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どこまで走っても何も見えなかった。
そんな感覚。
まっすぐの道かそうでないのか、それすらわからなかった。
(……やっぱりひとりだったんだ)
今まで幸せな夢を見ていた気がするけれど、この暗闇はユティアに現実を思い出させた。
(そうだよ、お姫様になんてなれるわけない)
(他人のものを盗んでまで生きたいと、思ってしまった……悪い子なんだから)
(……空想の世界―――これは現実じゃ、ない)
今もきっと、誰かに追われている。
けれど、どんなに痛くても悲しくても、あのころは不思議と死んでしまいたいとは思えなかった。
貧民街で、たくさんの子供たちが死んでいくのを目の前で見ていたから。
彼らのように、幸福も絶望も知らずに、息が止まっていくのは耐えられなくて、生きたいと願った。
(ごめんなさい、母さま……こんな思いをするのなら、飢えて死んでしまうほうがよかったのかもしれない)
今は初めて、そう思えた。
怖くて後ろは振り返れない。
何が追いかけてきているのか、見たくなかった。
そのとき、後ろからはっと腕をつかまれた。
誰かに突然口をふさがれて、身動きが取れなくなった恐怖がよみがえる。
あれはいつの……。
「や……やだぁっ」
誰?
もう放っておいてほしいのに。
(帽子の男に気をつけろって言われてた)
貧民街の子供たちの間で。
それなのに、夜の町を歩いていたから捕らえられたのだった。
(だって、なにか食べ物をさがさないと……)
(生きて、いけないんだよ)
「ユティア」
はっと我に返ったら、翠色の瞳がユティアを見下ろしていた。シオンがユティアの腕に優しく手を置いていた。
見慣れた神殿の部屋は暗かったが、彼の手のひらに、薄い光が収束していて心配そうに見下ろす顔までよく見えた。
(……会いたく、ない)
顔を背けてしまう。けれど、視界に入った壁は冷たい茶色で覆われていた。
「こちらを向いてくれないのですか?」
「……」
「今は笑顔じゃなくても許してあげます」
冗談めかした口調でそう付け加えた。
笑ってあげてと言われていたことを、ユティアも忘れていない。
ユティアは上半身を起こしてから、ゆっくりとシオンのほうに振り返った。彼はすぐに、わかっていたかのように冷たい水の入った器を手渡してくれた。
(……カディがいない)
なんとなくほっとした。けれどそう思ってしまう自分にすら嫌悪する。逃げたい、どこかへ。
でもどこにも行く場所もない。
その勇気すら、ない。
ただうつむいてしまったユティアの顔を、そっとシオンは覗き込んだ。
(わたしはやっぱり、レクトとおんなじ側のひとだから)
(シオンとカディは違う側のひとで)
一緒にはいられなかったのだ。
レクトと再会してそれがよくわかった。
「カディールはひとり、領主の館に行きましたよ」
「……え?」
「きっとユティアはレクトのところに戻りたいと言うだろうから、その先がジュラのところでないように、レクトを助けるんだそうです」
シオンは苦笑した。彼の理屈に納得していても賛成していない表情だった。
「レクトと同じ生き方を、したいのですか?」
「……」
肯定も否定も、できなかった。
「だって、わたしは……」
もう、醜い人間なのだと知られてしまった。きっと軽蔑している。だからそんな目で見られる前に、ここから抜け出したい。
ラタの町に戻りたいと告げようと顔を上げたとき、シオンは帷のほうをじっと見つめていた。
「……なにやら一階のほうが騒がしいですね」
ここは三階だから、わかるはずのない場所なのだが、魔道でわかるのだろうとユティアは想像する。
「まさか、ジュラが……」
「え?」
つぶやいたあとのシオンの行動は素早かった。