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「どこまで行くの、カディ?」

「もうちょっとだから、待ってろって」

 一刻近く前から、カディールはそれしか答えず、ユティアを乗せて馬を走らせていた。

 サルナードのサイロン家の居候になってから一月が、いつのまにか過ぎていた。

 その間、ユティアは目もくらむほど豪奢な屋敷で、今までとは比べ物にならないほど平穏な生活を送っていた。高い天井には鮮やかな絵が描かれ、太い柱には神々の姿が彫刻されている。無造作に置いてあるようにしか見えない箱にすら、煌びやかな宝石が埋め込まれていたりした。

 そんな状況にいまだ慣れずに戸惑いばかりだったある日、でかけようとカディールに誘われたのだ。それ自体は珍しいことではなかったが、朝食もまだ取っていない早朝である。不思議に思って尋ねても、カディールは行き先を教えてくれなかった。

 街中を馬は、二人を乗せて早歩きで進んでいく。

 カイゼの街よりも道も広く、早朝から市場を中心に多くの人々が行き交っていた。馬や馬車を使うのもここでは珍しくないようで、旅人だけでなく少し裕福な民の足になっているようだ。

 街の北側は、小高い丘のようになっていて、馬はそれを登っていき、ユティアもようやく目的地を悟った。

 丘とはいっても斜面は緩やかだし、石畳で舗装もしてある。街の中心からは少し外れているというのに、ユティアたち以外にも何人かがそこを登っている。

「あの建物に行くの?」

「ああ、サルナードの中央神殿だ」

「……あれ、が?」

 さすが王都というべきだろう。質素倹約を信条とする神殿文化だから、華美になりすぎていないが、それでも十分な優雅さを感じられる大きな建物だった。

「この丘全部が神殿のものらしいぞ。すげーよな」

 石畳をしばらく進んでいくと、木でできた大きな門があった。

 カディールはそこで馬を降り、ユティアも降ろしてもらった。鞍がついていて鐙もあるとはいえ、ユティアでは届かないからまだ一人で乗降すらできなかった。

 門の前には何人かの警備がいて、カディールはそこに馬を預けた。

 人々はさらに上に登っていき、ユティアは目的地を仰ぎ見ながら、彼らについていこうとする。もう神殿はすぐそばだった。

「待て待て、ユティア。そっちじゃねーって」

 あとで馬と引き換えるための木片を受け取ってきたカディールが、あわててユティアを引き止めた。

 だが広い道は、一本しかない。

「こっちこっち」

「え、でもそれって……」

「いいからいいから」

 警備たちの目を盗んで、カディールはユティアの腕を引いてそっと道を外れた。

 木々が整然と植えられている中を、二人は進んでいく。

「こっち、行ってもいいの?」

「だめだろーから朝早く来たんだろ?」

 昼間になると人目が多くなって、咎められる可能性があるということだ。

 だが、カディールがあまりにも堂々とした態度だったから、ユティアも気にしないことにした。

 正規の道ではないとはいえ、足場は余分な石のひとつも落ちていないほど整えられていた。

 木々の隙間から見える神殿はだんだんと近づいてきていたから、たしかに目的地は神殿なのだろう。

 やがて、木々が途切れて、視界が開けた。

 目の前に、神殿の壁があった。

「こ、これって……」

「神殿の裏のほうみたいなんだけどな、あとから調べても入り口からは行けねぇみてーだからさー、仕方なかったんだ」

 仕方なくと言っているわりには、慣れた様子だった。きっと何度も下見に来てくれたのだろう。人の少ない時間帯、安全に進める道。

 間近に迫る、壁を見つめた。

 鮮やかな色彩の、壁画。

 よく見ると、細かい石に色を塗って、それらを壁にはりつけて一枚の大きな絵画になっている。

「見たいって言ってただろ……ってまあ、ただの絵だけどさ」

「……?」

 口に出した記憶はなかった。けれど。

(だってこれ、海の絵、だよ……)

 本物を見たことはなかったけれど、ユティアにはわかった。

 絵なのに、どこまでも遠く深く、広がるその色で。

「こないだ寝込んでたときにさ、なんかうわごとで言ってるの聞いちまった」

 そういえばそんな夢をずっと見ていた気がする。あのときは朦朧としていたから、ユティアはもうあまり覚えていなかった。

「そうしたら俺も思い出したんだ。エリシャにいたとき、俺の目を海の色だって言ったクレイのこと」

 兄が、カディールの瞳は海と同じ色だと教えてくれた。

「俺ってこんな目の色してんのか? 自分じゃよくわかんねぇなぁ」

 そんなことに頓着したことがなかったのだろう、カディールは壁画に触れて感心したように頷いた。

「うん、同じ色だよ。すごく、綺麗」

「いつか本物も見せてやっから、今はこれで我慢しろよ」

「これでも十分だよ」

 碧い海に、白い舟がいくつも浮かんでいる、たったそれだけの絵だったけれど、海の色は単調ではなく、少しずつ濃淡が変化していた。

(こういうのも、カディの目とおんなじだし)

 毎回違う印象を受ける彼の瞳は、少しずつ色が変わるように思えた。

 今までになかったほど、晴れやかな気分になっている自分に、ユティアは気づいた。

「―――ありがとう」

 自然とその一言が漏れた。

 嬉しくて、感謝の心が溢れてくる。

 そうしたら外に出さないと、苦しくなった。

 身体の中に溜めてはおけない。

「あ」

 振り返ったカディールが、ユティアを見て不敵に口元を緩めた。

「いま、笑っただろ?」

「え?」

「絶対そうだろ? 俺見たぞ」

「……え、えぇっと」

 あまりにも自然な動作だったから、ユティアにもわからない。

 きっとその嬉笑は本物だと確信したのか、カディールはずいっと顔を近づけてきた。

「も一回!」

 意識すると無理なのだが、カディールはじっとユティアを見つめている。

「そ、そんなこと言われてもできないよ……」

「なんだよー。簡単だろっ。笑え」

 カディールが頬をつまんでくる。その顔を見たカディールのほうが、豪快に笑った。

「ひどいよ~っ」

 カディールがかがんでいたのをいいことに、ユティアもカディールの頬をおもいっきりつかんだ。たしかに面白い顔になって、ユティアはまた笑った。

 ごく自然に。

 笑い方を思い出した気がする。

「おや?」

 はっと二人は顔を見合わせた。

 こっそり裏側にやってきていたことを、すっかり忘れて騒いでいたのだ。

 咎められることを覚悟でおそるおそる声のしたほうへ顔を向けると、そこには神使いを表わす真っ白な長衣に身を包み、黄色っぽい肩掛けを羽織った男性が、神殿の裏口から出てきたところだった。

「あ、やべ……っ」

 こんなときでもカディールの反応は素直だった。長い前髪を掻き上げていかにも気まずそうな表情を浮かべた。

「あー、えー、これはだなー」

 逃げ出すほど卑怯ではなく、かといって嘘をついたり取り繕ったりすることもできず、カディールは苦笑いで必死に返す言葉を探した。ユティアはひとりそわそわと目線を泳がせていたのだが、三十代後半に見えるその神使いは、賑やかすぎる侵入者たちの様子に機嫌をそこねるでもなく、神の慈愛を孕むような視線を返した。

「遠い、彼方の世界を想像し、創造するのはとても尊いことですね」

 彼の言辞は誰かに伝えたくて唇に乗せたものなのだろうか。ユティアは首をかしげる。はじめこそ、この男性の瞳にはユティアとカディールが映っていたようだったけれど、すぐに心ここにあらずという視線に変わったから。

 少なくとも、上に報告するような態度を見せないことに、カディールとともにユティアもそっと胸をなでおろした。

 侵入者に対する警戒心はまるでなく、むしろ無風のような雰囲気の青年だった。

「その絵は、『大海の苑』というのだそうです」

「へぇ、絵に名前なんてついてんのか」

 絵画に造詣が深いとは思えないカディールは、改めてその絵を見上げた。

「いつか、こんな世界を、誰もが憧れ、望むようになるのでしょうね」

 ユティアにもこの青年は見えていたし、声も聞こえていた。それなのに、なぜかここにいないのではないかと思えた。

(海に、心が行ってしまったみたい)

 ただ肉体だけしか、ここにない。

 そんな奇妙な感覚だった。

「でもなんで、海のないエヴァンにこんな絵を描いたんだ?」

 カディールは青年の違和感に気づいているのかいないのか、思いついたままの疑問を口にした。その声に青年は一拍置いて振り返る。

 けれど、しばらくは無言を通した。返答を考えているようでもあったし、別の事柄にまだ囚われているようでもあった。

「―――神殿とともに長い歴史を見つめるにはとても相応しいものです。恋焦がれるような、想い。どこかにあるのだと、いつまでも夢見ていられるのなら」

 彼がユティアたちを見つめる双眸も、穏やかではあったが、どこかつかめない光を放っていた。決して愛想がないわけでも友好的に見えないわけでもないのだが、感情のわからない冴えた瞳だ。

「また、ここに来てもいいですか?」

「……貴女の望むままに」

 本当に何の警戒もしていないのか、彼はユティアに微笑を返した。



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