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【夢幻の大陸詩】 Blue Bird & Black BloomⅠ ~勇の章  作者: 水城杏楠
十一章  一歩という距離
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「……逃げ、て」

 消え入りそうな、小さな声。

 けれど、そんな切羽詰った声を聞いても、同情はまるでなかった。そんな感情を、彼は誰にも教えてもらわなかったから、この世に存在することすら知らなかった。

「ばかいえ、お前だけ置いて……っ」

「あんただけなら逃げられるっ」

 コスティ大河の西。

 治安が悪いせいか、日が落ちると人気はかなり減っていた。代わりのように強盗たちが徘徊する時間帯なのだが、この裏路地の異様な殺気を悟ったのか、あたりには誰もいない。

 その男女は標準的な剣を、それぞれ握っていた。

 血のついていない銀色が、闇に強く映える。彼らが切ろうとしていたものは、無傷でそこに立っていた。気配すら感じさせず。

「……見つけた」

 まだ幼いと表現できる、十代前半の少年。その容姿も、二人の大人を見つめる大きな双眸も。

 ただ右手には、純粋に見えるその瞳には似合わないものが握られている。

 長い鞘。それは、彼の身長ほどもある。このあたりでは珍しい反りのある刃の、偃月刀だ。

「もう、逃げないで。ねえ、早く死んで?」

 首をかしげて、まるで菓子でもねだる無邪気な幼子のような表情をする。

 少年にはわからない。なぜ彼らが悪あがきをして逃げ続けるのか。

 もう、末路は決まっているのに。

 どうして手間を取らせるのだろう、と。

「俺たち、仲間だろ。こんなことしても」

「な、か、ま?」

 知らない。そんな言葉は。

「そうだろ? 俺と姉が竜巻であの舟を襲ったのだって、任務……だろ? せっかくあの男の力を確認する好機だったのに、変なやつに邪魔されて怒ってないのか? 俺たち、おなじだろ」

「おな、じ……」

 初めて覚えた言葉のように、拙く反芻する。

 少年は再び首をかしげた。脳裏を疑問が掠めるけれど、納得することにしてすぐに頷いた。

「そう、僕とおんなじなんだ? じゃあ、よかった」

 男女は、思わず剣を取り落としそうになるほどの恐怖が全身を駆けるのを感じた。

 そんな形相を見ても、彼の表情は崩れなかった。

 同じものならば、きっと受け入れてくれる。

 このまま早く死んでほしいという願いもすべて、受け入れてくれるのだと思った。

 うれしかった。

 だって今まで誰も、彼を前にして素直になってくれないから。

「―――化け物、め」

 男が口走る。正気を失ったような、血走った瞳でにらんでいる。

 そう、と少年は呟いた。無表情のまま。

 化け物。

 そんな言葉、聞き慣れている。自分のことだと、気づいたのはいつだっただろう。

「ねぇ、あのひとは間違ってる。わかんないの」

 女は不思議なほど冷静に、ゆっくりと言葉を紡いだ。声の震えは隠せなかった。けれど、そんな語調に、少年はまるで気づかない。

「間違って、いません。ルキ、さんは、世界、だから」

 少年は少し笑った。彼女の言葉を狂言か絵空事であるかのように。叶わぬ夢を語る幼子を見つめるような、美しすぎる慈悲と愛情の瞳で。

 薄紫の瞳は、毒のように、ひとを殺せる光を煌めかせた。

「ね? ルキさんの邪魔をするなら、もう、いらないんだよ」

「……やめ―――」

 甲高い悲鳴と重なったのは、一陣の風。

 何が起こったのかを理解するより先に、女の前に男が血を流して倒れていた。いつのまに刀の鞘を抜いたのかすら、その男女にはまるで見えなかった。

 少年の前で、人間は、あまりにも脆く儚い。

 たとえ、この二人が力を合わせれば巨大な竜巻を操ることができるほど、魔剣使いとして一流の腕を持っていたとしても。

「煩いのは、ひとつ、消えた、よ」

 みるみる広がっていく血だまりが、少年の足元を少しだけ濡らして、地面に染み込んでいった。

 少年は、それを見ても限りなく無表情で、女に視線を送る。

 女は慟哭の叫びを、必死でかみ殺した。

 今まで味わったことのない敗北感と、自然に湧き上がる純粋な畏怖。それらを悟られないようにこぶしに力を込めた。

「罪なきひとを、殺めるのは、ゆるさない……っ」

「あなたの赦しは、僕は、いらない」

 震える女の声に、珍しく間髪入れずに返答する彼の一言は、わずかな風が流れただけのように感じる。体温がなく、単調な音。

 長い刃が再び闇夜に閃いた。

 瞬きよりも短い時間に、女の首は声を上げることもなく、切り離された。

 けれど少年は、地面がそれを受け止める前に踵を返す。もう、こんなものに用はなく、実際すぐに忘れてしまうほどの些細な出来事でしかなかった。

「これ壊れたぞ。まだ改良が必要だが、実験を重ねる余地はあるな?」

 唐突に掛けられた声。

 びしょ濡れの大きな布を抱え、両足を投げ出して座り込む少年がすぐ足元にいても、彼は驚かなかった。

 抜き身のままの刃を拭くものはないかとあたりを見た。

 ちょうど殺したばかりの男が足元に転がっていて、その外套をむしりとる。

「なぁ、イデア」

 幼い少年は、名前を呼ばれて刀身を磨きながら顔を上げた。この名前を臆することなく口に乗せる者は、彼の周りでは稀少だったから。

 少しだけ年上の少年もまた、この惨劇を目の前にしても眉の一つも動かさない。彼が興味を持つのは、自らの余りある才を活かせる事柄だけだった。

 その彼は、少し不機嫌な顔をしてイデアを見上げた。

「おれは少しばかり残念だぞ。あの竜巻はなぁ、実験としてはよかったのだがな。中身が少々強すぎた。バランスが大事なのだ、わかるか? 罰としてちゃんとやれるまで許さないからな」

「……?」

 罰という言葉に、イデアは再び首をかしげた。今日は知らない言葉が多すぎた。

「そう? 竜巻、作ればいいの?」

 兄の命令を真摯に聞く弟のように、イデアは答える。

 長い偃月刀を鞘に収めて、左手を高く上げた。

「待て待て待て。まだおれも準備ができてないのだ。今日の失敗は少しばかり堪えた。反省すべきこと多し。しばし待て。わかるか? おれの芸術作品は一夜にして成らず」

 イデアは黙って、手を下ろした。

 彼とは昔からの既知だったわけではない。この国に、この街に来て、いつのまにか知り合った。彼はイデアの名前を知っているけれど、イデアは彼の名前を知らない。だが、イデアはそんなことにすら気づいていなかった。

 ただ、この少年と付き合うのは不快ではなかった。人付き合いなどできなかったイデアが、ルキという世界以外で初めて見つけた、相手を殺さずに自分でいられる場所だった。

 ルキは、邪魔なものは排除すればいいのだと言っていた。だからイデアもそう思うことにして、実際にそうしてきた。

 けれど、この少年は、ルキと同じくらいにはイデアに近づいてきているのに、まだ排除したいとは思わなかった。邪魔ではないからだ。

 少年は、この世の瑣末事に欠片の関心すら寄せない。だから楽だった。

 彼らが関心を寄せるものは、少し似ている―――イデアはそう思う。自分と近いなどというのは、本当に珍しいことだった。



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