3
その日の夜。
ゆっくりとした今日の旅も無事終えて、静謐な闇に包まれたころ。
馬車の中は、ユティアが今まで奴隷生活で寝ていた小さな部屋よりもよほど快適だった。
リトルセと二人で、向かい合う長いすを寝台にして横になる。
灯篭の明かりももう消してしまって、近くにいるはずのリトルセの顔すら見えなかった。
「ユティア様は、カディール様とシオン様のどちらかがお好きなの?」
「―――え?」
暗闇の中でも、彼女がこちらを向いているのがわかった。
「どっちがって……どっちも好きだけど」
ユティアは生真面目に答えた。自分の中では嘘のない、率直な言葉だ。
まだ二人のことはほとんど知らない。けれど、危険を承知で助けてくれる彼らを純粋に信頼していた。
人の善意というものをほとんど知らずに生きてきたユティアが、初めて自ら行動を共にしようと思えた他人だった。
「ユティア様、そういう意味ではありませんのよ」
いつも大人びた口調で話すリトルセだったが、ユティアと二人きりのときは多少は砕けた物言いになる。けれど、この一言は老成した女性に言われたのかと錯覚するほど落ち着いていた。
「え? でも、どっちが好きかって」
「ええ。恋人としてならどちらをというお話です」
「―――こ、こい……び、と?」
ここまで言われれば、さすがのユティアでも意味を正確に理解して、顔を赤くした。
今までまったく経験のない分野だ。
というよりも、あの生活でそんな余裕もなかったのだから当然だった。色恋沙汰よりも、生きていくためだけに必死だった。大人たちはただ恐ろしい存在でしかなかったし、子供たちは抜け殻のようだった。
「え、えっとでも、そんなのぜんぜん……!」
掛けていた外套に少し顔をうずめた。自分でも赤くなっているのがなんとなくわかったから、それをリトルセに知られたくなかった。
一瞬でも、そんな可能性を脳裏の片隅で考えてしまったことが、恐ろしかった。そもそも二人は、ユティアを子ども扱いしかしていない。そんな状態でどこに甘い話があるというのかわからない。
「だっておかしいし……わたしなんかがそんなこと……」
「どうしてですか?」
純真無垢な姫君にしか見えないリトルセに、ユティアはその理由を告げることができなかった。
みにくい世界。
彼女はきっと、その存在すら知らないのだろう、と。
「どこにいたって、心は自由でしょう?」
自由と言う言葉に、ユティアは顔を上げた。
あのころいちばんほしかったもの。
それが、今はもう手の中にあるというのに。
(違う、逆だ……)
どこにいても、あの過去に囚われている。
この広い空の下にいても、まだ。
「でも、じゃ、じゃあ……リトルセだって……」
彼女のそばにはいつも、見守るようにエンディーンがいる。使用人で護衛という立場らしいが、彼らの親密度はユティアですらはっきりとわかった。
それを指摘しようとしたのだが、すぐに気づいて口を閉ざした。リトルセはすでに婚約している身だということを思い出したのだ。
カリス=サイロンという従兄妹を、リトルセは自由に選んだわけではないのだろう。だからこそ、ユティアが自由なものに見えるのかもしれない。
「私ね、ユティア様のようにお年の近い方と、こうしてお話することなかったの」
彼女はふと、話題を変えた。けれど、それに言及せずにユティアは彼女の言葉をただ聞いた。たぶん言ってはいけないことを口にしようとしたのだろうと感じていた。
「そう、なの?」
ユティアの周りにはいつもどこかに、同じ境遇の子供たちがいた。
けれど、同じ痛みを持っていたのに、分け合うことも慰めあうこともしなかった。仲間でも知り合いでもない子供たちがほとんどで、その関係は簡素で薄情で、すぐに切れる細い糸でしかなかった。
「私、ユティア様とお友達に、なれるかしら?」
そんなことを言われたのは初めてで、ユティアは思わず起き上がっていた。
周りにどれほど多くの子供たちがいても、友達と呼べる存在はどこにもいなかった。レクトですら、利害だけでつながっていたし、馬車で死んでしまったミトも比較的仲がよかったとはいえ、友達とはどちらも思っていなかった。ほかにも名前の知らないたくさんの子供たちと寝食を共にしてきたのに、誰も友達にはならなかったし、誰もそれを欲していなかった。
大勢とともに過ごしながら、誰もが孤独だった。
そして、それを疑問にも思わなかったのだ。
「う、うん……でもわたし、友達なんていなかったから」
「私もそうですわ。いつも周りには大人たちしかいませんでしたから」
リトルセは少し笑ったようだった。
目が慣れてきて、暗闇の中でもぼんやりと彼女の姿が見えてきた。
(こんなにお金持ちになって、食べるものに困らなくなっても、幸せじゃないのかな?)
リトルセは、ユティアのようにその日の食事すら手に入らず、空腹で眠れなくなる経験などないだろう。それでもどこか、陰りのある表情で笑った気がして、ユティアは不思議に思った。
(しあわせ、ってまだ、わからない)
たしかに一月前の自分より今は、いい生活を送れている。
けれど、いつだって幸せは、相対的にしか測れなかった。
絶対量がどこにもないから。
誰かと比較して、それより良いと思うことで、納得するしかない。
でもその対象がどんどん変わっていく限り、どこにも幸せなんか存在しないと、ユティアは気づいた。
それは、ただの空腹とは違う。
―――どこまでも満足できない、永遠の飢え。
ユティアは怖くなって外套を強く握り締めた。