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「それで? 話してくれるのでしょう」
無駄なほど念入りに剣の手入れをし続けてどれくらいが過ぎたのか。シオンが音もなく近づいてきて、カディールの隣に腰を下ろした。
何を、ととぼけようとしたが、シオンには通じないことはすでにわかっている。
もう焚き火も消されていて、シオンの手が持つ灯篭だけが、静かに夜空の星を隠すようにして光っていた。
「ユティアは寝たのか?」
「しばらくリトルセ殿とお話してたみたいだけどね」
シオンにはその会話が聞こえていたらしく、思い出したのか優しく微笑んだ。
普通の、いわゆる女友達としての会話を知らず、あまりにも特異な生活をしていたのだから、そういった普通の日常というものに、まずは慣れさせなければならないだろう。そういう意味では、リトルセはいい話し相手かもしれない。
カディールは、剣を拭く手を止めた。けれど、シオンのほうは見ずに口を開く。
「俺は、エリシャがカストゥールの一部になったって、どっかで納得してるつもりだったんだ。……つもりになってた」
そう思い込まなければ、叫び出してしまいそうだから。
カディールが知る、唯一の故郷と呼べる場所が、クレイのいる王城だった。
「でも、さっきの刺客にいたんだ。エリシャ出身が……」
たぶん何も知らせず、悪党を追えといって、破格の値段で雇っただけの剣使いだったのだろう。たいした力もなく、カディールの一閃で倒れた。
けれど、わかるのだ。
彼の持っていた剣や服装が、明らかにエリシャ出身だということを物語っていたから。
エリシャの民が、エリシャ王族であるユティアの命を狙っている。それと知らずに。
「俺はこれからも同胞を切って、棄てて、それでユティアだけを守っていくのか……?」
クレイは、エリシャの民を慈しみ、降伏する道を選んだ。それが自らの未来を絶つ結果になると知りながら、名も知らない民の命を優先した。
けれど今、カディールはそうやって生き延びた彼らを、一瞬で切り捨てた。
エリシャ領に入る―――これをシオンは目指してサルナードへ向かっている。
けれど彼らの故郷はカストゥールの一部。もう、カディールの知る大地ではないのかもしれない。何もかも変わっていてもおかしくない、別の国なのだ。
「それは、為政者の目に近いね……」
感情なく、シオンは答える。
ユティアを守ることはクレイの命令で、カディールは騎士としてそれを全うしようとしている。けれど、ユティアだけを守り、ほかのエリシャの民を切り捨てることに疑問を抱いているのだ。
「君は、クレイ様では……ルーフェイザ王ではないんだよ」
「―――わかってる」
ルーフェイザ=クレイ=エリシャ。
民を想い、戦を憂い、あの大地を愛した……三年間だけの、最後の王。心優しい彼は、勝者が語る歴史の中で、戦を長引かせた挙句に何も救えなかった、愚かで幼い王と言われるのだろう。
「でもだとしたら、あの民を救うのは誰だ……」
疑問を口にしてから、はっと気づいて、カディールは初めて顔を上げてシオンを見つめた。
その答えを今―――知ってしまったから。
ただの騎士であったカディールにできることは少ない。けれど……。
(こいつが気づいてなかったはずはない)
カディールは、無表情を装ったシオンの奥の表情を探るように、にらみつけた。
「だからか……あえて、危険を知ってるのにエリシャに行くのは」
「違うよ」
シオンはすぐに否定した。
「私はエリシャの再興なんて望んでいない。知ってるよね。だって―――」
「―――いい。知ってる」
シオンに言わせたくなくて、カディールは畳み掛けるように呟き、また下を向いた。
素直でわかりやすい感情表現だった。
ミントからもらった強いワインを、エンディーンと飲み比べていたから、少し酔っているのかもしれない。たとえ本人に自覚はなくても。
「じゃあさ……行かなくてもいいだろ、エリシャ」
小さなつぶやき。
ユティアの住んでいた第三離宮、クレイが住んだ王城、最後に過ごした大離宮……どれも、どうなったのか知らずにカディールは国を出たけれど、知りたくもないと思った。
ほかにも理由はある。けれど、すべてが曖昧でカディールの脳裏で整理がついていなかった。
「―――ねぇ、カディール」
いつもの軽い様子だったから、なんの覚悟もなくカディールは視線をシオンに向けていた。
「カザル殿は……見つかっていないの?」
「―――……っ」
見つかったのか、ではなく、見つかっていないのかと、シオンは尋ねた。
その名前にカディールは表情を硬くする。シオンは気づかなかったふりをして言葉を続けた。
「あの戦乱の中で行方知れずになってからもう、三年になるんでしょう……」
「生きてるわけないだろ」
「……」
シオンは否定しなかった。
あの戦乱で多くの兵は死んだ。カディールもあと一日決断が遅かったら、城を脱出してクレイとの約束を果たすことなどできなかったかもしれない。
嫌でも思い出す。
戦の音。
血の匂い。
(だってあのひとは、鬼神だったから)
けれどシオンが、何故それを今になって聞いてくるのか少しだけ分かる気がした。
「最近は一人で酒場に行かなくなったね」
酒場は、確かな情報から不確かな噂まで、世界中の話を聞ける場所だ。
「それは……ユティアがいるから」
「でも彼女と会う前から行くのはやめてる」
シオンは、カディールが何の情報を得るために酒場に通っていたのかまで知っている。カディールは彼に話していない。けれど、知られていないとは思っていなかった。
だから、カザルの名をシオンの口から聞いたことには驚かなかったのだ。
「―――だから、エリシャに行きたくないの?」
「あれは噂だから俺は信じてない」
カディールにふと、悲哀にも似た表情が掠めたけれど、それはシオンですら見間違いかと思うほど一瞬で過ぎた。
カディールは立ち上がり、抜き身のまま持っていた剣を収めた。
「……俺は迷わないって決めたんだ」
迷って間違った選択をして、そうしたら後悔した。
だからもう、迷わない。
「そのほうが君らしいよ」
単純な発想を知っているシオンは、軽く声を出して笑った。