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「……怒ってる?」
いつものように寝台に横になったところを見届けてから部屋を出て行こうとしたエンディーンの背中に、小さな主人は恐る恐るといった口調で声をかけた。
「は?」
想定していなかった言葉に、振り返った彼は思わずぶしつけに聞き返していた。
リトルセは薄手の布を鼻までかぶり、大きな瞳だけをのぞかせてエンディーンを見つめている。
計算しつくした態度なのだとしたら、どんな美女でもかなわない。
「ユティア様たちを受け入れること、カリス様にしか相談しなかったから?」
「……そんなことで拗ねるほど、私は子供ではありませんよ」
エンディーンは苦笑した。
簡単に自分を落とせる視線を送りながら、その言葉は年相応に可愛らしかったから。
「そう、よね。わかってるわ」
少女は笑う。
いつものように。
約束のために。
美しいものに変換されたこの束縛が、エンディーンに優しく呼吸の仕方を教えてくれる。
少しだけ躊躇ったのち、踵を返してリトルセの寝台に腰掛けた。彼女は細い指を伸ばしてきて、柔らかな髪に触れる。
「ずいぶん伸びたわ」
「リトルセ様が切るなとおっしゃいましたから」
「ええ、だって綺麗なものを捨ててしまうのはもったいないのだもの」
その指のぬくもりを、首筋にわずかに感じて、エンディーンは彼女の手を取った。
たった十二歳の、自分よりも十歳以上も年下の少女だというのに、理性が歯止めを聞かなくなりそうな危うさを初めて覚えた。
つかんだ指先は、陶器のように滑らかだ。けっして幸福とはいえない境遇の中にあっても、彼女は常に大切に養育されていた。
「ユティア様たちとこのお屋敷に戻ってきてから、エンディーン、ずっと辛そうな顔してる」
「―――リトルセ様」
「隠しても無駄よ。私にだって分かるわ」
「……」
優しい嘘すら、紡ぐのが難しくなる。
彼女を無垢なままでいさせるために、どれだけの苦労をしても厭わないというのに、彼女はそれすら許してくれない。
固い決意すら、簡単に崩れてしまいそうになる。
「このところ、心配な出来事が多いので」
当たり障りのない言葉を、慎重に選んだつもりだった。
だが次の瞬間、それがいかに無意味だったか思い知ることになる。
「そうよね、湯浴みのときすら心配してくれているのだもの」
「―――っ!」
まさか気づかれているとは思わず、エンディーンは息が止まりそうになった。
思わず身体を離そうと立ち上がりかけるのだが、エンディーンがつかんでいたはずの手をリトルセが逆に握り返してきて、それすらさせてくれなかった。乱暴に振り払うなどということができるはずもなく、しかたなく腰を落ち着けた。
だが、心はまったく落ち着いていない。
「リ、リトルセ様……っ。あ、あのけっして覗いたりは―――」
変な誤解を与えてはならないと、エンディーンは必死で取り繕う。その動揺ぶりは自分でも制御不可能なほどで、声すら掠れていた。
通常ならばエンディーンもここまで過保護にしていない。けれど、今はあまりにも不安要素が多すぎた。名誉にかけてやましいことなど一つもないのだが、誤解されてもしかたがないことをしていたのは事実で、言い訳の言葉を失った。
「そうね」
「あ、あのリトルセ様……」
彼女は、一言でうなずいて終わった。誤解されたままなのかどうか、彼女の笑みの真髄は、混乱したままのエンディーンではまるでわからなかった。
「私、ね」
つかんでいた指先が、少しだけ震えた。
それに気づいたのか、リトルセはそっと手を引いて、エンディーンのぬくもりから逃れる。
「少しだけ、後悔、しているの、かも。エンディーンにまた、剣を持たせてしまうこと」
「リトルセ様」
「だって、もうエンディーンには平和で殺し合いのない生活をしてもらいたかった。だから決めたんだもの。私が笑ってあげるからって」
それがリトルセの束縛。
『私が笑ってあげるわ。貴方の分までたくさんたくさん。絶対泣いたりしない。暗い顔だって見せない。だから、その約束が守られている間だけでいいから……生きていてほしいの』
そして、エンディーンは受け入れた。
リトルセが笑顔でいるかぎり、エンディーンは傍らで生き続けるのだと決められた。
「これは私の意志ですよ、リトルセ様。貴女が後悔する必要はどこにもないでしょう」
「でもそうさせたのは」
「いいえ、選んだのは私です」
リトルセにそんな言葉を言わせたくなくて、エンディーンは早口に付け加えた。
ユティアたちがこの屋敷に来るようになって、たしかに危険度は増したかもしれない。けれど、それを承知で決めたのはリトルセなのだ。エンディーンにとっては、どのような状況になったとしても、彼女を守るという大前提は変わらなかった。
「ユティア様をお助けするという決意には、後悔していらっしゃいますか?」
「いいえ」
リトルセは躊躇わずに、はっきりと首を横に振った。これだけは紛うことなき真実だと伝えるために。