Shalimar Tea
窓ガラス越しに暖かく柔らかな光が差し込む平日の午後、木下晃広は八名の団体客が去った後のテーブルの食器類を片付ける手をふと止める。太陽の光が水の入ったグラスに注ぎ込んで、キラキラしている。
視線を上にずらしてみる。レトロなログハウス調の木製の窓枠の向こうには、十二月半ばとは思えないくらいの穏やかな小春日和の街の景色が広がる。師匠も走り回るほど忙しいという師走…だが、この暖かさに街行く人々もなんだかゆったりしているように見える。
とはいえ年末も近いんだよなぁ…忘年会とか、出なきゃなんないし。
少し伸びをして首を回して、晃広は再びテーブルの片付けに専念する。
…ここはTea Room * LUPINUS。明るいナチュラルウッドのテーブルと椅子が落ち着いたカントリー風の空間を演出する、店長の館岡多嘉子こだわりの紅茶専門店だ。晃広はこのこじんまりしたティールームでバイトを始めて、かれこれ二年半になる。二年半…といっても途中何ヵ月か趣味のバッグパック旅行で長期休暇を取ることもあったので、正確な期間としては一年半くらいか。それでもまぁ、晃広にしては他のバイトに比べたら長いこと続いている。
このバイトを長く続けている理由は…まぁ、いくつかある。
トレイに手際よくカップやグラス、皿などを載せ、テーブルを拭く。バイトを始めた頃はもたもた時間のかかった作業…何度かカップを割ってしまったこともあるが、今ではすっかり手慣れた動作だ。
「よっ、と。」
山積みになった食器を軽々とカウンターに運ぶ。と、カウンターの中で洗い物をしていた店長の多嘉子が目を見開く。
「ちょっと気をつけてよー。そんなに載せて…割ったらバイト代から差っ引くからね。」
「だーいじょうぶッスよ。ここしばらく、そんなヘマしてないっしょ?」
笑いながらトレイをカウンターに置いて、食器類を洗い場に収める晃広。多嘉子はイジワルっぽくきしし、と笑う。
「天災は忘れた頃にやってくる、って言うわねぇ。」
「え、天才? それってオレのことですかぁ?」
「あぁ、頭の中が砂糖大根なのね?」
「…それはひょっとして…“甜菜”のことですか…?」
こんなやりとりは日常茶飯事だ。笑いのセンスとか、味の好み、その他にも二人には共通点が驚くほどたくさんあった。いっしょに働いていて心地の良い、人間関係の良い職場。…このバイトを続けている理由のひとつでもある。
くだらないことを言い合いながら洗い物をしていると、ふと多嘉子が時計を見て手を止める。
「あっ…と、もう二時半過ぎてるのね。しまった。」
多嘉子は洗い物をしていた手をすすぎ、傍らのタオルで水分を拭き取る。
「今日ね、銀行と郵便局行かなきゃなの。お客さんこれから少なそうだし…木下一人でもお店、大丈夫よね?」
「平気ッスよ。行ってきてください。」
二年半(正確には一年半)のバイト経験で、大抵のメニューは作れるようになっていた。よっぽど満員にならない限り、一人でもやっていける自信が晃広にはある。実際、こういう状況は初めてでもない。
「あ、でもオレ今日は四時に上がりますよ。ゼミの忘年会、出ないと単位やらないって教授に脅されてるんで。」
「わかってる。そんな遅くはならないから大丈夫。…わたしのせいで単位落としたとか後々言われるのもムカつくしね。」
「…言いませんよそんなコト。」
晃広がため息をつくと多嘉子はいたずらっぽく微笑む。そうしてカフェエプロンを外してスツールに置き、代わりにキャメルのダッフルコートと財布の入ったトートバッグを手にカウンターを後にする。
「じゃ、よろしくね。なるべく早く戻ってくるから。」
「いってらっしゃーい。」
多嘉子が入り口の扉を開いて出て行く。シャランシャランシャラン…と扉に付けられたウィンドベルが鳴り響く。晃広は濡れた手をひらひらさせて多嘉子を見送って、洗い物を続ける。
さっきまでテーブル席に八名の若奥様グループがいて賑やかだった。そのグループが帰ってまだ十分も経っていないのに、驚くほど店内は静かだ。晃広はもくもくと洗い物を片付ける。ただ、水の流れる音と、ごくごく小さな音でBGMのクラシックピアノの音が流れるだけ。
…ゼミの忘年会かぁ…めんどくせーなぁ…。
洗いながら、この後の予定を思い出して嘆息する。さっき多嘉子に言った、“出ないと単位やらないって教授に脅されてる”というのは、あながち嘘ではなかった。
晃広の通う大学の経済学部は、一年生からゼミの授業がある。その一年の時からずっと所属しているのが、戸田ゼミだ。戸田教授とはかれこれ六年ほどの付き合いになる。晃広がバッグパック旅行のために大学を休学する時、行き先や行程、そしてなにより単位など、必ず力になってくれている貴重な存在なのだ。
春にはどうしても、スリランカに行きたい。それが晃広の次なる野望だった。
そのためには、今年度のゼミの単位をどうしても落とせない。忘年会会場までの送迎と、忘年会の参加を条件に、戸田教授と取り引きをしたのだった。
スリランカにどうしても行きたい理由…それは、このバイトを続けている理由にも直結する。
過去にバッグパックでバングラデシュ、ネパール、そしてインドを歩き回って、晃広は紅茶の魅力にとり憑かれた。手持ちのお金がなくなって、現地の茶園でバイトをしてから、目の醒めるような茶畑の緑…あれほど美しいものを晃広は見たことがないと思った。そして茶園スタッフが一丸となって心を込めて作り上げた紅茶…同じ“カメリア・シネンシス”という名の植物の葉っぱなのに、地域によって全く異なる香り、味、色…単なる飲み物以上の何かに強く惹きつけられた。
紅茶に魅了されている。…それが、このバイトを続けている理由のひとつ。
そして紅茶を愛するバッグパッカーとして、どうしても訪れておきたい国、スリランカ。できれば半年ほど滞在して、各茶園を周りたい。ウヴァ、ウダプッサワラ、ディンブラ、ヌワラエリア、キャンディ、ルフナ…できるだけ多くの茶園を。
…実は、晃広には、多嘉子にも戸田教授にも、誰にも言っていない大きな夢があった。それは、バッグパックで世界の紅茶の名園を渡り歩き、独自の茶葉入手ルートを拓くこと。そして日本では紅茶専門店…このTea Room * LUPINUSのような店を、夫婦で経営すること。自分が茶葉買い付けに出向き、その間奥さんが店を切り盛りする…。
…その奥さんが、多嘉子さんだったら最高なんだけど。
くすくす、晃広はそう思って一人で照れ笑いをしてしまう。
…そうなのだ。このバイトを長く続けている一番の理由は、ソレなのだった。
晃広と多嘉子…年の差は八つと、世間的に見れば大きいが、晃広にとってそれは全く問題ではなかった。そりゃ、自分がまだ学生で、独り立ちしていないという焦りがないと言えば嘘になるけど…。多嘉子の年齢がどうとか、そんなのはどうでもいい。話していて、時間を忘れてしまう…今までの人生で、これほどまでに気の合う相手はいなかった。
ただ…まだ自分の気持ちを多嘉子に知らせることができずにいる。冗談でそれっぽいコトを言うことはしばしばあったが、多嘉子はきっとギャグとしか受け取ってないだろう。
どのタイミングで言うのがいいのか…スリランカに旅立つ前か、それとも無事に大学を卒業できてからか。…でもスリランカに行っている間に誰かとうまくいったりされても困るし…。
過去のことは知らないが、少なくとも自分がここで働くようになってからは、多嘉子に男の影はないことは確かだ。“出逢いがない”と言っている割には婚活なんか全くしてなさそうだけど…。黙っていればそこそこ綺麗で魅力的なので、常連客の中にひょっとしたら多嘉子狙いで通っている奴もいるかも…。
でも、急に晃広が多嘉子に想いを告げたら、どうなるだろう。
もしうまくいったのなら万々歳だが…うまく、いかなかったら?
気まずいんだろうなぁ…。晃広は短く嘆息する。そんな感じで、冗談では言えるのになかなか本気で伝えられずにいるのだった。
山のようにあった洗い物が終わり、食器を拭いて棚に片付けていた時、店の扉が開いた。シャラシャラシャラン…とウィンドベルの心地良い音が晃広の耳に届く。多嘉子がもう戻ってきたのかと思い振り返ると、入ってきたのは多嘉子ではなく一人の背の高い品の良さそうな男性客だった。
「いらっしゃいませ。」
晃広はそう言って、メニューと水の入ったグラスを用意する。男は三組ある二人掛けのテーブル席の、一番窓に近い席に腰を下ろした。年齢的には多嘉子と同じ世代か…大人の男の魅力が漂う上質なカシミヤ風の黒いコートを脱ぎ、手にしていた英字新聞をテーブルに置く。コートの下はスーツではなくカジュアルな紺のストライプのシャツにクリーム系の色合いでまとめられた質の良い柔らかそうなアーガイルのセーター、ピシッとしたストレートのワンウォッシュのジーンズ、とラフな格好だったが、いかにも仕事のデキるビジネスマン、といったイメージだ。
晃広は男が椅子に落ち着いたところを見計らって席に歩み寄る。もう一度丁寧に「いらっしゃいませ」と言ってメニューをテーブルに差し出す。男はメニューをペラペラとめくって眺めだす。
「お決まりになりましたらお呼びください。」
晃広はそう言って男に会釈してカウンターに戻る。メニューをめくる左手の薬指に、晃広は結婚指輪を確認する。
…なんか、英字新聞がイヤミに見えない人だな…。ウチの親父みたいだ。
英字新聞が似合って、仕事のバリバリできるビジネスマン。でも家庭はものすごく大切にしていて、結婚指輪も律儀にずっとはめている。口にはしないけれど、晃広はそんな父親を尊敬している。晃広のバッグパックにも寛大で、除籍になる前にちゃんと卒業さえできれば好きにしていいと言ってくれている。
感謝と尊敬はしている。けど、自分は父親のようにはなれない。というか、なりたくない。自分には似合わないし、自分らしくないから。ビジネスでアメリカやヨーロッパ、とかではなく、もっともっと自然に近いところを走り回りたい。世界を駆け巡って、どんどん視野を広げたい。
「すみません。」
晃広がカウンターで待機していると、テーブル席から男が声を掛ける。晃広は伝票を持って窓側のテーブル席に向かう。
「お決まりですか?」
「シャリマティーを、お願いします。」
男は晃広の目を真っ直ぐ見てそう告げる。晃広はメニューを下げながら落ち着いて微笑む。
「かしこまりました。」
そう言って、再度カウンターに戻る。
…シャリマティー、か。かなりマイナーな注文をする人だなぁ。…わりと紅茶に詳しい人なんだろうな。そんなことを思いながら晃広は棚からティーポットとティーカップを取り出す。客のイメージに合ったティーセットを使うのが多嘉子のこだわりだ。つまりは店のこだわりなので、晃広もそれに従う。彼のイメージ…ウェッジウッドのコロンビア・セージグリーンを選ぶ。
シャリマティーとは、早い話がレモンティーのレモンをオレンジに替えたものである。つまりはオレンジティーということになる。紅茶のカップの中に、オレンジの輪切りが入った、レモンティーよりも甘く爽やかな香りが楽しめるフルーツバリエーションティーだ。
シャリマとは、元々北インドはカシミール地方、ムガール帝国の宮殿の中にあったといわれる花園のことらしい。その花園の花が咲き乱れる芳しい香りがオレンジの香りに似ているから、もしくはその花園に咲く大輪の花がカップに浮かべられた輪切りのオレンジに似ているから、オレンジティーのことをシャリマティーと呼ぶのだとか。
…で、シャリマティーに使う茶葉は…っと。
晃広はカウンター横の茶葉の入った缶が並べられている棚から迷わずニルギリを取り出そうとして、思い出し笑いをしてしまった。
以前、シャリマティーに使用する茶葉の件で多嘉子と言い争いになったのを思い出したからだ。多嘉子は断固としてニルギリを推して決して譲らなかった。晃広が、キャンディなどセイロン系でも美味しいし、インドにこだわるのならシャリマは北インドなのだから、南インドのニルギリではなくアッサムとはいかなくてもダージリンの夏摘みでもいいんじゃないか、と言っても全て却下したのだ。
それ以来、シャリマティーにはニルギリ、という暗黙の了解がこの店にはある。
…あの人たまに頑固親父だからな…。ま、そういうトコも歳の割にガキっぽくて可愛いんだけど。
晃広はくすくす笑いながらお湯を沸かす。沸騰を待っている間にティーポットにニルギリに茶葉を計って入れ、冷蔵庫からオーガニックのオレンジを取り出し、輪切りにする。オレンジピールもいくつかカットする。
沸騰したお湯をティーポットに勢いよく注ぎ、オレンジピールを指で絞りながら入れ、蒸らす。オレンジの輪切りをカップにセットし、カップの縁にもオレンジピールを絞っておく。こうすると飲む時にオレンジの香りがふわっと広がって素敵なのよ、そう言った多嘉子の言葉を忠実に実行する。
蒸らし時間を見計らい、トレイにポットとカップをセッティングして、晃広はカウンターを出る。
「お待たせいたしました、シャリマティーでございます。」
丁寧にそう言って、待っていた客の傍らに立つと、男は英字新聞から目を離し、慣れた手つきで新聞をすばやくたたんでテーブルの邪魔にならないところにさっと置いた。ちゃんとティーセットを置く場所が確保されている。晃広はますます男に好印象を抱く。
晃広はティーセットをテーブルの上にセットして、紅茶をカップに注ぐ。オレンジ色の澄みきった水色と、オレンジの甘く芳しい香りが晃広の鼻をくすぐる。…シャリマの花園も、こんなに爽やかで、それでいて官能的な香りに包まれていたのだろうか。このオレンジの輪切りのような大輪の花が、咲き誇っていたのだろうか。
晃広がセッティングを終えカウンターに戻ろうとする。男はひとくちカップに口をつけて、晃広の背中に声を掛ける。
「…この茶葉は、ニルギリですか?」
晃広は少し驚いて振り返る。
「はい。店長のこだわりで、当店ではシャリマティーにはニルギリを使用しております。」
男は無言で再びカップに口をつける。この人…やはりかなりの紅茶愛好家だ…。フルーツティーに使った茶葉が何かなんて、シロウトはほとんど気にも留めない。ましてや茶葉を特定することなんて、滅多にない。
心持ち姿勢を正して、晃広は男に尋ねる。
「…お気に…召しませんでしたか?」
すると男はカップを置いていやいや、と笑う。
「とんでもない。ぼくは昔からシャリマティーにはニルギリと決めていてね。なかなか好みの合うティールームがなかったから、嬉しいよ。」
「そうでしたか。」
晃広はホッとして微笑み返す。
「ウチの店長も、シャリマにはニルギリ、と譲らない方なので…お客様と話が合うかもしれませんね。今ちょっと外出中なのですが…。」
言いながら晃広は壁掛け時計を見る。いつの間にか時計は午後三時五十分を指していた。
多嘉子が店を出て…かれこれ一時間。…ちょっと、遅くないか?
「…ごゆっくりどうぞ。」
頭を少し下げてそう言って、カウンターに戻る。多嘉子さん…遅いな。四時には上がるって言ってあるから、もう戻ってきてくれると思うんだけど…。
ちょっとそわそわしだす。が、心を落ち着かせて、いつでも上がれるようにとりあえずやることはやっておこう。思い直して切ったオレンジにラップを掛けて冷蔵庫にしまい、茶葉の缶を棚に戻す。
ちょうどその時入り口のウィンドベルが慌ただしく響き、晃広は即座に振り返る。パタパタパタ…と小走りに入ってきたのは、言うまでもなく多嘉子だった。晃広は余裕のあるそぶりで落ち着いた笑みを浮かべる。
「お帰りなさい。」
「ごめんごめん遅くなって! 年末だから銀行も郵便局も混んでて…。…忙しかった?」
カウンターの中に入り、脱いだコートとトートバッグをスタッフルームという名の物置部屋に放り込むようにして収納し、多嘉子はカフェエプロンを締める。晃広は首を左右に振って返す。
「いえ、あれから窓際にいる男の人しか来てないですよ。」
すると多嘉子はそう、と短く言ってホッとしたように笑う。
晃広は客に声が聞こえないように小声で多嘉子に話しかける。
「あのお客様、かなりの紅茶通みたいッスよ。シャリマティーをオーダーされたんですけど…シャリマにはニルギリって決めてるらしくって、喜ばれました。多嘉子さん以外にも断固ニルギリ派の人っているんですねぇ。」
そう告げると多嘉子はふと何かに反応したかのようにそーっとカウンターから身を乗り出して窓側のテーブル席を覗き込む。男は相変わらず英字新聞を読んでいて、ちょうどカウンターからは顔は見えない。
「…ちょっとご挨拶してこようかしら。」
「あ、先に言っときますが残念ながら結婚指輪してましたよ。」
「そんなんじゃなくて。…あ、木下もう上がる時間じゃない! 単位落とすわよ。」
シッシッと右手で晃広を追い払うようにしてみせる多嘉子。晃広はカフェエプロンを外して苦笑いしながら先ほど多嘉子がコートとバッグを放り込んだ物置部屋に入る。
…あーもう、バッグもコートもぐちゃぐちゃじゃん…。いつものことだけど。
呆れながらも晃広は多嘉子のコートをハンガーに掛け、バッグもきちんとコートの下に置き直す。そういうところ、意外にも気配り上手なのだった。
自分のジャケットをハンガーから取り上げて羽織る。床に置いてあった自分のボディバッグを肩に掛け、ジャケットのポケットに手を突っ込む。入れっぱなしにしてあったケータイを取り出すと、Eメールが一件、ディスプレイに表示されていた。メールを開く。戸田教授からだった。
『十六時半に研究室に来てね♪ 時間厳守だからね☆』
…軽い…。いつものことながら、ノリが軽すぎる…。晃広は脱力してしまう。もうすぐ七十になる大学教授のメールとは思えない…。
へいへい、十六時半ね。間に合うっしょ。心の中で返事をして、スタッフルームを出ようとした。
その時。
「…多嘉子…?!」
「…わ…た、る…?」
カウンターの向こうから、声がした。晃広は何故か胸騒ぎがして急いで部屋を出る。カウンター越しに晃広の目に飛び込んできたのは、窓側のテーブル席の男の驚いた顔と…背中を向けているので表情はわからないが、その男の前で立ったまま固まってしまっている多嘉子…。窓から注ぎ込む夕焼けのオレンジ色の光…バックに流れるしっとりしたクラシックピアノの音…まるで、映画かドラマの運命の再会シーンのようだ。
この二人…。晃広の胸中がさらにざわめく。直感でわかった。この二人…多分、いや間違いなく、元恋人同士だ…。
シャリマティーにはニルギリ…って話、偶然なんかじゃ、ない。きっと…二人の間で、シャリマティーにはニルギリだったんだ。
一瞬の出来事に過ぎないはずなのに、その光景は晃広にとってものすごく長い時間、ストップモーションのように感じられた。鼓動が急激に速くなる。心臓が、痛い。
我に返ってゴクリと唾を飲み込んで、平常心を保ちながらその空気を消し去ってしまおうと晃広は声を出す。
「…じゃっ、オレ上がりますんで。お疲れ様でしたぁっっっ!!!」
硬直して男と見つめ合っていた多嘉子がビクッと身を縮めて晃広の方を向く。咄嗟に作ったと思われる笑顔が、お面のようで不自然だった。
「あっ…お、お疲れ様。忘年会、楽しんできて。」
晃広は会釈して店を出る。店を出て、数歩進んで振り返る。あの二人が気になって仕方なかった。あの二人の様子を…影でずっと見ていたかった。心臓はバクバクあんなに痛むのに…見ていたいなんて、自分はMなのかもしれない…。
夕日が反射して、店の窓から二人の様子はあまりよく見えない。かろうじて見えたのは、はにかみながらも嬉しそうに笑う多嘉子のキラキラした表情。胸が、きゅううっと締め上げられる。
ブーッ、ブーッ、ブーッ…とポケットの中のケータイのバイブが鳴って、晃広は多嘉子から目を離す。…戸田教授からのメールだ。
『修正液キレちゃったから来る途中で買ってきて~。十六時半時間厳守でヨロシク☆』
…くっそじじィ!! んなもん自分で購買行って買ってこい!!! 晃広は舌打ちしてその場から走り出す。あのキラキラした多嘉子の笑顔から逃げるように、全力で。
駅までの道のりを走りながら晃広は一つ、決意した。
…大学卒業してから告るのは、ナシだ。スリランカに行く前に…なるべく早く、ケリをつけてやる。
夕焼けのグラデーションがオレンジから朱色へ、どんどん赤みを帯びてくる。まるで、晃広の想いに勢いをつけるかのように、赤く、赤く。