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「あの馬鹿が……こんなところで何を」
窓の外を眺めて漏らされた小さなつぶやきは、同じものを食い入るように見つめていたユティアにまでは届かなかった。
じっと座っていることすら難しかった揺れも、いまは収まっている。
そうとう恐ろしかったのか、リトルセはひどく震えていた。ユティアも恐怖を感じなかったわけではないが、幸か不幸かこういったことには鈍感だった。
人の悪意ほど恐ろしいものはないと知ってしまっている。そもそも誰かに縋ることに慣れていない。
ユティアが振り向くと、何事もなかったかのように優雅に座ったまま、リトルセの肩を軽く抱きしめるジュリアスの双眸と合った。とっさに怖いと思ってしまったのだが、よく見ると以前ほどの威光を放っていなかった。
「……行ってこい」
ジュリアスはユティアの視線の意味に気づいて、短くそう告げる。
「でも……」
「リトルセは大丈夫だ」
ユティアとしてもカディールたちの安否が心配だ。なにより、突然この揺れが収まったことも気になって、二人を残して甲板に出た。
そこでは、カディールとエンディーンが、河に落ちた男をちょうど引き上げているところだった。
びしょ濡れの男は、甲板に腰を下ろし、しばらく呆然といった表情で空を仰いでいた。濡れているせいか、あちこちに藻をつけたままのせいか、貧民街にいるような印象を受ける、くたびれた格好の男だった。
よく見れば、まだ若い少年のようだ。
「大丈夫ですか?」
エンディーンが静かに声をかけても、彼は心ここにあらずという瞳で、彼らを見やっただけだった。何か考え事をしているようだった。
「大丈夫じゃねぇんじゃ……」
カディールがそう口にしたとき、男は誰にともなくうなずいた。
「うむ。矢が刺さっても割れぬような作りにしないといかん。軽くて丈夫なもの……なかなか難しい議題であるな」
「は?」
木の破片が刺さって破れた布を握り締めての一言だった。
空を飛んでいたところは、ユティアも見ていた。不思議なひとだ。そっと近づくとカディールが気づいて顔を上げた。
「ユティア、大丈夫だったか?」
「う、うん。……あの、そのひと、は」
カディールは複雑な表情をした。
いちおう、命の恩人である。彼がいなければ今頃この舟は、原型をとどめていなかっただろう。舟にいる十数人も無事ではすまない。この舟だけでなく、巻き込まれそうになっていた周りの渡し舟にとっても、彼は恩人だった。
ユティアとともにリトルセがいないことが気になったのか、エンディーンが少し頭を下げてから、部屋のほうへ向かっていった。
「それ、なに? どうして、空を飛んでいたの?」
ユティアは首をかしげて、隣に並んだシオンを見上げた。だが、さすがのシオンも肩をすくめるだけだった。ユティアが知る限り、シオンが答えられなかった初めての質問だったかもしれない。
だが男は、ユティアのほうに視線を向けた。輝いた、期待の双眸を。
勢いよく立ち上がり、ユティアの顔をまじまじと覗き込む。
「おまえ、よくぞ聞いたな」
「え?」
「人はなぜ空を飛びたいと思うのか。わかるか? それは自由だからだ。何もないその空に、すべてが存在するからだ。じゃあなぜ空を飛べないのか。わかるか? その技術を知らん馬鹿が多いからだ。おれか? おれは気づいたのだ。おれが空気よりも軽ければ飛べるのだと。鳥は空気よりきっと軽いのだ。だからこの袋に空気よりも軽いものを集めれば飛べるのだ。すごいであろう。わかるか?」
ユティアは何度も何度も、心の中でわからないと呟いたが、それを口に出す前に、男はさらにまくしたててきた。
「だが、これは失敗だな。あっさりと落ちるようでは鳥になれぬ。自由は掴めぬ。わかるか? おれが目指すものはただの鳥ではないのだぞ」
「……―――」
ユティアを始め、誰にも返す言葉が浮かばなかった。だが、男はその沈黙を同意だと好意的に受け取ったようだ。
「おまえ、このすごさがわかるとは、只者ではないな」
男がユティアの手をがしっと握ってきた。河の水で濡れたままの指は、思ったよりも細く、滑らかだった。まだ二十歳になっていないだろう少年の瞳は、どこか悟ったような光を見せながらも無邪気で、その唇は至極真面目に言葉を紡ぐ。
「じゃあ、嫁に来るか?」
「―――は?」
最初に声を上げたのは、ユティアではなくカディールだった。
「いやなに、おれのまわりで最近早く嫁をもらえとうるさくてな。おまえならおれも許してやろうぞ」
唯我独尊な言葉を飄々と口にし、彼は満足そうにうなずいた。カディールは怒りを通り越して唖然とするしかなかった。さすがのシオンも対処に悩んで口をつぐむ。
突然結婚を申し込まれた形になった張本人のユティアは、言われた意味がまだよくわからず、ぽかんと鳥男とカディールとシオンをそれぞれ見上げた。
(なにが、『じゃあ』……なの?)
あまりにもあっさりとした一言。
困惑以外の感情が浮かんでこない。
しかたないというように嘆息したシオンが、ユティアの肩にそっと手を置いてやっと口を開いた。
「とにかく、助かりました。貴方のおかげで」
男のさきほどの言辞をまったく無視した一言だった。下手に取り繕ったり断ったりするよりも、なかったことにするのが最良と判断したのだ。
だが、男もめげなかった。
「ああ、こちらこそ」
カディールたちに逆に助けられ、この舟に乗せてもらえたことに対する礼のようにも聞こえる。
だが。
「おれもおまえらのおかげで嫁を見つけられた。感謝するぞ。いや、褒美がよいか」
「ち、ち、違うだろおいっ」
だが、カディールの正当な反論は、男の耳まで届かなかったようだった。というよりも、今までの周りの反応はすべて、彼の脳裏に届いていない。
「また会おう。未来の嫁。……っと名前を聞いておかねばならんな」
彼は薄い冬の空のような色をした瞳で、ユティアをじっと見つめた。顔が近い。前髪からしたたる雫がユティアの手に落ちた。
その迫力に思わず一歩下がる。
「てめっ!」
カディールがユティアの腕を強引につかんで引き寄せる。だが、男はそんな態度に憤慨も悲しみも見せなかった。
「寡黙な嫁だな。まあいい。じゃあおれが名乗っておこう。おれは……そうだな」
自分の名を告げるだけだというのに、彼は腕を組んで考える。
空を見上げると、ちょうどそこに白い鳥が飛んでいた。
「白鷺だ。そう覚えておくがよいぞ」
そうして『白鷺』と名乗った鳥男は、近くを通った野菜を運んでいる渡し舟に問答無用で勢いよく飛び乗った。その衝撃に耐え切れなかった渡し舟は、思い切りひっくりかえって乗っていた渡し守や商人、新鮮な野菜ともども河に投げ出された。
「うわぁぁっ!」
「て、てめぇっ。なにしやが……っ」
カディールはもう、助けなかった。