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どれくらい時間がたっただろう。
黒衣の男はゆっくりと人々を見渡した。その視線が死角に入ったとき、シオンが静かな声で耳元にささやいてきた。
「カディールが、来ています」
はっと顔をあげた。
シオンは目を軽く閉じて、何かに集中していた。
その瞬間、灯篭の炎が一斉に消えて、あたりが真っ暗になった。月も新月に近い細い月しかなく、外から漏れる光もわずかで、ユティアには何も見えなくなった。
ただ、シオンがそばにいることだけはわかった。
「炎を灯せ」
暗闇に覆われていた時間はわずかだったが、シオンの声で再び明かりが戻ったときには、その場で人質にされていた人々は、ユティアたちを除いて消えていた。
代わりにそこに現れたのは、見慣れた背中のカディール。
「これ、シオンが……」
「いいえ、私だけではないんです。空間移動の魔道は、移動元と移動先に魔道使いか魔道具がなければならない。どうやらカディールはかなりの魔道使いを見つけたようですね」
シオンはいつのまにか手に持った杖をするりと指輪に戻して、なんでもないことのようにそう言った。
「……えっと」
立ち上がり、やっと言葉を発したシオンだったが、その姿と声色に違和感は否めなかった。
「―――なるほど」
ジュラはシオンの女装やカディールの乱入にも動揺は見せず、悟ったようにうなずいただけだった。
「手を出すな」
いきり立つ男たちを制し、ジュラは剣の柄に左手をかける。
「カディール、彼は―――」
「わかってる!」
シオンが何かを言いかけたが、カディールはその声を遮って剣を抜いた。本当にわかってるの……とつぶやく声をユティアは聞きながら、カディールの背中を見つめていた。
カディールの剣をジュラは居合い抜きの勢いではじき返そうとした。だが、カディールのほうが力は強く、押されていた。
「一回やりあってさ、この差まだわかんねぇの?」
いちおうの忠告のつもりだった。少しだけ、ジュラの驚愕を感じ取る。
その間にカディールは、隠し持っていた右手の短刀で顔のあたりの黒衣をざっと切った。
はらりとすべての黒衣が床に落ちる。
「―――あ」
彼は間違いなくジュラなのだろうか。その黒衣に隠された真実の彼は……。
はっと男は顔を隠そうとするがもう、遅かった。動揺の陰りが、初めてジュラとして晒した瞳にわずかに揺れた。
「これは、ジュラ様なのか……?」
「そんな……っ」
ジュラの仲間たちにも驚愕と戸惑いが走った。この場にいる仲間の誰もが、ジュラの素顔を知らなかったのだろう。
「私たちが王都へ急いでいるということは、トゥリードにしか告げていない。それをなぜか、ジュラも知っていた……。そのときおかしいと思いましたよ」
シオンの説明に、カディールはそうなのかとつぶやいた。
「俺はあいつに聞いたんだ」
あごで彼が指した先から、一人の青年が近づいてきていた。
旅人らしいゆったりとした簡素な服と、結った長い茶色の髪が風もないのにゆらゆらと軽やかに揺れていた。
「……ミント兄上っ。―――なぜ、ここ、に?」
ジュラ―――トゥリードが一歩だけあとずさる。
それは、領主クイードの嫡男、そしてトゥリードの兄の名だった。
「そう、俺が領主の屋敷に行ったときに会ってさ。そしたら前に酒場であったやつだったってわけ。まさか領主の長男だとは知らなかったけどな」
「今はただの旅人だからねぇ」
ミントは飄々とした口調でそう付け加えた。
彼には、このあたり一帯を治めている領主の息子という雰囲気はまるでなく、旅人が板についているようだった。それでも次男であるトゥリードが彼を認めた。
「すべてあなたが裏でやっていたのですか、兄上」
「……すべてってどこからどこまでのことかわからないけど」
ミントはゆっくりと歩きながら、やがてトゥリードに触れることができるほどまで近づいていた。
「でも、ジュラに対抗できる剣使いと、強い力を持つ魔道使いが同時にやってきたら、やっぱり何か事を起こすんじゃないかと思ってたよ」
しかも明後日には出立したいと言われていたら、事を急ぐだろうと容易に想像できた。
彼は、ジュラという仮面をかぶっていたときには、思慮深く完璧な悪役を演じていた。一方で、けっして裏切らない忠誠を誓うだろう方法で同士を得た。
けれど救世主トゥリードとしての仮面では、安易な行動しか取れていない。心優しい英雄……それだけでは民の心を一時しかつかめないことに気づけなかった。
「お見通しというわけですか」
トゥリードは笑った、
高い声をあげて。
「あと少しで、カイゼの街を変えられたものをっ」
左手に持ったままだった剣を、彼はミントに向かって無造作に振った。怪我をしているその腕では、動作にも鋭さがなくなっていた。
彼は避けようとはせず、頬に深く傷ができて血があふれた。だが、ミントは顔色一つ変えなかった。
「恐怖政治なんて意味ないよ」
ミントはその血をぬぐわずに静かな声で告げる。トゥリードのほうがむしろ、傷を負ったかのように苦い表情を浮かべた。
自分が傷つくより、誰かが傷つくほうが、痛いときもある。
「―――やさしさだけではひとをすくえないんですよ、兄上」
「確かにね」
ミントも肯定した。
(その気持ちなら、わたしにもわかる)
どんなに悲しくても母は死んでしまったし、ミトを助けてくれる手はなかった。たくさんの子供たちは大人になりたいと切望しながら、生きられなかった。そんな理不尽な世界もあることを、ユティアは昔から知っている。
(けれど、このやり方は本当に正しいの?)
それはユティアにはわからない。
だが、確実に彼は、ジュラとしてレクトを救ったのだと思う。
「ジュラが悪であればあるほど、トゥリードの価値はあがるのですよ」
そうして恐怖と相反する歓喜は、恐怖とともに増加する。そうして、トゥリードがジュラを排除したということが住人に知れ渡れば、彼の名声は一気に高まるだろう。
領主クイードに変わってトゥリードが領主として認められるための、完璧な布陣のはずだった。私欲にばかり目が向かう父すら利用したというのに。
(でも、レクトがほしかったのはトゥリードじゃなくてジュラだ)
奴隷と主人という関係ではなく、労働者として正当に雇われた。
「おまえ、本当にジュラが悪だけだと思ってたのか? 奴隷をなくさせたジュラを慕うやつらがいるって思わなかったのか」
ユティアの思考を、カディールが代弁していた。ユティアから彼の背中しか見えないけれど、きっと怒っているのだろう。
(レクトのために、怒ってくれてるのかな……)
会ったばかりの少年のために。
ユティアはそっとレクトのほうを見やった。
(……えっ、どこにいくの?)
彼はそっと神殿の奥、先日忍び込んだ裏口のほうへ向かっていた。カディールとシオンの意識は完全にミントとトゥリードに向いていて、後ろに立っているユティアを今は気にしていない様子だった。
こっそり、レクトを追いかけることにした。
今が、彼らと離れる好機だと、そのときは信じていた。