2
「あの馬車……っ」
見覚えがある。先日、あの男の子を轢き殺した馬車だ。
この馬車を恐れている住人たちは、この道からほとんど姿を消していて、幸いなことに一心不乱に走って追いかけるカディールの行く手を遮るものは何もなかった。
「停止せよっ」
カディールの後ろから追いかけてきたシオンが、再び指輪を杖に変えて叫ぶ。
馬車は急に動きを弱めたが、完全には止まらなかった。
「……っ。やはり距離が―――」
距離が隔てれば、魔道力も及ばなくなる。
だが、馬車に振り切られる前に、カディールは走ってその馬車に追いついていた。
走りながら剣を抜き、一気に馬車の幌を切り裂いた。
その中から黒い影がカディールめがけて一閃の光を放つ。それを剣で受け止め、力のまま押し返そうとしたが、その腕にぐったりとしたユティアが抱えられているのを見て、はっと距離を取った。
ゆったりとした黒の長衣に身を包んだ中背の男が、完全に止まった馬車から降りてきた。顔までも布で覆い、左手にカディールより細めの剣を握っている。
聞いていた、ジュラの特徴と重なった。
だが、なぜ彼がこの街に着いたばかりのユティアを狙うのかわからない。カイゼの街にいてユティアの正体を知ることなどできるだろうか。それともカストゥール王国とは何の関わりもなく、カディールに対する挑発なのだろうか。
カディールは拳を握り締めたが、その行き場がなくて歯をかみ締めた。自分のふがいなさに次々と怒りがこみ上げてくる。
(あんときユティアは……)
カディールの顔を見たときのユティアの表情。
(あいつ、俺を見て怖がってたんだ……)
自分の存在自体を恥じ入るかのようにして、カディールの近くにいることを、恐れていた。
それは初めて見せる顔で……。
思わず手を離してしまった。
(また守れなかったら……っ)
(今そんなことを考えてる場合じゃないのに)
相手の意図はわからなかったが、カディールはすぐに行動に移る。考えているのは苦手だ。彼はユティアを楯に脅しているわけではない。カディールが切っ先を上げると、ジュラも緩やかに構えた。
だがあくまで右腕にユティアを抱えたままだった。同年の少女と比べてもずいぶん痩せている少女など、枷にはならないのだろう。
それならそれで、カディールはジュラの右腕を切り落としてでもユティアを奪還する気で切り込んだ。
ジュラは最低限の動作だけでそれをかわす。カディールはそのまま剣をさらに薙ぐ。勢いがついてそのまま首をはねてもいい位置だった。
「……っ!」
カディールの剣には軽く何かが当たったように感じただけだった。けれど、ジュラは自らの剣でカディールの剣を静かに受け流していた。
(―――これ、は)
軽い驚愕に体制を崩される。
背中に殺気。
それを頭で感じるより先に、身体はとっさに動いてジュラから離れていた。
「ふ……なるほどな」
ジュラから初めて声が漏れた。口元までも黒い布で覆っているせいか、低くくぐもって聞こえた。
彼はどさりとユティアから手を離した。気を失っているユティアは、支えを失って力なく地面に倒れる。
「一応聞いておくが、彼女を狙う理由は?」
「……」
予想通りだったが、ジュラはしばらく無言だった。だが、おもむろに口を開く。
「―――王都へ行くのだろう?」
少し本気になったのか、ジュラは腰を落としてカディールを見上げた。
シオンの厳しい視線を背中に感じる。魔道で切り抜けられればよいが、ジュラの仲間と思われる男たちがいつのまにかあたりをさりげなく囲っている。大きな魔道には準備の時間がかかり、その間に彼らはユティアに危害を加える可能性があった。カディールのほうが素早く動ける。
ジュラのほうから攻撃をしかけてきた。
それを受け止めても柳のように軽い力しかなかった。さらりと流されてしまって、押し返そうとしても手ごたえがない。それでいて鋭い切り込み。
(相手がその気なら……負けられねえな)
カディールは剣を持つ手をそのままに、構えを上段に変えた。やりにくい相手ではあるが、彼にとって強敵ではない。
彼の流れるような動きを直前でかわす。切っ先が右肩を掠めた。だが、そんなことはなかったかのように切り返す。受け流されるのならば、その身に一度受けたほうがいい。
そのまま心臓を突くこともできた。だが、一呼吸の半分ほどの躊躇が生まれる。
隙が、彼に猶予を与えた。
突いた攻撃は左に反れ、ジュラの腕を突き刺した。黒い長衣の袖が一瞬にして赤く染まった。
「……っぐ」
ジュラは剣を落としかけたが、なんとかまだ握っていた。しばらく左腕は動かないほどの深手だ。カディールは剣を収めた。
それを見届けたジュラは、何も言わずに馬車に乗っていった。ユティアを置いていったのだから、カディールとシオンも追いかけなかった。
あたりを囲っていた男たちの気配が消えて、近づいてきたシオンがユティアの額に手をかざす。薬か魔道で眠らされているだけなのか、シオンは処置をすることなく彼女を抱き上げた。
「あそこで躊躇するなんて珍しいね」
無表情のままのシオンの第一声に、カディールは振り向かなかった。
指摘されるまでもない。
「……ああ」
自分でもそう思う。けれど、あの時よぎったのは、レクトの言葉だった。
「あいつらにとってはさ、こんなジュラでも心の支えになってるんだろうなって思ったら……」
シオンは無表情のまま、やさしいねと呟いた。
(―――やさしい?)
そんなつもりではなかったのに。