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その日の夕方。
遠く、タンデラの笛の音色を聞きながら、ユティアは顔を上げた。
いつのまにか窓の外は少し暗くなっているのに、ふんだんに使われたランプのおかげで部屋は相変わらず明るい。
「どうなさいましたの? ユティア様」
向かい側に座っていたリトルセが、不思議そうに問いかけてくる。
なんでもないと首を振って、ユティアはまた手書きの本に視線を落とした。
集中していたつもりだったが、一度途切れると上の空になってしまう。それに気づいたリトルセが首をかしげて言葉を重ねた。
「……お疲れなのでは? そう、ですよね。ユティア様は慣れていらっしゃらないのに、私、気づかないで」
「そ、そんなことない。あの、楽しい、し」
「朝からお出かけだったのでしょう。カディール様と」
「う、うん。そうだけどべつになにも」
縁取られた海を見に行ったことはシオン以外には言っていない。こっそりと神殿に侵入したのだと、権力のあるサイロン家に知れたらさすがにいいことはないだろうというのはユティアでもわかったからだ。
けれど、それ以上になんとなく、秘密の場所にしておきたかった。こんな感覚も初めてだった。
「いいえ。エンディーン、休憩にしましょ」
強引にリトルセは机の上にあったすべての本を閉じた。
このリトルセの部屋だけでなく、ユティアに割り当てられたものも、たったひとりの部屋とはとうてい思えないほど広いし、屋敷自体もカイゼの街にあるミントのものよりもずっと大きい。敷地内には小川が流れて池もある。花畑が見事だし、すべての調度品も豪華の一言だ。
そんな環境の変化で、落ち着いて生活するほうが無理というもので。
(……慣れてない。たしかにそうかも)
この屋敷で起こるすべての出来事に、ユティアは慣れていない。
初めは、笛だった。
奴隷として働いていた屋敷では、よく楽師が招かれて騒がしい宴をしていたから、タンデラという笛や、ミヌーという七弦楽器をユティアも見たことはあった。けれどそれを触ったことすらなく、自分で音色を奏でるのは不思議な感覚だった。リトルセは、どちらもとても上手にこなしていた。
エンディーンに教わって、歴史や地理を勉強するときも多かった。彼女の持つ知識はこうして培っていったのだとユティアは目の前で実感していた。
(貴族って、毎日をこうやって過ごしてるんだ……)
ユティアが母と転々としながら藁で籠を編み、貧民街で泥棒まがいの生活をし、大きな屋敷で奴隷として扱われていたころ、貴族の子女はこうして教養を得ている。
裕福でなくとも、読み書きや算術を教えてくれるような施設がエヴァン王国にはあることをユティアも知っていた。ラタの町にもそれはあり、同じ年頃の子供たちの無邪気な声が聞こえてきて、ユティアはいつもうらやましかった。
「シオン様、とてもお上手ね」
タンデラの笛の音色は、まだ途切れることなく続いている。
技術的な良さはユティアにはわからなかったが、シオンの奏でる音は、水のように流れ、空気のように存在していた。
そこにあることを誰もが疑わず。
当然のように受け入れる。
そんな音だ。
「お疲れ様です」
いつのまにか、エンディーンが片付けられた机に、果実のジュースと甘い菓子を用意していた。
うつむきかけた顔を上げさせる、ちょうどよいタイミングで。
その視界の隅に、ちかちかと消えかけた明かりが映る。
「……あぁ、すぐに変えさせます」
ユティアの視線に気づいたエンディーンが、そのランプを持ち上げた。
「明かり、を」
ごく自然に、ユティアは手を少し上げていた。
すると、エンディーンの持つランプが、再び明るく輝き出す。それは強すぎず、弱すぎない。加減を知った光だった。
驚きを隠しきれない表情で、リトルセとエンディーンはユティアを見やった。
「これだけは、上手になった、から」
シオンとの魔道の練習は、ここでもまだ続いている。
イメージが大切だとシオンに言われていたが、この屋敷ではいつも明るかったためにイメージしやすかったのだ。だから、どんな場所でも明かりを灯すことだけは少し得意になった。
「それだけではなく、読み書きもずいぶんと上達なさってますよ」
「でもまだ、あまり早くは読めないし」
ユティアは母に習っていたから、簡単な読み書きや算術はできていた。けれど、リトルセが読むものははるかに難しく、エンディーンに付きっ切りで教示を受けることも多かった。
「貴女も身分ある姫君なのですから、教養は大事なのですわ」
年下とは思えないほど大人びた瞳と自立した言葉に、ユティアは器に伸ばしかけた手を止めた。
「ユティア様?」
「あ、えっと……」
不自然だったことに気づいて、ユティアは器を改めて手に取ったけれど、もう取り繕っても遅い。
じっと深い双眸を向けてくるリトルセの、譲らない光に押されてしまう。
「わたしがその……姫、とかって。どうしてもまだ、思えなくて……」
身分ある立場と言われ、この屋敷の使用人らはユティアをリトルセと同じように扱う。それどころか、エヴァン王国よりもはるかに裕福だったエリシャの王族なのだから、本来ならば他国の没落気味の貴族と比べれば遥かに格上なのだとリトルセにはたしなめられてしまった。
ユティアの中では何一つ変わっていないのに、周囲の態度がこうも変化していくことに戸惑いは消えないばかりか増大していく。
(わたしは、奴隷のときから変わってない……見た目だけ綺麗にしてもらってそれで、お姫様になれるの?)
リトルセは、自らの器に手をかけて、少し口をつけた。
「貴女自身がなにも変わらなくても、状況は勝手に変わっていくのですわ」
「―――状況?」
「とりまくもの、すべて」
神妙な口調とは裏腹に、リトルセは変わらぬ微笑をユティアに向けていた。
言わんとする意味がよくわからず、ユティアが問いかけようとしたところで、大きな帷がさっと前触れもなく開かれた。
サイロン家前当主の娘であるリトルセの部屋で、こんな無礼が許されるのは一人しかいなかった。
「お帰りなさいませ、カリス様」
「ただいま戻りました。リトルセ殿」
近づき、自然にリトルセの頬に軽く唇を落とす。リトルセも彼の態度を当たり前のように受け入れていた。
サイロン家の現当主にして、リトルセの従兄妹であり婚約者。そんな重々しい肩書きとは違い、彼は背もあまり高くなく童顔で、十代の少年にしか見えない。貴族の当主ということで、ユティアはなんとなく他人を見下すような恐ろしい男を想像していたのだが、カリスが優しげな性格に見えてほっとしたものだ。
「ユティア殿も、ごきげんよう。つつがなくお過ごしですか」
「……あ、気遣っていただきありがとうございます」
覚えたばかりの儀礼的な受け答えは、まだ棒読みになってしまうのだが、カリスはやわらかい微笑を返した。
リトルセが十二歳で、カリスが二十歳なので、ずいぶん年が離れているのだが、彼の幼くみられがちな容姿とリトルセの大人びた雰囲気のおかげか、ユティアにはこの二人が絵になるほどよく似合うと思える。
エンディーンが彼のための椅子を用意している間に、使用人の女性が飲み物を運んでくる。流れるような無駄のない作業に、何度見てもユティアは感嘆した。
「昨日は帰宅できず、すみませんでした」
「他家の宴だったのでしょう。それに参加されるのも、ご当主としてのお仕事のひとつですもの」
親密な二人の会話を聞いてはいけないような気がして、エンディーンを見上げると、彼も目だけでうなずき、二人は部屋を出ようと立ち上がった。
「あ、ユティア殿」
カリスに呼び止められて、振り返る。
「明日は、お暇ですか?」
「は、はい……」
暇もなにも、ユティアはこの屋敷でやらなければならないことなど何もなかった。リトルセに楽器を習って、エンディーンに勉学を師事し、シオンと魔道の訓練、そしてカディールと何気ない会話をする。
たったそれだけの、贅沢な日々。
「じゃあ、皆さんで舟に乗りましょう」
唐突な一言に、ユティアの目は瞬きを繰り返した。
(……ふね?)
もちろんユティアにそんな経験はなかった。