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ユティアが馬車の中で身体を起こしたときから、カディールはその気配に気づいて目を覚ましていた。
空は明らんでいるものの、日の出にはまだ早い。
少し心配になって近寄ろうと立ち上がった時、ちょうど彼女が帷に手をかけて姿を見せた。
けれど、そこに違和感を覚える。
足元がふらついていて。
考えるよりも先に、カディールはユティアのもとに俊足で駆け寄って、踏み台から足をはずして倒れる身体を抱きとめていた。
「ユティアっ!」
罵声のようなそれに、シオンとエンディーンもはっと起き上がった。
腕の中の細い身体は、異様なほど熱かった。
うっすらと目を開けてカディールを見上げる。
「……う……の、い―――」
何かうわごとを言っているようだったが、カディールには聞き取れなかった。
「とにかくこっちに寝かせて」
シオンが自分の寝ていた場所を示し、カディールがそこにユティアを横たえた。顔を赤くして息も苦しげに、カディールの袖をつかんでいた。
シオンがユティアの額に手を当てる。
「呪詛……の類いではなさそうだね……」
「何っ?」
思いもかけない一言に、カディールの顔色が一瞬で変わる。
そんなことを予測すらしていなかった。していたとしても、カディールには対処できない部分だ。今回は違うと否定されても、これからもその可能性が付きまとうことになる。
「大丈夫。この腕輪がある限り、そう簡単に魔道にかどわかされることはないよ」
「でもっ」
そんな説明では納得しないカディールを視線だけで制し、シオンはリトルセを連れて近づいてくるエンディーンを振り返った。
「リトルセ殿は、大丈夫ですか?」
「え、ええ……何がありましたの?」
彼女が無事ということは、毒の可能性も少ないだろう。
「たぶん、ただの過労だと思いますが」
シオンは、医師でも薬師でもない。
魔道力で気の流れを探って原因を特定できることもあるというが、それでも応急処置が精一杯だろう。
病気や怪我の治癒は通常、神殿に仕える神使いが無償で行う。国の補助金や人々の寄付で成り立つ神殿は、慈悲や博愛という名のもとに差別なく人々を救うものとされているのだ。実際にはもちろん、一部の裏であくどい賄賂の横行があると言われているが、それでも建前は無償の善意なのである。
シオンは懐から布を取り出した。一瞬にして適度に凍らせてから、それをユティアの額に置く。
「昨日なにも言ってなかったじゃねーか。元気そうだったし」
「うん、言わないだろうね……」
この体調不良が、誰かに訴えなければならない種類のものだと、ユティアが認識していないだろうことをシオンは想像していた。だから、無理をしたというよりも、その自覚もなく当然のように振舞った。
それが奴隷という立場にあった少女の処世術。
「ここでしばらく休ませたほうがいい。サルナードに到着するのは遅くなってしまうけれど、無理に動かすのはよけいに体力を消耗するから」
予定では明日の午後、王都に到着することになっていた。馬車でのゆっくりとした行程ということと、途中で無駄に誰かと遭遇することを避けるために正式な馬車道を通っていないことで、通常よりも日数がかかっている。
「おれが馬で先に行く。ユティアを乗せても半日で着く」
シオンは首を横に振った。
「この状態のユティアが馬に乗れるとは思えないよ」
「……そ、そうか」
正論にカディールも口を閉ざした。
旅慣れているカディールたちと違い、ユティアは過酷な生活でやせ細っていて体力もなく、こうして毎日馬車に揺られているのも初めての体験なのだろう。たとえゆっくりの工程でも、おそらく本人も気づかないうちに負担がかかっていたのだ。
「リトルセ殿は、お疲れでないですか?」
待遇は正反対であるけれど、彼女もまた、自由に屋敷を出ることのできない身の上で、旅の経験など皆無だろう。だが、なよやかな姫君のように見えるリトルセは、平然と顔をあげて答える。
「私、こう見えても馬に乗ることもできますから」
思いもよらない一言に、さすがのシオンも沈黙した。
「昔、とある方に、教えていただいたの……」
そのときリトルセが、一瞬だけ艶めいた大人の眼差しをのぞかせたことに、エンディーンだけが気づいた。ユティアのことしか考えられないカディールはともかく、シオンですらこの状況下で余裕もなく、彼女の言葉の端にあるものを予想だにしなかった。
「ユティア様のご容態は?」
リトルセも何事もなかったかのように、あっさりと話題を変えた。
「安静にしていれば問題ないと思いますよ。ご心配ありがとうございます」
「でも安静にったってどうすんだ、こんなとこで」
草原で野宿というこの状況では、固い地面か狭い馬車に寝かせておくことくらいしかできない。この先にせめて村でもあればいいのだが、王都サルナードまでは草原のほかは野菜や芋の畑が広がっているだけで、かなりの遠回りをしなければ村はない。
唯一の救いといえば、比較的背の高い木々が密集している場所を選んでいるから、昼間の強い日差しは遮ることができるという点だろう。もう秋の半ばで、その日差しもそれほど過酷ではなかった。
「―――わ、た……、だ……じょ……ぶ」
話が聞こえていたのか、ユティアはか細い声ながらそう訴えてきた。
「あんたは寝てろ」
つかまれた袖はそのままに、カディールはユティアの額をぽんと軽くたたいた。
「で、も……」
「いいから寝てろって言ってるだろっ」
少しぶっきらぼうな声になった。
病人をいたわらなければという思いはカディールにもあるのだが、どうしても怒りのほうが勝ってしまう。
奴隷でなくなった今でも、知らず知らずのうちに無理をしているユティアと、それにすら気づけてやれなかった自分自身に。
ユティアは開きかけた瞳をそっと閉じた。
つかんでいた袖から手が離れていることに、カディールは気づかないまま、ずっとユティアのそばに座っていた。