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王都サルナードには、コスティと呼ばれる大河が南北に流れている。
東側が王城や主な貴族の居住区、認可された商人たちの市場などが並んでいて、夜になっても華やかで活気のあるエリアだ。リトルセの住むサイロン家の屋敷は、ここの一番はずれに建っている。
西側は農民や他の都市からの移住者などが住むエリアで、活気がないとは言わないが、やはり治安はかなり悪かった。
その東西を、地上ではコスティ大橋だけが結んでいて、その橋の中央は広場のようになっている。ここが人々にとって街の中心であった。
大河では、小さな渡し舟が何度も行き交い、人や物資がひっきりなしに流れている。
都というものの力を目の当たりにしたユティアは、言葉もなくただぽかんとその様子を大きな舟の上から眺めていた。
「すげぇだろ。このあたりは今までとぜんぜん違うからな」
笑いながらカディールが、ユティアの頭を乱暴に撫ぜてくる。ユティアは何度もうなずいた。ラタの町からカイゼの街に着いたときには、それでもずいぶん大きな街だと思ったのだが、サルナードのこの様子は、カイゼの比ではなかった。
「カディール、君もエヴァンの王都は初めてでしょう。そんな自慢げに話してどうするの?」
シオンの呆れた声に、お前だって初めてだろと反論するも、笑顔で聞かなかったことにされた。
「これは、どこまで行くの?」
舟はコスティ大橋から南下したところにあった貴族専用の桟橋から出発し、ゆっくりとさらに下っている。渡し舟とは違う大きな舟は馬車のような屋根に覆われており、その豪華さだけでもかなりの人目を惹きつけていた。
「この先をずっと下ったところに、クラウド家の別邸があるのです。きっとそちらで休憩して戻るのでしょう」
ユティアの隣に座るリトルセが、窓の外から視線を戻してそう言った。
クラウド家。
エヴァン王家とのかかわりも深いという筆頭名門貴族の名前は、昨日のうちにカリスから聞いていた。クラウド家とつながりを持てれば、これ以上の味方はこの国にいないだろうと言われるほどの莫大な権力と財力、そして影響力は計り知れない。
一時は、王家をも食いつぶすと懸念されるほどだったが、現当主の巧みな立ち回りによって、表面上は絶妙な立場を維持することに成功している。
そしてこの企画を立てたのは、その名門クラウド家の中でも次期当主確実と言われているジュリアス=クラウド。波打つ金の髪が印象的で、普段からシオンと接しているユティアから見ても息を呑むほど美しいと思える容姿であったけれど、無表情に見下ろされたときの威圧感による恐怖心が先に立ち、残念ながら第一印象はあまりよいとは言えなかった。
「それにしても、急な登城でカリス様がご参加できないとは、リトルセ殿も残念でしたね」
「でも、エンディーンがいてくれますから」
少し伏せた瞳でそっと、彼女は外を眺める。舟の甲板に立つエンディーンの背だけが見えた。
彼もここで座っていいと言われたのだが、あくまで護衛であり使用人だからと彼が言い張った結果だった。あまりにも親しくしていると、カリスの婚約者としての立場も微妙なものとなりかねないということをリトルセもわかっているのだろう、エンディーンの頑固な物言いをあっさりと認めていた。
「リトルセ殿」
ふいに帷が上げられ、長い金髪がはらりとこぼれ落ちてきた。
「軽い食事を用意させた。そちらでは狭い故、私の部屋でどうだろうか」
「あ、ジュリアス、様……そんな、お気遣いなく……っきゃぁっ」
リトルセは突然の貴人の登場に驚いたのかあわてて立ち上がり、舟の揺れでバランスを崩した。いくら大きな舟で座っていれば揺れにほとんど気づかないとはいえ、流れのある大河を進んでいるのだ。
条件反射的にカディールが手を伸ばしたのだが、それより早くジュリアスの腕が彼女の小さな肢体を支えた。ゆったりとした袖から垣間見えた腕は、その美貌に似合わぬたくましくしなやかな筋肉がほどよくついていた。
「大丈夫か」
「す、すみませんすみません……」
無礼と思えるほど強引にその腕から逃れようとしたリトルセだったが、ジュリアスは彼女をひょいと片手で抱え上げて放そうとしなかった。
「―――えっ! あ、あの……っ」
戸惑いの色を顔全体ににじませたリトルセにあえて視線を向けずに、ジュリアスは社交辞令の笑みすらちらとも浮かべずユティアたちに声をかける。
「客人らも、こちらへ」
「ありがとうございます」
シオンは、疑問などなにもないかのような、完璧な微笑と謝辞を返した。
「あんたも気をつけろよ」
「う、うん」
気に留めた様子もなくすたすたとジュリアスのあとを追っていくユティアとカディールの後ろ姿を見やって、シオンはそっと呆れたため息をついたのだが、それすら彼らに気づかれることはなかった。
ユティアたちは客人のための部屋の向かい側の帷を開けた。
多少揺れることをのぞけば、家の中とほとんど変わらない様子にユティアは驚いて足を止める。
窓の外を眺めれば間違いなく河を下っているのだが、そこは舟の中だというのに昔ユティアが母と生活していたあばら家の何倍もある広さだったのだ。さきほどまでいた客室は、長椅子があるだけの馬車のような内装だったからまだ納得していたのだが、これで舟だというのだから、躊躇もするというものだ。
ジュリアスはユティアたちをカリスとリトルセの友人としか紹介されていなかったが、相応の身分ある客人として扱い、詳細はなにも尋ねてこなかった。
使用人たちが、切りそろえた果物や暖かい飲み物などを用意して部屋を出て行った。
だがジュリアスは、席についても客人をもてなす言葉の一つもない。
ユティアの気分転換にちょうどいいと思っていたカディールだったが、これでは自分の息がつまるだけだと内心舌打ちしていたのだが、さすがの彼もエヴァン王国屈指の貴族に対して文句を言わないだけの常識は持っていた。
ユティアはいけないと思いつつも、ついきょろきょろとあたりを見回してしまう。見たこともない絵が壁に描かれていたし、置いてある壷も綺麗だ。彼の趣味のよさを推し量れる部屋なのだが、ユティアは一口食べた果物のあまりの甘さに驚いて、そんなことはどうでもよくなってしまった。
「このような遊覧にお招きいただいて、ありがとうございます」
必然的に、社交的な世辞を述べるのはシオンの役目になった。
「いや、リトルセ殿がカイゼまで赴いて連れてこられた友人と伺っているからな」
「……ええ」
返された一言に、シオンの返事が一呼吸だけ遅れた。取り繕うようにリトルセが口を開く。
「そうなの、です。あの、昔からの友人、で……」
「私は何も知らぬし、我がクラウド家には関係のないことだ、リトルセ殿」
「は、はい……すみません……」
ジュリアスは真実どうでもいいことのように、果物を口に運んだ。
「この舟はとても機能的に―――」
沈黙が苦痛に変わる直前に、シオンが話題を変えようと言葉を発したそのとき、甲板から悲鳴のような声が聞こえた。
「なんだあれはっ!」
そんな声も聞こえて、電光石火の勢いでカディールが甲板に走っていく。追いかけようとしたユティアとリトルセを、シオンが止めた。ジュリアスも顔色ひとつ変えずに立ち上がり、窓の外をそっと見やった。
舟が少し、揺れている。先ほどまではほとんど感じなかったものが、今では座っていても感じられるほどになっているのだ。
「いいですか。ユティア、何があっても出てきてはいけません。危険ですから」
シオンの真剣な眼差しにじっと見つめられ、ユティアはひとつうなずいた。そうするしかなかった。
(……わたしは守られてるだけで、なにもできない)
だからせめて、邪魔にならないようにするしかなかった。