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 怒られることには慣れているはずだったのに、ずきんと心が痛くなる。

 殴られていたころとは違う、身体の中からの鈍痛。

(カディに怒られると、痛、い……)

 迷惑ばかりだと自覚している。

 けれど、最後には笑ってくれる。

(なのにわたしはまだ、ちゃんと笑ってないよ……)

 約束。

(―――やくそく)

 海へ。

 連れて行って。

 そんな記憶もあった気がする。でもいつの? わからない。朦朧とした意識の中で、いろいろなことが思い出されてきて、いつが最近の話なのか混濁してしまう。

 でもどこかで、同じものを見た気がする。

 小さいけれど、海と同じだと言った色、を―――。

(あれは、どこ……で)

 見つけたい。

 海のいろ。

 手の届く位置にあったような気がするのに。

 同時に、けっして届かぬ場所にある気もするけれど。

(おにい、さま……)

 たしかにそんな風に呼んでいた自分がいる。母がくれた物語の世界の中なのか、自分の本当の記憶なのか、曖昧でわからないけれど、たしかに『兄』はいた。

 小さな海をくれたひと。

 大切だった。

 大好きだった。

 なのに、どこかでなくしてしまった。

(……あったんだ。大切な、もの―――)

 人間とはみなされない粗末な扱いをされ続けていて、生きていることだけが奇蹟だった日々。大切なものなんて、母との思い出以外は何もなかった。

 そんな生活から解放されてもまだ、あのころの記憶はどんな炎でも溶けない氷の鎖になって、どこまでも絡み付いている。

 逃げたくても逃げられずに。

 海の欠片を探しに行くこともできない。

(……会いたい、な。おにいさま)

 無条件で愛してくれた彼は、もうどこにもいないとわかっていても。

 そのときそっと、頬に何かが触れた。

 撫ぜる風のような感触。

 草花の、瑞々しい匂いを残り香にして。

 優しくて、安堵の息を吐いた。ずっとまるで、息をしていなかったような気分で。

 初めて覚える、静謐の中の揺蕩う心地。

 ゆっくりと、顔を上げた―――つもりだった。

「ユティア?」

 うっすらと開けた双眸が、捉えたもの。

(―――あった)

(海の、いろ)

 よかった。まだ失っていないものも、ある。

 手を伸ばせば届くところに、ある。

「なんだ?」

 無意識のうちに動かしていた手を、カディールが握り返してきた。

 その体温が、混乱していた意識を少しずつはっきりとさせる。

(―――カディの、眼……だったんだ)

 初めて見たときから印象的だった。

 その理由が今、ようやくわかった。

 海。

 けれど、その喜びとは裏腹に、カディールの双眸は鋭く細められる。

(―――お、怒って、る……)

 ユティアは無意識に身体を小さくして身構えた。怒鳴り声が、今すぐにも聞こえてきそうだった。

 だが、受け取ったのは罵声ではなく―――静かな吐息。

 彼は何か言いたげに口を開いたが、近づいてくる足音に気づいてやめてしまった。

 馬車の帷が開かれて、シオンが顔を見せた。

「ユティア、目が覚めましたか? まさかカディールに起こされたのでは……」

「そんなことしてないっ」

 苛立ちの表情を浮かべて、カディールはシオンと入れ替わるようにして馬車を出て行った。

「……カディールを怒らないであげてくださいね、ユティア」

 シオンのその科白に、ユティアは本気で驚いた。なんだか的外れにしか聞こえない。怒られそうになったのはこちらのほうだ。

 けれど、反論する気力が出てこなかったから黙っていた。

 シオンが額に乗っていた布を取り、自らの手を当てる。女性かと思うほど細くしなやかな指は、ひんやりとしていて心地よかった。

「少し、熱は下がったみたいですね。お水は、飲めますか?」

 乾いた唇はうまく動かなくて、視線だけで訴えると、シオンは微笑んでユティアの身体をゆっくりと起こしてくれた。

 シオンの胸元にぐったりと全身を預けながら、口元に近づけられた器の水を少し飲む。冷たすぎず、身体に優しい。

 次に彼は、一回り小さい器を用意した。

「カディールが探してきてくれた薬草入りの白湯です。少し苦いですけど、飲んでくださいね」

 彼の手が葉の匂いをしていたことを思い出しながら、それを飲み込む。少しどころではなく苦かったけれど、我慢できた。

 腐りかけたものや、およそ食べ物にはならない苦味や渋味を持つものでも、食べれるものはすべて、食べてきたのだから。

「今は何も考えずにゆっくりとお休みになってくださいね」

 再びユティアを横たえた彼が、そう言い終わったときにはすでに、気を失うようにして眠りに落ちていた。


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