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「よくここを見つけたものだ」
広くない簡素な一室に案内されていたエンディーンは、入室して開口一番に告げられた無愛想な声にも丁寧に一礼するだけに留めた。
サルナードの神殿の最高位者が、クラウド家の嫡男であると知るものは多くない。そもそも、一般の参拝者が、特別な儀式以外でその姿を見ることなどありえないから、顔すら知られていないのも当然だった。エンディーンも、つい先ほどまでは知らなかった情報である。
だが、機密情報というわけでもないのか、ジュリアスはエンディーンのその情報網を訝しんでいたかもしれないが、追求はしなかった。
「早急の要件とお見受けするが?」
「はい、リトルセ様のことで」
エンディーンの行動は何もかも、リトルセのためであるとジュリアスも知っているはずだった。
「……すべてを」
「?」
「リトルセ様のすべてを、お守りいただきたいのです」
拾われた四年前からずっと、それはエンディーンの役目だった。
怪我が治り、再び手にした剣で、自分の命を守ってくれた少女を守った。どんな行動も言葉も、決意も笑顔も、リトルセだけのためのもの。
彼女が婚約しても結婚しても、それは変わらず続いていくはずだった。
「私が貴方にしようとした所業を知ってなお、それを申すか?」
「ええ。婚約決定が間近であったリトルセ様のためを思えば、私を拾うなど論外でしょう。私がその立場であってもそうします」
一使用人にしては尊大な物言いであったが、ジュリアスは気分を害された様子もなく頷いた。
「カリス殿ではなく、私に頼むその理由は?」
たしかに通常ならば、赤の他人ともいえるジュリアスではなく、婚約者であるカリスこそがリトルセを守るのにふさわしいと誰もが思う。
「貴方だけが、唯一、損得抜きにリトルセ様をお守りいただけると思ったからです」
変化のなかった表情の中で、わずかに瞳が揺れるのをエンディーンは見逃さなかった。
権力を最大限に駆使できる立場、彼自身の持つ肉体的精神的強さ、そしてそれらすべてを惜しみなく使ってリトルセを守ろうとする意志。
どれも欠けることなく持ち合わせるジュリアス=クラウドであればこそ、エンディーンは安心して任せられる。
「……あの家出の原因を、ご存知なのでしょうか?」
それが、エンディーンがカリスを頼らない理由。
「―――家出、だと?」
ジュリアスにそのことすら知らされていなかったことを、エンディーンも知らなかった。珍しくはっきりと驚愕をあらわにするジュリアスに、エンディーンもまた瞠目する。
「実際には、わずか半日の遠乗りで終わってしまったのですが」
瀕死の重傷を負ったエンディーンを見つけたからこそ、リトルセは自分が覚悟の家出をしたことすら失念して、屋敷に連れ帰ってくれたのだ。そして、リトルセには分からない理由で渋るジュリアスに、エンディーンの治療を懇願した。
「家出したのは、カリス様とのご婚約に悩んでおられた、とか……」
「しかし、その話は三月も前にリトルセに伝えてあった」
あまりにも直截的なジュリアスに、思わずエンディーンは気づかれないほどのわずかな優しさで微笑んだ。
主人にと決めた幼い姫君は、健気で愛らしい。
必死に一人、耐え忍んでいたのだろう。
敬愛するジュリアスの言葉に、否ともいえず。
だが、衝動的に屋敷を抜け出し、森の奥でエンディーンを見つけた。
(あのとき……泣いていらした)
朦朧としていた意識の中で、ぼんやりと思い出す、幼いリトルセ。エンディーンを見つめる瞳は、涙で赤く腫れていたのだ。
それが、彼の見たリトルセの、最初で最後の泣き顔だった。
いまのリトルセは笑ってくれる。
エンディーンを生かし続けるために。
(……ならば私も、リトルセ様のために、できることをするしかない)
痛みを与えられるほどに研ぎ澄まされた双眸を押し隠して、ジュリアスを静かに見つめる。
彼だけが、リトルセを守り、支えることができるだろう。
エンディーンはなぜジュリアスがリトルセをこれほどまでに助けてきたのか、その理由を知らない。だが、リトルセが見せる彼への信頼の心だけを、確かに信じていた。
私情に流されず冷徹に政務をこなし、その家の名ではなく実力を認めさせて、国で重要な地位に上り詰めてきた、彼の手腕は有名だ。その洞察力も類まれなるものを持っている。
だがそれは、女性には発揮されないのか、リトルセの行動の真意を測りきれていなかった。
わざと、深く読むことをやめたのだろうかとエンディーンは推測する。これもまた、自分がジュリアスの立場ならそうするだろうから。
「……承ろう」
彼は、しばらく思案していたが、やがて決意したようにそう告げた。
「我がクラウド家の名において、リトルセ殿をお守りする」
サイロン家を対等なエヴァン王国貴族とみなした、クラウド家としての言葉だった。これにより、サイロン家が正式に保護を求め、クラウド家が応じたという形になる。当主でもない彼が独断で即決していいのかという疑問がよぎったが、エンディーンが気にすることではなかった。
それに……。
「いいえ。ご無礼を承知で申し上げますれば」
「―――なんだ」
これ以上ない確約だというのに反駁するエンディーンに、ジュリアスはわすかに眉根を寄せた。不快を表したわけではないのだろうが、さすがに緊張する。
「家ではなく……貴方様ご自身の。何物にも縛られぬ貴方様のお力を」
クラウド家では、王家の権力の前には屈するしかない。もちろんジュリアス個人としてもそうだが、エンディーンは貴族などというしがらみのないジュリアス自身にリトルセを預けたかった。
「―――約束しよう」
意図を察したのか、すぐにジュリアスは頷いた。
「だが、ひとつ聞いておきたい。貴方はどこへ行く?」
「―――イデアのもとへ」
リトルセを守る者への敬意から、エンディーンは正直に答えた。
「イデア?」
「最近の首狩りは、彼の仕業に間違いありません。それを止めるために、私は行かねばなりません」
エンディーンは、さりげない動作で腰に手を少しだけ手を当てた。
そこにある、短い片刃の剣に触れる。
(……約束を、守れずに申し訳ありません。リトルセ様)
悲愴の先に決意をのぞかせたエンディーンの瞳を、ジュリアスは相変わらずの無表情で見据えた。
「それは、貴方がカストゥールの人間であるからか?」
はっと今度は、エンディーンが息を呑む番だった。