼らの会話は続いているのに、その内容は誰の耳にも届かなかった。
「あとはイデアを殺るだけだ」
人を殺すためだけに生きているような、少年。
イデア、という皮肉な呼称をつけたのは、彼の両親ではない。
心臓を一突きなどという繊細なことはせず、ただ首を落として殺す術だけを知る無類の暗殺者。
エンディーンがイデアを知ったのは、いまから五年前。当時彼はたったの七歳であったのに、すでにそんな噂が流れていた。
「ようやく目的が一致したな、セイン」
エンディーンの傍らで、男―――セインは静謐の眼差しをただ前に向けていた。
その存在を知る誰もが、目にすることすら何より厭う。
イデアにとって、敵や味方という感覚はない。現在も、『味方』であるはずの仲間たちを何人も手にかけていることを、エンディーンも知っていた。
人殺しを、一呼吸としか思っていないのだ。
危険としか思えない少年に、近づこうとしている。
「馬鹿だな、お前」
はっきりと無謀を告げられ、エンディーンは口元を軽くゆがませて笑おうとしたが、上手くできなかった。
嘲笑の仕方など、自分には不相応な長すぎる平和の中で、もう忘れてしまったのかもしれない。
「だが、だから俺を必要としたんだろう」
「純粋に、お前に会いたいという気持ちも、あった……」
セインになら利用されてもエンディーンはかまわなかった。
だが、同い年のこの青年を動かしているのは、再会した一年前から今までも、ただ憎悪だけなのだと、エンディーンは改めて気づかされた。
「『朝陽』は、リンの形見ではないのだぞ、セイン」
「わかっている。だが、リンが王から預かった宝剣だ。でも奴がまだ、性懲りもなく『黄昏』を探していてくれてよかった」
セインは殺人鬼イデアが持つと言われているそれを手に入れて、再び王に返還するためだけに国を出て旅を続けていた。
宝剣は二振り。
鮮やかな金色の『朝陽』と、冴えた銀色の『黄昏』。
「お前はカストゥールに帰るつもりなどないのだろうが、俺は違う」
「セイン」
「リンは祖国できっと、弟のお前を待っているんだぞ」
だが、何を言われてもエンディーンは心を揺さぶられることはなかった。しばらく無言だったセインもそれに気づいて溜息をつく。
「……イデアを探す前にひとつ聞く。リース」
「その名で呼ぶな」
不機嫌を全面に出して、エンディーンは答えたが、セインは気にしなかった。
彼は、リトルセと出会って捨ててきたエンディーンのすべての過去を知る、唯一の男。
「お前はもう、リンを忘れたのか」
「―――ああ」
セインに視線を向けず、前だけを見据えてエンディーンは答えた。だが、いつもの穏やかな眼差しは影を潜めていた。
神殿の丘を降りてきた二人は、示し合わせるでもなく、人気のない路地に入っていく。
「もうエリシャ王国への憎悪など、考えていない」
「―――だが、俺はリンを殺したあの国が今でも許せない……っ!」
それは理屈や理性で抑えることなどできない、激しい思い。
エンディーンの中にも、そんな感情が渦巻いていたときが、たしかにあった。だからセインの色褪せない憎悪が手に取るように理解できる。
「あの情報を、読んだのだろう?」
「ああ」
エンディーンは、ゆっくりと呼吸した。
子供のように無様に、叫び出してしまわないために。
「それでもまだ、あの家にとどまって、その男と同じ食卓につくお前が、俺には理解できん」
「……俺はもう、リトルセ様のためにしか動かない。姉も国も、俺にはない」
エリシャへの憎悪や、リンのための復讐や、国への忠誠心。
それらすら、両親につけられた名前とともに、エンディーンは捨ててきた。
「リース」
「その名で呼ぶなと言っただろう」
愛されて、名づけられた双子―――リンとリース。
けれど、エンディーンはもう、その双子剣使いではない。リトルセのためにしか生きられない、不自由な男に成り下がった。
(あの名前はいらない)
姉の敵討ちすらしてやれない弟が、両親に愛される資格など、もうどこにも残っていないのだから。
けれど自由のない今のほうが、なぜかはるかに幸せに思う自分がどこかにいる。
不謹慎だと諌めても、止まらない思い。
リトルセの笑顔ひとつで、何故か、堕ちていた暗闇から一歩ずつ階段を登っていけるのだ。