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シオンに勧められた屋上は、空がさらに近くて広かった。
どこまでも見える気がする。
「どうですか? 綺麗でしょう」
飲み物を持ってあとから現れたシオンに、ユティアは何度もうなずいた。
「太陽が沈んでくのは、ずっと怖かったのに……もう、見てても平気」
静かに、音もなく、光が失われていく。そのあとに待つのは、永遠とも思えるような闇だった。
それを見るのが一番怖かった。綺麗なはずの夕陽は、ユティアを闇の中に引きずり込むだけだった。
いつ晴れるとも知れない、永遠のような黒。
けれど朝になってまた、殴られるかもしれないと脅えるのも恐ろしかった。
それが今は、単純に、綺麗な光だと思う。
「どうぞ。今日は天気もよかったので、のどが渇いたでしょう」
シオンは透明な水に少し色のついた飲み物をユティアに渡した。見たこともないものだったけれど、薄い土器から伝わる冷たさに惹かれてすぐに口をつけてみる。
「……っ!」
驚いて手を滑らせそうになったところを、シオンが器を支えてくれた。
「大丈夫ですか?」
「……こ、こんなに甘いと、思わなくて」
初めての味。けれど、身体に優しくて、ほっとする味だ。
「蜂蜜です。あまり好きではありませんでしたか」
「ううん……すごくおいしい。花の蜜に、似てるかな」
春になれば花が咲く。野にあるそれらを摘んで食べても、誰にも怒られなかった。ユティアが知っている甘いものは、そのくらいしかなかった。
一気に飲み干してしまったユティアを見て、シオンは器を受け取った。
「甘いものって元気になるでしょう?」
「……あ」
本当にそうだった。
(どうして、シオンはわたしがほしいものを知ってるんだろう)
それが洞察力や経験なのかもしれない。
彼は、ユティア自身すら気づかないうちに望んでいるものすら、すべてわかっているようだった。
「カディは?」
「大衆浴場に行ってますよ」
そういえば、早く入りたいと昼間に言っていたのを思い出す。
「シオンは入らないの?」
「カディールとですか? それは……うるさそうですねぇ」
のんびりとした口調でシオンはそう言って笑った。
どんなときでもカディールかシオン、どちらかがユティアのそばにいる。彼らと出会ってまだ数日だったが、自分が狙われているであろうことは身にしみて理解できたから、一人にさせないようにしているのだ。
「ご、ごめんなさい……」
そんなことにも気づかず、無神経な質問をした。
彼らのほうがずっと、気の休めるときなどないだろうに。
「―――ユティア」
呼ばれて見上げたシオンの白皙の顔は、夕焼けで少し赤く見えた。
「そんなに謝らないで。なにも悪いことなどなさってないでしょう」
「でも、さっきだって。服せっかくもらったのに」
なぜか泣いてしまって、カディールに怒鳴られた。二人に満足なお礼も言えていない。
(うれしかったのに)
似合うとか、かわいいとか。
初めて言ってもらえて。
「嬉しいときもひとは泣いてしまうんですよ」
「……そう、なの?」
ユティアが泣くときは、怖いとき、痛いとき、そして空腹のときだけだった。けれどいまは、そのどれからも遠ざかっている。
「でも、今度からは笑ってあげてください」
「え?」
「カディールがね、心配しているんです」
心配というよりも怒られている気がしている。
「一度も笑ってくれないから、服でも買ったら喜んでくれるのではないかと」
「あ……」
「けれど、彼に任せたらろくでもない格好にされてしまいますから、私が代わりに選んできたんです。だからこれ、カディールの提案なんですよ」
「そう、だったんだ……」
だから泣かれて焦ったのかもしれない。
本当はうれしかったのだと伝えたいけれど、もう遅いだろうか。
「だから、ね。笑ってあげてください」
自分がずっと笑っていなかったことなど、ユティアはまったく気づいてなかった。今までの生活で笑顔になれるような出来事は少なかった。
「……うん、そうする」
もう忘れてしまった感情。
(ちゃんと、笑えるかな)