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いつのまにか評価してくださった方がおりました。
ありがとうございますっ!
北の丘に建つ神殿は、王宮とはまた違った厳かさにあふれているが、貴賎の差別なく人々を受け入れる。
「おや、久しぶりのお客様ですね」
顔なじみの神使いに一般人の入れない客室まで案内されたジュリアス=クラウドは、衣擦れの音も優雅に帳をくぐる男の声に顔を上げた。
「君が来ると神殿が少し騒がしくなるからわかりやすいのですよ」
指摘されるまでもなく自覚していたから、ジュリアスは反論しなかった。
身分が知れるようなものは何一つ持っておらず、いつもより質素な衣服に身を包んでいるのだが、風貌からにじみ出る近寄りがたい威厳が、人々から遠巻きに視線を送られるのは常であった。
さらにこの美貌である。人目を惹かないはずはなく、とくに女性たちの声であたりは騒然となるのだった。
「何か飲み物でも?」
「いや」
白い衣を纏う青年は、静かにジュリアスの前の椅子を引いた。
菓子や果実酒が前の卓子には置いてあったが、彼も手をつけていなかった。
しばらくの静謐。
「またリトルセのことでしょう」
確信を持って問われ、ジュリアスは無言で彼の視線を受け止めた。
「君が神殿を頼りにすることなんてめったにないし、神に縋ったりなんてしないだろうし、それでも―――」
「ジェイド、兄上」
饒舌に、だがあくまでゆったりと話を続ける男を、ジュリアスは一言で制した。
「私は神殿や神のためにここへ来たのではありません」
この言辞によって、彼が何を求めて訪れたのかが自然と知られてしまうのだが、ジュリアスはもうかまわなかった。このジェイドの前で、何を取り繕っても無駄なのは、当の昔に悟っていることだ。
「嬉しいことを言ってくれるようになりましたね」
けれどこの兄は、そんな言葉を紡ぐときでさえ、歓喜も悲愴も煩累も、その表情には乗せていない。
ジュリアスのように意図的に他人に見せていないのではなく、彼には感情と言うものが極端に少ないのだ。
「リトルセは、大きくなりましたか?」
「もう十二になりました」
時の流れをあまり実感していないジェイドは、少し遠い目をしてそのころを思い出している仕草をした。
「―――心配しているのでしょう。成長すればするほど貴方に似てくることに」
「……―――」
「だからこそ、社交界に出る前に彼女を婚約させて、誰の目にも触れぬよう隠したのでしょう? ……正しかったと思いますよ」
あくまで客観的な感想のように、彼は付け加える。
彼は感情をほとんど知らないが故に、直接的に感じた言葉でしか物事を語らず、嘘で覆い隠すことを知らない。ジュリアスよりも六歳も年上で、四十に近い年齢でありながら、どこまでも純粋という言葉のみが似合う青年だった。
だからこそ、ジュリアスも彼の眼前にいるときだけは、自分の素直な感情と向き合うことができた。
ジェイドは鏡のようだったから。
何も隠せずに、すべてを映し、反射する……銀色の双眸。
「リトルセのあの髪が、俺に罪を思い出させる……」
ジュリアスは、彼の無心の瞳に耐え切れず立ち上がった。
窓のほうに移動すると、今にも降り出しそうな曇天が、木々の間からのぞいていた。
「罪、ですか?」
予想外の一言を聞いたのか、ジェイドは反芻した。
「愛、ではなく?」
何事にも頓着しない彼からそんな言葉が聞けたことに、ジュリアスは少なからず驚愕する。クラウド家の嫡男としてではなく、兄として、少しでも弟に興味を持ってくれているのだろうと知ってほっとした。
「……そのような言葉で綺麗事にはできません」
初めは無垢な恋慕だと信じていた。
けれど、いとおしく、慈しむことが罪だと知ってからは、どんな美しい言葉も闇の中に消えていった。
(それでも追いかけて、この心までも闇に落としてもいいとさえ思うほどに)
なのに、わずかに残る自尊心や責任感がそれを許さない。
なにより、ジュリアス以外誰もそれを望んでいないから。
「でもまだ、リエルを愛している?」
「―――違う」
ジュリアスは窓の格子を握り締めた。
忘れたふりをしていた、あのころの感情が、とめどなく溢れてくるのを必死で抑えるために。
(愛、ではない……あれは、あのころのあれは、束縛、独占欲……)
水の中で呼吸を求めるように、砂漠の乾きに水を求めるように、狂おしいほどにただ……腕の中になければ生きていけないと思っていた。
「違うんです……」
簡単に愛していると言ってしまえるのが、この兄でなかったら、ジュリアスはそんな感情をなにも知らぬくせにと一笑できた。
彼は他人を憎まないが、けっして愛してもいない。
「……―――」
風の強い音を感じて、ジェイドはふと顔を上げた。
舞う紅葉の一枚が、ジュリアスの肩に落ちる。
「……秋は悲しいほどに綺麗なんですね」
その唇にわずかな微笑みにも似た思いを見せる。そのとき、彼の思考から、一瞬だけジュリアスが消えた気がした。
(自然物だけが唯一、兄の心を捕らえて離さない)
そのときだけは、無の表情が揺らぐのだ。
そして囚われたジェイドにとって、クラウド家という名も弟であるジュリアスも、ただの他人と変わらなくなる。
「―――やはり家に戻る気にはなれませんか?」
「なりません」
振り返ったジュリアスの唐突な問いにも、ジェイドは眉ひとつ動かさなかった。返答もまるで問われることをわかっていて用意していたかのように、間髪入れない素早さだ。
なれないのではなく、ならないのだと。
「何故、ただの神使いではなく、最高位を拝してまで尽くすのですか」
白の長衣はすべての神使いに共通しているが、彼は金糸の肩掛けを羽織っている。
金は、天から降り注ぐ光の色。
すなわち、天神クリスナードの分身たる証だ。
「ここは、万人への愛を装うのが簡単ですし、世界が平等であると錯覚していられますから」
ジェイドは、自分の心すら偽ることができない。伝えるのは、いつも、端的な本心だけ。
無償の愛だけで、外傷も心の傷も治していく神殿。
最高位の神使いでありながら、神など信じていないのだと、こうもはっきりと口にしてしまえるのは、ときおり怖いことだとジュリアスですら思う。
「今年でちょうど二十年にもなりますよ」
「そう、だったかも、しれません」
ジェイドは他人だけでなく、自分にさえまるで無関心な様子で答えた。
「一つ年を重ねるごとに、綺麗な雪を見る気がしますね」
話題を逸らすかのように、ジェイドは言う。だが実際そう感じたのはジュリアスだけで、当の本人は思い立ったことをそのまま口にしただけにすぎぬのだろう。
無機質な静寂の中、隠さない足音が近づいてきているのを感じて、ジュリアスは帷に視線を向けた。
「ジュリアス様にお客様がお越しでございます」
貴人に対する礼儀を心得ている、丁寧な物腰をうかがわせる口調が、開けられていない帷の向こうから聞こえた。
「名は?」
「エンディーン、と名乗り申し上げております」
ジュリアスはわずかに眉を動かした。