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「そう……もう少し。炎をイメージして。揺れないで、指先に集中して」
シオンにつかまれた右腕を前に伸ばしたまま、ユティアが熱さを感じて一瞬だけ苦い表情を浮かべた。
その刹那、ばっとその手のひらから大きな炎の塊が飛び出してきた。
「ひゃあっ」
「水を」
シオンの持っていた杖からばしゃんと大量の水が現れて、その炎を飲み込んだ。けれど、地面にはその水溜りすらできていなかった。
ユティアはぺたんと腰を下ろす。
ひどく、体力をなくした気がする。全速力で走ったあとのように。
「今のは少し、大きかったですねぇ……」
シオンは馬車に積んである樽から水を汲んできて、ユティアに手渡した。生ぬるかったはずのそれは、シオンの手の中でいつのまにか心地よい温度に変わっている。
「あ、ありがとう」
「おさすがですわ。エリシャのお血筋ですものね。リディ……ではなくてユティア様」
リトルセもユティアと呼ぶことには納得してくれたのだが、最後まで敬称をつけることだけは譲らなかった。その差別化も、貴族としての教育の賜物なのだろうか。
危ないからと馬車の中に避難させられていた彼女は、後ろの幌を上げて小さな顔をのぞかせていた。御者台にいた青年が音も立てずに彼女のそばに歩み寄り、絶妙のタイミングで手を差し伸べた。
「ありがとう。エンディーン」
二十代後半に見えるこの青年ひとりだけを連れて、リトルセが馬車で十日もかかる王都サルナードからはるばるカイゼにやってきたと聞いたときは、ミントにかなり本気で怒られていた。
だが彼は、腰にある二本の小剣で、カディールとともに、道中の盗賊や追っ手などユティアには見分けのつかない多くの障害をことごとく退けてきた。護衛兼御者としては申し分ないのだろう。
「さすがって……?」
教養あるリトルセの言葉の意味がわからず、ユティアは聞き返す。
エリシャの血脈と魔道が、何か関係あるのだろうか。
「昔、エリシャ王国と魔道王国といわれるカストゥールは、ひとつの国だったのです。もう千年近く前のことですけれど」
リトルセはまだ十二歳だということだったが、地理や歴史にはかなり精通している。それを不思議に思ってシオンに尋ねたところ、貴族の子女は知識が武器になると言われたのだが、その言葉の真意はまだユティアにはわからなかった。ただ、自分より年下の博識には頭の下がる思いだった。
「強い魔道力を持っている者は、エリシャかカストゥールの出身である可能性が高いのです。まぁ、いまでは混血も多く、力のある魔道使いが突然他国から現れても驚きませんが……」
説明を続けたエンディーンは、物静かな笑みをいつもたたえていた。口数はけっして多くないが、リトルセだけでなくユティアへの気遣いも忘れない。
「練習をされたいとおっしゃってから七日でかなりの上達を見せるとは……魔道は会得が困難と聞きますので、私も感服いたします」
「……上達って言われて、も」
シオンに手を握られて、ある程度の制御がかからないと何もできない。自然界のものを自分の魔道力で作り出すという原理はなんとなく理解できたが、実際に正しく成功することは少なかった。
「でも上達していると思いますよ。ユティア」
先生をしてくれているシオンは、やんわりと嘘にならない言葉を選んだ。
だが、ユティアは彼に教えを請うようになって、その妥協や甘えを許さない厳しさを、穏やかな笑顔の中に隠していることに気づいた。
(わたしは本気だから、シオンも本気になって教えてくれてる)
それが自信になる。
もう二度と、カディールに火傷をさせないために、ユティアが決めたこと。
ユティアの手に握られたこの水の冷たさが、シオンの気遣いだから。
シオンはこの数日の旅で、ユティアの前ではあえて魔道を使うようにしていた。日々の生活の中で自然に使いこなしているシオンを見ながら、ユティアは毎日ただそれをまずは真似できるように心がけるようになった。
(水を冷たく……)
氷になる前の、水。
そのイメージを考えてみる。
わざと掛けられたことなら何度もある。
その冷たさを思い出す。苦しい。―――思い出したく、ない。
「―――あ」
はっと器の中を覗き込んだら、飲みかけの水は一瞬にして凍りつき、急な変化に耐えられなかったのか、器が手の中で粉々に割れた。
軽い爆発のような派手な音が、静かな草原に響いた。条件反射的に、エンディーンがリトルセの前に立って、かばうような姿勢を取っていた。
「ユティアっ」
シオンがあわててユティアの手を取る。
「あ、大丈夫……」
破片は刺さっていなかった。
「今何か、違うことを考えましたか?」
「え、えっと……」
「魔道力は体内にあるものです。イメージしたものを外に出すのですから、不安定な気持ちが特に、ユティアの場合は正直に反応してしまうんです」
口調こそいつもと変わらぬ柔らかさだったが、何度も同じ事を言わせてしまった罪悪感から、ユティアには小さな棘のように聞こえた。
「きっと怒られますよ」
この一言は軽い口調で、シオンは少し遠くに視線を向けていた。
少しして、ユティアにも全速力で近づく馬の蹄の音が聞こえた。
その速度が完全に落ちる前に、馬上のカディールは飛び降りながら剣を抜いていた。
「何があったっ!」
「……カディール、何もないよ」
あきれた様子のシオン。
「ユティアの魔道が失敗してしまっただけだから」
「は?」
「……ご、ごめんなさい」
「あんたなぁーっ」
カディールの必死の様子に見合う事件ではなかった。怒鳴りたい衝動でユティアを一瞥したのだが、小さくなってうつむいている姿に、その矛先を失ったように言いかけた言葉を飲み込んだ。
「ユティアもがんばってるんですから、許してあげて。ほら、怪我もしてないし」
「お前が見てて怪我したんだったらお前のせいだっ」
これはもう八つ当たりというしかない。はらはらと見守るユティアの隣で、シオンはそっと嘆息した。
カシャンと静かに、抜いた剣が元の鞘に戻った。
「偵察はどうだったの? カディール」
「―――……」
珍しく、カディールは即答しなかった。
荒々しく、近くの石を椅子代わりにして座った。リトルセとエンディーンも、言葉を挟まずに黙ってカディールを見つめた。
「別に。この先は今は安全だから通れる」
今は……の言葉で、カディールが何人かの刺客を、当然のように返り討ちにしてきたのだろうと想像した。
そんなことは旅を始めてから日常の光景だ。いまさら、カディールが機嫌をそこねるようなことではない。
「……じゃあ、そろそろ休憩は終わりにして出発しようか」
何もなかったかのように、シオンはいつもの笑顔でそう言った。
陽が傾いてきたせいか肌寒く感じられ、ユティアは早々に馬車へ乗り込んだ。