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浅い湯船に浸かりながら、リトルセと過ごす夜がユティアの日課になっていた。
薄い布を一枚身体に巻いただけの姿だったが、ここにはリトルセのほかに誰もいない。
彼女の奏でるタンデラの笛の音が、密閉された部屋に、湯気とともに漂っている。
これは紅秋歌といって、エヴァン王国では子供のころからよく聞くような有名な歌らしいのだが、ユティアたちはエリシャ出身だし、そのような歌を教えてくれる大人はユティアのそばにいなかった。
「昔は豊穣を祈って歌った、儀式のためのものだったのですって」
タンデラを脇に置いて、彼女はそう付け加えた。
「これ難しいのに、リトルセはすごいね」
ユティアも何度も練習してみたが、音が出るだけでやっとだった。陶器で出来ているせいか、通常の木製の楽器とは違うのだとリトルセは以前に説明していたが、ユティアはそもそも木製の楽器というものすら触ったことがない。
「シオン様にはかないませんわ」
「どっちも上手だと思うけど」
素直な感想を口にしたユティアに、リトルセは顔を向けた。
「タンデラは陶器で作る楽器。とても珍しく、高価なものです。それをあのようにお弾きになるなんて、本当に特異なことですけれど」
エヴァン王国だけでなく、どの国にも浸透しているものではあるが、ほかのどれとも異なっているから、数日で弾きこなせるはずのない楽器。
だが、シオンは戯れで借りたタンデラを、すぐに弾いた。それも、名手と呼ばれるほどの腕前で。
「シオンってなんでも出来るみたいだし、なんでも知ってるみたいだよ」
そしてそれに違和感を覚えさせない。彼の貴公子のような風貌には、たしかに楽器は良く似合っていた。
「リトルセもいろいろできるんだよね」
裕福な生活だからこそ、こういった娯楽に時間を割く余裕もできる。自分の過去と比較して羨望や卑下といった感情は浮かんでこないけれど、不公平だと時々感じてしまうことはどうしてもある。
(誰だって平等じゃないの、わかってるのに)
上が少し見えてきたせいで、さらに上のものを望んでしまう自分。
今もなお、奴隷の立場に置かれている子供たちから見れば、ユティアも羨望や嫉妬の対象になり得ることはわかっている。
(これ以上、何を望むの? リトルセみたいに、お金持ちの生活をしたいわけでもないのに……)
貪欲に、手に入らないものをどこかで希求している。
いつ命を落としてもおかしくない状況から解放されて、ユティアにも生というものに対して余裕ができてきた。
カディールが約束してくれた、未来というものを望んでもいいかもしれないと思えるほどには。
「リトルセは、誰かにその笛を教えてもらったの?」
なにげなく、ユティアは尋ねた。
不遇な時期もあったと聞いているが、高価なそれを、リトルセも他人を魅了できるほどには弾きこなせていた。
「……これ、は」
リトルセの指が、置いたタンデラに触れる。
一呼吸だけ、間があった。
「ジュリアス、様に……いただいたの。奏で方も、教えていただいて」
ユティアには恐怖としか思えない彼の存在も、リトルセの中ではなにか至高の宝物のようだった。
わずかな風で飛んでしまいそうな綿を、必死で抱きしめているような。
「―――怖く、ないの?」
思わずユティアは、そう口に出していた。その言葉が思いもよらなかったのか、リトルセは不思議そうに首をかしげた。
「こわい?」
「う、うん……あの、ひと。だっていつもわたし、にらまれてるみたいで」
殴られるときとは違うし、彼はユティアを下賤な者よと見下しているわけでもないとわかっているのだが、容赦のない威厳というものに接したことのないユティアには、ただの恐怖にしか映らなかった。
リトルセには何が恐怖の対象なのかもわからなかったようだが、ユティアの言葉で少し納得したようにひとつうなずいた。周りからそう見られがちだということは、さすがに認識しているのだろう。
「ジュリアス様は、ご自分にも他人にもとても厳しいお方ですから……。でも私は、ジュリアス様にすべてを教えてもらいました」
広い湯船の片隅に座って、リトルセはその水面をじっと見つめていた。
「ユティア様、は……その傷を隠そうともしないのですね……」
目を合わせないで、リトルセは尋ねた。
今でもユティアには、手足や背中に消えない傷が残っている。奴隷の名残の刻印のように。
誰かに殴られるなど想像もつかなかったのか、リトルセは初めてこの傷を見たときは心底驚いていたようだった。
「うん、もう新しい傷はないから、かな」
この傷跡を見て昔を思い出してしまうのはたしかだったが、これが増えたり悪化しないことを確認すると逆にほっとする。今が夢ではなく、あの日々が過去だったと、再認識できるのだ。
「私はそんなふうに、自分の過去とまだ……見つめあえない」
うつむくリトルセは、ユティアに初めて悲しそうな表情を浮かべた。
けれどその瞳だけは涙ぐむこともなく、何かをにらむような光を帯びていた。
たった十二歳の少女が持っているのは、大人たちよりはるかに短い過去なのに、なぜ幸せだけをつかんでいられないのだろう。
「私の父はいつも忙しそうにしていて、女の私に構っている余裕はなさそうでした。そのうちにあんな事件があって、私は一人になってしまった」
仲の良かった使用人もいつのまにかいなくなって、知らない大人たちに囲まれるようになった。
父も兄も、気づいたらどこにもいなかった。
聞こえてくるのは、詮無い陰口。
あのサイロン家が、と。
それらは、直接言われるよりもなお、リトルセの心に深い傷を残す。
「こんなことなら私も、お父様といっしょに死んでしまいたかったと思いましたわ。……でも、ジュリアス様が助けに来てくださって、このタンデラも、読み書きも、馬の乗り方も……もう一度笑う方法、も……すべてを教えてくださいました」
ジュリアスがなぜそこまでリトルセを助けてくれるのか、リトルセ彼女自身にもわからない。
ただ、彼に救われてリトルセは今、生きている。あのころ近くに刃物があったら、間違いなく自害していたと今でも思うから。
(そんな、優しい人、だったんだ)
一日しかジュリアスのことを知らないユティアには、想像することすら難しかったが、リトルセが全身で信頼を寄せているのは間違いないのだから、そういう一面もあるのだろう。
リトルセの彼に対する信頼は、むしろカリスに寄せるものよりも強い。
これほどの絆があれば当然かもしれない。
それが恋慕という種類の愛でなく、尊敬や感謝だとしても。
「だから私、エンディーンを助けることができたのですわ」
顔をあげたリトルセは、もういつもの微笑みを浮かべていた。
リトルセがエンディーンの話をするときは、いつでも満面の笑みで楽しそうで、ユティアまでつられそうになるほどだった。
「エンディーンはね、すごい大怪我で南のはずれにある森の中にいたのです。そのとき私、家出していて……」
「家出?」
深窓の姫君のように見えるのに、リトルセの行動力は少女のそれではない。ユティアに会うためにカイゼまで出てきたことでもそれを十分にうかがえた。
「ええ。そのときエンディーンがいて、私、お屋敷に連れてかえったのです。ジュリアス様、ひどく驚かれていたけれど、手当てをさせてくださいました」
リトルセは幸せそうに笑う。
ちゃんと、呼吸の出来る場所を手に入れて。
家出するほどつらい出来事があった日を、リトルセは良い記憶に変えていた。