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脇役転生したからチート主人公の腰巾着しようと思った  作者: カタツムリ


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ある王様の話

 忘れられない景色がある。

 春めいた風の吹く内宮の中庭で一つ下の弟、それに弟の学友が四つ上の兄にしがみついて笑っていた。

 十一になる兄はもう大人のような背丈をしていた。小さな弟たちは兄の太ももにしがみついて小動物が木によじ登るように兄の体に器用に上り肩まで到達した。

 弟たちは器用に兄の両肩に立ち、兄の頭に抱きついていた。兄が何か言うと顔を覆っていた手は頭の上に置かれ、揺れる体は兄の手で支えられた。そして、ゆっくりと兄が歩き出すと小さな弟たちはさらに興奮して甲高い笑い声を上げた。

 おそらく耳が痛かったのだろう兄が眉を顰めて何事かを言う。弟たちは顔を見合わせてお互いの口を片手で塞いでそれでも抑えきれない笑いを溢していた。

 兄はその声に顰めていた眉を緩めて、仕方ないというふうに笑った。


 兄が笑っていた。


 私はそこで、初めて兄が笑っている姿を見たのだ。

 もう何十年も前の話だ。あの日、なぜ私がそこにいたのかなんてことはもう覚えていない。家庭教師の授業を受けるためだったか、母のお茶会に出るためだったか、まあ、特に何かあったわけではなかったのだろう。

 けれど、あの日の兄と弟たちの姿だけは、今も不思議と色褪せることなく記憶の中に残っている。

 今でもふとした時に思い出すのだ。ひだまりの中で笑い合う兄弟の姿を。




「ルードルフが教会を出てからすでに十日以上経っているそうだ」

 王族が身内だけで団欒するために作られた小さな談話室のソファに沈むように座って酒の入ったグラスを意味もなく揺らす。

 王など厄介なことばかりだとしみじみと思う。

「ナダルニアが王都を出奔して二週間。おそらく時を合わせて抜け出しているだろう、今頃は国境の街で合流している頃か」

 一つ下の弟が王族のままであれば側近になったであろう男。幾つになってもゾッとするような美しい顔をしていたが、時たま王宮で見かける姿はひどく退屈そうだった。

「自らの失態を隠すために教会は報告を怠ったと」

 吐き捨てるように王太子が言う。

 小さな談話室にいるのは一番上の息子と妻だけだ。警護の騎士も侍女もすべて部屋から出した。小さな談話室は王の居室のある奥宮の中央にあって部外者は立ち入れない。家族だけで集まれる貴重な部屋だ。

 室内は歴代の王族が大切に使ってきた家具と妻が選んだ柔らかい色合いの布地や小物で居心地よく整えられていたが、今は団欒とは程遠い空気で満ちていた。

 公務を終えた足でそのまま呼び出された王太子は苛立たしげに眉根を寄せ、妻は悲しげに俯いていた。

 私は深い琥珀色の酒を舐めながら暖炉の炎が揺れるのを眺めていた。春めいてきたがまだ夜は少し肌寒い。暖炉の炎と幾つかの燭台だけが部屋を照らしていた。

 クリスタルのシャンデリアには火を灯さず、柔らかな炎がつくる薄闇に少しだけ酒を入れたグラスを傾ける。普段通りの日課がなんとも滑稽だった。

「ナダルニア侯爵の出奔から辺境域に至る街道は全て封鎖されています。物流が滞り食料品を中心として物価が高騰して諸侯にも不満が広がっています。国境砦にルードルフ叔父上が合流すれば辺境域の独立も可能です。このままでは国が二つに割れます」

 息子が彼の考えうる国難を吐き出すのを、若いなと聞き流した。

 そうだ、まだ王太子は二十歳の若者なのだ。二年前に迎えた同盟国の姫との間には去年孫が生まれた。健康な男児、王統の継承者の誕生を国を挙げて祝ったのだ。

 それからたった一年。こんなことが起こるとは誰も思いもしなかった。

 誰も彼も、退屈な平和が続くと思っていたのだ。

「わたくしの、わたくしのせいです。わたくしが、あの子を」

 何度も繰り返した嘆きを妻が口にする。あの日、末の息子がナダルニアの長女との婚約を一方的に破棄してから妻はひたすらに自分を責めていた。

 もし誰かのせいだと言うのなら、それは私のせいであろう。

 私は隣に座る妻の肩を抱いてそっと抱き寄せた。

「母上、今は起こってしまったことを嘆いても仕方がないのです。どうぞ、お気を強くお持ちください。王である父上を支えるのは母上なのですよ」

 息子は母親の弱った姿さえ苛立たしいのだろう。

 王太子として息子の言っていることは間違っていない。私も妻もそう教育したし、息子の妻である同盟国の姫もそのように教育されてきただろう。

 けれど、妻は違うのだ。彼女は母が自分より高位の女性を王族に迎えるのを嫌がったため自派閥から私に当てがった伯爵家の娘だ。王家に嫁ぐ家格としてはギリギリ、当時王妃であった母が直々に後見することで可能となった婚姻だ。婚約時代の彼女はまるで母に仕えるかのように常に後ろで控えていた。

 言葉を交わす機会も少なく、結婚するまで彼女がどんな人間なのかさえ知らなかった。

 知らずとも、母が選んだのなら間違いはないだろうと愚かな私は思っていた。

 確かに間違いはなかった。

 彼女は控え目ながらも芯の強い賢い女性であった。

 王太子となる第一子と第二子が年子で生まれてからは母の干渉を防ぐために常に子供たちの周辺に気を配り、母の機嫌も損ねないように綱渡りのような社交をこなす。

 彼女のそんな姿を見て、初めて私は母に対して疑念を持ったのだ。

 彼女が子供たちの成長に一喜一憂し、嬉しそうに私に子供達の様子を報告してくるたびに、母とのあまりの違いに戸惑った。

 なぜ出来ないことを叱らないのか、なぜ子供達を抱きしめるのか、なぜ私を労るのか。

 私は一つ一つ彼女に問い、彼女はそれに答えてくれた。時に不思議そうに、時に困ったように、時には笑いながら。

 空虚な器に彼女の言葉が一雫ずつ注がれていった。

「私の罪でもあろうよ。あまり強く言うてくれるな」

 末の息子が生まれたのは長男の王族教育が始まる頃だった。

 私は本格的に王太子としての公務が始まり、諸外国への顔見せで国を空けることも多く子供たちのことは妻に任せっぱなしだった。

 体の回復もままならぬうちから手を回し、目を光らせ、母の影響を受けた教育係を丁寧に遠ざける。それが落ち着いたかと思えば次は年子の次男の教育だ。妻に安まる時間はなかった。

 もちろん、末息子には信頼できる乳母をつけていた。けれど、上の二人の周囲が落ち着き末息子のために時間が取れるとなった時、乳母は母に取り込まれていた。

 すぐに引き離せば良かったのだろうが、妻にも私にも上の二人にかかりきりになり末の息子に目が行き届かなかったという後ろめたさがあった。すでに物心ついた子供から懐いている乳母や世話役を奪うことを躊躇ったのだ。王位から遠かったこともある。上の子供達に手を出せない母の気が逸らせるならという打算も。

 もちろん理由をつけて少しずつ周りの人間を入れ替えたりしたし、息子が聡明だと誉めそやし乳母を早めに下がらせたりもした。それでも、母の影響は大きかったのだろう。もう分別のつく年頃だと思ってナダルニアの娘と婚約させたのだが結果はこのざまだ。

 知らぬ間に起きた大事に末の息子を呼び出し説明をしろと言えば、だってお祖母様が、と不貞腐れたように嘯いた。あの時の言葉にできないほどの絶望。


 あの母を抑え込めなかったことが私の最大の不徳。


「母上の影響を見誤った。あれには可哀想なことをした」

 ため息まじりに言うと息子の眉がぴくりと動く。気に入らない時の癖だ。

「陛下も母上もあれに甘すぎます。もう十六にもなるのですよ。立派な成人じゃないですか。それが、お祖母様がお祖母様が、とみっともない」

 吐き捨てるように言う。

 その言葉に苦笑する。末息子はあまりにもかつての私に似ていた。

「お祖母様には此度のこと、しっかりと責任をとっていただかなければ」

 責任、その言葉に私は苦いものを呑み込む。

 父が病に臥せてからの母の専横は目に余るものがあった。

 決まりかけていた決議をひっくり返し、人事に口を出す。現場は混乱し、王妃派の貴族たちが責任を対立派閥に押し付け長年の功臣を引き摺り下ろしては、空いた椅子に座った。

 そんな状況で政がうまく回るわけもなく、私は母の尻拭いに奔走していた。

 王太子であるにもかかわらず、私には信頼できる側近も頼りになる臣下もいなかったのだ。

 私の支持基盤は母だけであった。幼少期から母の言葉に従い、ただ王になれと言われて育った人形の成れの果て。私個人に付き従う人間などおらず、母を諌めれば部下たちは私に御母上にそのように言ってはいけませんよと諭すように言うのだ。

 宮中の派閥はほぼ固まっていた。

 王妃派、エルトリート大公を仰ぐ軍部派、軍部派に近しい辺境派、日和見の中立派。自派閥を作ろうとも私は彼らに与えるべき利益を持たなかった。中立派でさえ、私には見向きもしなかったのだ。彼らは私を見る時、その後ろに母を見る。私はまるで透明な置き物のようだった。私が私である意味など、誰にもなんの影響も齎さないのだ。

 そして、王は崩御し張り子の人形が即位した。

 なんとか王国の安寧を守り、次代に引き継げればと常に考えていた。

 六つで歴代王を誦じ三桁の暗算をこなし神童と呼ばれ、教会内でも異才を発揮し教国の覚えめでたい弟と私は違う。

 十五で前線に出され十六で隣国に奪われていた国境砦を寡兵で奪還し、その後も護国の雄として剣を振い続ける兄と私は違う。

 ただ、次代に繋げるだけの凡君。それだけでいい、ただそう願っていただけなのに。

 忍び泣く妻の肩を抱きしめてため息をつく。

「引き継ぎの準備をしておかなければな。はてさて、この首一つでどれだけの命が買えるものか」

 それこそ私の責任だ。母の命は別にいいが、妻と子供たち、それに孫の命は惜しい。

 あれらと取引するにはどうにも首が軽すぎる。

 困ったものだ。

「何をおっしゃいますか! 陛下! ナダルニア侯爵がしていることは反乱ですよ! 私意で国を乱し王族に敵対する大逆です! これを鎮圧するのが我ら王族の務めでしょう!」

 息子が声を荒げて立ち上がる。

 その言葉は正しいばかりだ。ただ現状が見えていないだけで。

「誰が鎮圧する?」

「我が王国軍が!」

 私の問いに間髪を容れずに怒鳴り返す。

「実戦経験のない張りぼての騎士と治安維持に従事する警備隊の寄せ集めだ。国境砦を守る精鋭に当てるのはいささか可哀想ではないか?」

 思わず笑いながら言うと息子はますます顔を赤くして拳を握った。

 王太子となり妻と子を得てから澄ました顔ばかりしていた息子が子供の頃のように癇癪を起こす様がなんとも懐かしくてつい笑ってしまった。

 妻がそんな私に気がついて、陛下、と小さく諌めた。臥せていた顔を上げて困った人だと私を見る妻だって、きっと息子の幼少期を思い出していることだろう。妻は私より表情を繕うのが上手い。

「ルードルフが教会を去ったのなら、エルトリート大公が私に膝をつく義理はない。英雄が牙を剥けば王冠などなんの意味も持たぬ。母上と私の首で済めば儲けものよ」

 憎まれて当然なのだ。母親が亡くなっても王都に戻ることを許されず同母の弟は安全なはずの王宮から攫われ教会に囚われた。

 首謀者であるとわかっているものに膝をつき、すべてを捨てて弟の命を乞う。

 それがどれほどの屈辱であったか。

 想像すらできない。

「国が二つに割れる前に王がすげ替わるだけだ。鎮圧など結果の分かりきった負け戦をする必要はないだろう」

 妻の肩を抱いたまま、怠惰に深い琥珀色の酒を舐める。

 普段、子供たちに見せることのないだらしのない姿に息子は唖然として口をぽかんと開けて、それから悔しげに唇を噛んだ。

「それでも、諸侯が領軍を出せば、数で圧倒することが」

 なんとか打開策を出そうと努力する姿は親としては誇らしい。けれど、時には嫌でも認めなくてはならない現実というものがある。

「農夫に剣を持たせれば、来年の麦を収穫するものがいなくなるぞ」

 領地持ち貴族が持つ領軍は警備のための騎士や兵士を除き、その大半が有事に徴兵される農民。

 数字の上では何千という規模の軍を持っていることになっている大貴族でも平時に兵として稼働しているのはせいぜいが数百といったところだろう。

 数千の職業軍人が詰める国境砦とでは質が違いすぎる。

 そもそもエルトリート大公が国境砦に数千の領軍を抱えることになったのは王妃派貴族の嫌がらせでそれまで国境砦に詰めてた王国軍を引き揚げさせたからだ。大公領となったのだから、国の力を借りずに守れと無茶を押し付けられた。あまりの理不尽に王国軍を辞して大公領に向かった兵士の数は千に上った。ともに戦ったエルトリート大公を助けんと彼らは安定した王国軍人の職を捨て家族を連れて国境の街へ向かったのだ。あの頃の軍務省の混乱は思い出したくもない。

 エルトリート大公は彼らをすべて受け入れ、さらに領内からも新兵を募り国境砦の守りを固めた。

 王妃派貴族のおかげで無敗の国境警備隊が出来上がったと思うと、全く皮肉なものである。

「来年の麦の心配など……」

 力なくソファに座り込んだ息子が頭を抱えて呻いた。

 息子には本当にすまなく思っている。

 せめて、母が亡くなって私が息子に譲位した後であったなら。

 十八の頃の私は異母弟が母によって強引に教会に連れ去られたことを知らなかった。

 ルードルフが教会にいることを知ったのでさえ、だいぶ後になってからだった。

 何も知らず、ただ母の人形として兄が母に臣下の礼をとるのを見ていた。

 尊敬にたる伴侶を持ってそれまでの己に疑問を持ったとしても、結局は空っぽの人形のまま。 

 せめて事実を知った時にルードルフを保護し、エルトリート大公と交渉ができていれば。

 そして母から実権を取り上げてどこかの離宮にでも幽閉できていれば。

 何もかもが遅すぎた。今更の話だ。

 母の顔色を窺うばかりで、自分の権力基盤を作ることも出来なかった無能の報いを子が受けることとなってしまった。

 ああしておけば、こうしておけば、意味のない仮定ばかりが頭をよぎる。

「お前の妃と子だけでも国に帰して保護してもらえるよう手配しよう。同盟国とことを構えることまでは望んでいまい」

 最悪の場合は現王族の首がすべて晒されるのだから。

 すっかりと力をなくした息子が静かに頷く。


「それはちょっと困るんで、やめてもらえませんかね?」


 談話室の片隅から、いるはずのない人間の声がした。

 心臓を掴まれるような驚愕にグラスが手から滑り落ちる。

 息子が顔を強張らせてガタリとソファから立ち上がり、隣に座っていた妻は私の前に身を乗り出すように腕を広げた。


 決して広くはない談話室の片隅の暗がりに、異母弟は感情の見えない微笑みを浮かべて立っていた。


「王太子妃殿下はご出産を終えられたら国元にお帰りになられても良いのですが、王太孫殿下には残っていただかないと困るんですよ」

 ルードルフの言葉に息子が懐剣を抜いた。王太子妃の第二子懐妊はまだ初期ということで極秘にされている。王宮の外の人間、ましてや教会に囚われていたルードルフが知っていて良い情報ではない。

 制止の声をかける間も無く息子がぐっと足を一歩踏み込んだ、その瞬間、握りしめていた懐剣が弾け飛ぶ。

「狭い室内で刃物を振り回すなんて危ないじゃないですか、王太子殿下」

 ナダルニアの人を馬鹿にしたような声がした。

 異母弟の背後の暗がりからニヤニヤと笑いながら、それでも輝くように美しい男が現れる。

 そして、そのさらに後ろには驚くほど気配を感じさせない、けれど、一度気がついてしまえば決して目の離せない偉丈夫が静かに佇んでいた。


 兄上。


 声を出さずに唇だけが動いて、私は呆然と呟いていた。

 おかしなことだ。私はエルトリート大公を一度として兄と呼んだことはないのに。




「さて、本日は皆様にご提案があって参りました」

 空いていた椅子にゆったりと座り足を組んだルードルフはにこやかに話しだした。

 司教補の僧服を纏った弟の姿は見慣れたものだったが、その表情は今まで見てきた穏やかな聖職者の顔ではなかった。人間らしい、どこか小憎らしい顔だ。

 息子が忌々しげに白々しい、と吐き捨てると弟の後ろに護衛のように立つナダルニアが手のひらで転がしていた小石を同じく隣に立っていたエルトリート大公に渡した。

 息子はぎゅっと口を結んだ。

 先ほど懐剣を弾き飛ばしたのはエルトリート大公が指で弾いた小石だった。

 懐剣を弾かれた息子は部屋の外で待機している騎士を呼ぼうとしたが、声を出す前に小さな礫に肩と腹を打たれて悶絶した。

 ナダルニア曰く、エルトリート大公の指弾は鉄の鎧をへこませ、近距離なら親指ほどの厚さの板を打ち抜くとか。

 息子の様子を見るに手加減はしてくれているようだった。

「不躾ながら、先ほどの皆様のお話を聞かせていただきました。皆様と我々の現状における認識の差異はないと思われます」

 飄々と自分達の勝利を当然だと語る。まあ、当然なのだろうが。

 そもそも、この部屋に彼らの侵入を許してることですでに勝敗は決しているのだ。

 エルトリート大公の小石一つで王位はルードルフのもの。

 諦めを通り越して、なんとも言い難い虚無感が体を重くした。

 絨毯に飲ませてしまった酒が恋しい。


「そこでですね、王太孫殿下を私の養子にいただけないかと思いまして」


 一瞬、何を言われたのか分からず異母弟の姿を目を丸くして眺めてしまった。 

 それから妻を見て、息子を見る。やはり私と同じように目を丸くしていた。

「ルーディ、端折りすぎ」

 ナダルニアが言う。

 それに異母弟は苦笑して肩をすくめた。

「早く帰って寝たいんだよ。あとちょっとで国境街だってところまできてたのに、お前に捕まって王都まで強行軍だよ。お前、もうちょっと計画性を持って行動しておくれよ」

 兄上もそいつに付き合って無茶しないでくださいよ、とぼやく。

「だってヴェルリッド様が王様はちゃんと現実が見えてるから下手すると早々に王太后と自分の首さし出して終わらせにくるぞって言うんだもん。そんな簡単に終わらせられたら困るじゃん?」

 その言葉に目を剥いてエルトリート大公を見る。

 静かに腕を組んで佇む姿はナダルニアの言葉を否定しない。

 なんとも言い難い感情に呻きそうになって唇を噛んだ。

 そんな私に気がついたのか妻がそっと私の手を握ってくれる。

「はいはい、確かに兄上の予想通りでしたね」

 ルードルフが肩をすくめて私を見る。


「私ですね、王太后と陛下の首渡されても、全然、全く、腹の虫が治まらないんですよね」


 肘掛けに頬杖をつき、ニヤリと笑いながらそう言う異母弟は冷酷な支配者の姿をしていた。

 穏やかで、慈悲深い聖職者などとどうして思っていたのだろうか。母から最も理不尽な被害を受けたのはこの異母弟であろう。その怒りを、あまりにも軽んじていたのではないか。

「陛下、陛下、私はですね、あの身の程をわきまえないあなたの御母上をですね、屈辱のどん底に落として、罪人の衣を着せて、高々と罪状を歌い上げて民衆の前で公開処刑にしてやりたいんですよ。ねえ、陛下? 毒杯で穏やかに息を止めた女の首になんか興味ないんです、私は」

 ギラギラと憎しみに目を輝かせて異母弟が笑いながら言う。

 母上、あなたは一体何をしてしまったのですか。

 背筋を凍らせて、その強い視線に慄く。

 誰もが動けない中、エルトリート大公の手がそっとルードルフの目を覆った。

 空気がふっと緩む。

「あー、すまんかった。これはマジでお疲れ。ちょっと休憩しててな」

 ナダルニアが気の抜けた声で言って、ちらりとエルトリート大公を見る。

 エルトリート大公が少し顎をしゃくるのを見てナダルニアはぎゅっと顔を顰めた。

「えー、では僭越ながら、わたくしがご説明させていただきますね」

 いやいやな丁寧語が癪に障る。私は手を振ってナダルニアに言葉を戻すように言った。今更ナダルニアに畏まられたところで気持ちが悪いだけだ。

「どーもー、お気遣いありがとうござます。じゃ、ざっくばらんに行きますね」

 息子の眉がピクピクと動いた。それでも黙っているあたり我が息子はなかなか自制心がある。

「まず、我々を王弟派としますね、んで俺ら王弟派としては王太后派を排除してルードルフを王位につけるというのが既定路線です。王様と王太后の首を先にもらっちゃうと王位についた後でちまちま王太后派を排除しなきゃいけないんで時間かかるしめんどいのでやめてほしいです」

 ざっくばらんすぎて頭を抱えた。王太子も何か言いたげだったが我慢していた。

「理想はですね、大公が挙兵した後に王太后派が大公許すまじと手勢を引いて駆けつけたところを一気に叩き潰したいんですよね」

「諸侯が軍を編成するには時間がかかる。それまで王国軍で対処するとなると双方に無駄な損耗が出るぞ」

 ルードルフが王となるなら王国軍の被害は少ない方がいい。兵士たちの心理的にも大公軍に剣を向けるのは抵抗があろう。

「そう、そこでご相談なんですよ」

 ナダルニアがニッコリと笑う。まるでやりての商人のようだ。胡散臭いことこの上ない。

「陛下には議会でこう主張していただきたいんです『エルトリート大公の軍に我が軍が勝てるわけがない、頭を垂れて許しを乞うしかない』と」

「貴様! 陛下にそのような姿を臣下に晒せというのか!」

 息子が思わず立ち上がってナダルニアを怒鳴りつけた。

「母親を御せずにたった四年で玉座を奪われる無能王が臆病王と呼ばれるだけですよ。大した差ではないでしょ?」

 ニヤニヤと意地悪く笑うナダルニアの言葉を私は否定できない。息子もそれはわかっているが、それでも怒りに全身を振るわせナダルニアを睨みつけた。

「王太后もきっと王太子殿下のようにお怒りになるでしょうね。それはそれは盛大に」

 静かな声がそう指摘した。

 先ほどの様子が嘘のような穏やかさでルードルフが微笑んでいた。その内に住む狂気を知った今となってはその穏やかさこそが恐ろしい。

「母上を暴走させろと言うのだな」

 ため息交じりに呟く。妻と息子が息を呑んだ。

「陛下はどうか御母上をお止めください。丁寧に、それはそれは必死に説得していただければ幸いです」

 傀儡である私が母を説得しようとすればするほど母は大きく反発するだろう。簡単に想像がついてしまう。

「その際に陛下は仰ればいいのです。無駄な犠牲を出す必要はない、王国軍は留め置くと。どんなに王太后が檄を飛ばそうと軍の統帥権は王にあります。軍部は王に従うでしょう」

 軍部の忠誠など王太后派のお飾り連中以外はエルトリート大公にとっくの昔に捧げられてるに決まっている。それなのに統帥権などと飄々と言う。

「陛下は存分に説得をしていただきたい。諸侯の軍を集めるにも時間がかかる、それでは間に合いません。徴兵している時間なぞないのですから、お諦めになるのがよろしいと」

 王太后は躍起になって派閥の貴族たちに派兵を急がせるだろう。農兵を諦め、手勢だけで駆けつけた寄せ集めの王太后派貴族連合軍と大公軍。質で劣る上に数でさえ劣るままに戦場に向かわせろと。全くもって慈悲のない連中だ。

「……そして厄介者を片付けた大公軍が王城まで押し寄せてきたら、穴熊の王は大人しく王冠を差し出すと」

 パチパチと気のない拍手をナダルニアがする。

「それで、孫の話はどう繋がる? お前が妃を迎えれば養子など争いの種にしかならぬだろうに」

 息子が自然と身を乗り出す。

 ルードルフは肩をすくめた。

「妃を迎える予定はありませんよ。王太孫殿下には王族教育を受けていただきゆくゆくは王太子となっていただきます」

「どういうことだ?」

 息子が戸惑いながら問う。

 私も妻もにわかには信じられずに異母弟の顔をまじまじと見る。

「いくつか理由があるんですが、まず第一に私は教国の教皇猊下の後見を得て王権を得ます。これは決定事項です」

「な! 教国とはいえ他国の後見を得る意味が分かっているのか! 我が国を教国の属国とする気か!」

 息子が立ち上がってルードルフに掴み掛かるがナダルニアがサッと出した足に引っかかって床に転がった。打ち付けた膝が痛そうで妻が慌てて立ちあがろうとしたが止めた。

「そうならないために一代限りの王ですよ」

 うつ伏せから立ち上がろうとした息子の背中にエルトリート大公が足を乗せる。軽く乗せただけのように見えるがそれだけで息子は起き上がれなくなった。

 顔だけ上げて口を開けたところでナダルニアが口の中に何か放り込む。いまさら毒はなかろうと眺めていると、吐き出そうとした息子の口と鼻に手を当てて大人しく飴ちゃん舐めてられるなら外してあげるよーと天使のような微笑みで言っていた。

 飴なのか、そして大人しくできないならそのまま窒息させるのか。

 息子は賢明にも沈黙を選んだ。

 息子の代わりに私が口を開く。

「現状で教皇の後見が必要だとは思えないが? 国内の支持者だけで十分に王権を維持できるだろう?」

 すでに国内に堅実な支持基盤があるのに外からの後見が必要だろうか?

「大変面倒臭い事情がありまして、全部説明すると夜が明けますので掻い摘んで説明しますね。それでも結構面倒くさいんですけど」

 うんざりした顔のルードルフが頬杖をつく。

「隣国ですね、どうもかなり前から東部中原国家群の手が伸びてるらしいんですよ」

 予想外の言葉に言葉を失う。

 東部中原国家群、我が国とは隣国とそのさらに東にある大陸を縦断する山脈に隔たれた遠い国だ。山脈を大きく迂回するか、沿岸国経由でしか交流がない。大陸の東部に広がる豊かな平原をいくつもの国が常に国境線を書き換える紛争の絶えない地域だ。

 それが、お世辞にも豊かとは言えない隣国になぜ?

 山脈越えも迂回路も軍を送り込むにはあまりに効率が悪い。海上も隣国沿岸部は複雑に入り組んだ岩礁が取り巻き小型船以外は港に入ることさえできない。

 少人数の工作員を送り込み、内部から調略したとしても交通の便さえままならない国をとる意味は。

「大型外洋船があるのか、東部に」

 唖然として呟く。

 そうか、たとえ港に入れずとも沖合で物資の補給ができれば侵略の足がかりになる。

 標的は隣国ではなく我が国。

 隣国に兵を入れ国境でエルトリート大公を足止めし、海からの奇襲。軍事をエルトリート大公ひとりに背負わせ続けた我が国に海戦を指揮できる将などいない。

 そもそも我が国とて沿岸部は遠浅で大きな港はない。大陸中央という恵まれた立地のために交易は陸路が主となっている。漁業を中心とした港町や小さな商船しか来ない交易港にいるのはせいぜいが海賊を警戒する小規模の警備隊。

 そこに外洋から大量の兵士を乗せた艦隊が現れれば。

 思わず口元を手で覆った。

 ナダルニアが音を出さずに口笛を吹く。

「え、すごくね王様? あれだけでそこに行き着くの? 現実見えてるとかいう次元じゃなくない? ねえ、ヴェルリッド様?」

 面白がるようにエルトリート大公に声をかける。

「見えすぎるから、すぐ諦める」

 エルトリート大公は鼻を鳴らしてそう言った。

 思わず、エルトリート大公に目を向けてしまった。

 あなたに、私はそう見えていたのか。

 その足元からガリガリという音がした。

「待ってください! どういうことなんですか! なんで東部中原国家群が隣国に! なんでそれが大型外洋船の話になるんですか! ちゃんと説明してください!」

 律儀に飴を噛み砕いてから叫んだ息子にルードルフはチラリと目線をくれてやった。

「大型外洋船は西部群島諸国でもやっと二隻が運用開始したばかりの最新型ですよ! なんでそれが海洋国家でもない東部で!」

「ちゃんと勉強しててえらーい! でももうちょっと黙ってような」

 無慈悲にもナダルニアによってまたしても飴玉が放り込まれた。詳しいことは後で王様に聞くんだよー、と説明責任をついでにこちらに投げつける。

「申し訳ないんですけど、詳しいことは私たちにもわからないんですよ。隣国に人を送れるようになったのも国境が落ち着いたここ数年のことです。大型外洋船についても地元の漁師の噂話を辿って確かに見た人間がいると確認できた程度です」

 ルードルフがため息を落とす。

 なぜかナダルニアは自分の口に飴を放り込んでエルトリート大公にも渡していた。エルトリート大公も飴を舐めるのか、そうか。

「隣国の大規模な侵攻は十五年前が最後です。その後は散発的に国境沿いの村を襲う盗賊行為程度、国境砦の睨み合いも政治的な示威行為に過ぎず直接的な戦闘は起こっていません。なぜなら、彼らにはもう軍を動かすだけの力もないのです」

 十五年前、大陸中央部は大渇水に襲われた。雨の降らない夏の後、実りのない秋が来た。我が国は被害の少なかった同盟国や西部諸国の援助を受けて乗り越えたが、それでも餓死者がかなりの数出ている。

 隣国の被害も相当なものだったと聞く。彼らの主産業は畜産業。山脈の裾野に広がる荒凉とした大地で遊牧をしながらわずかな畑作で暮らしを営む騎馬の民はその財産の多くを失った。

 そして、彼らが選んだのは略奪。

 かつてない規模の大侵攻。ともに飢饉によって疲弊した軍のぶつかり合いは過去に例を見ないほど凄惨なものになった。

 この戦を我が国の勝利に導いたことでエルトリート大公は国境の領土を与えられることになる。

「十五年前、教会が仲介に入り和平が成立した後、教会は彼らに援助をし復興に尽力しました。しかし、渇水による飢饉と敗戦の傷跡はあまりにも深過ぎた」

 伏し目がちにルードルフが言う。

 その後ろではナダルニアとエルトリート大公、そして床に落ちている息子が静かに飴を舐めていた。

「私たちの予想ではおそらく、この時に東部中原国家群から取引を持ちかけられたのではと思います。そして彼らはそれを受け入れた。食料を得るために」

「奴隷貿易か」

 敗戦した隣国には何もなかった。

 人以外は。

 ルードルフが静かに頷く。

 教会は奴隷を禁止している。人は神の所有物であると聖典にあるからだ。人が神の所有物を所有するのは不敬であると。

「十五年前にすでに外洋船が完成していたということか?」

「現在のものの試作型ではと考えています。その時にすでに完成していたなら今頃外洋は東部の船に支配されていたでしょうからね」

 肩をすくめて私の疑問に答える。

「一度の取引で数百人の奴隷と百以上の騎馬が出荷されているのではないかというのが隣国に調査にやった人間の見解です」

 一度に数百人の人間と百以上の騎馬を運べるだけの輸送能力があるというのか。

「大型船一隻に数百の人間。これが百あれば万の人間を戦地に送れます」

 思わず息を止めて呻く。

「内輪揉めなど、している場合ではなかろう」

 ナダルニアが呆れたように私を見る。

 確かに、私の言えた義理ではなかったか。母に末の息子、全て私の不甲斐なさが事態を悪化させた。

 頭が痛い。

「まあ、ともかくですね、隣国は食糧こそ東部からの輸入で十分に補われてるんですけど、若い女性や働き盛りの男性を徴発しては奴隷として売り飛ばしているので国内感情は最悪。政治の中枢まで東部の息がかかったものが入り込んで、ほぼほぼ陥落寸前でして」

 次は我が国の番だと。なるほど、王太后派を排除して国家一丸となっての防衛……


「だったらうちが先に獲ろうかと」


 にこやかにルードルフが手のひらを広げて、ぐっと握りしめた。

 ナダルニアがうんうんと頷いている。

 どうしてそんなに満足げに頷いているんだお前は。

「奴隷貿易のことは薄々教会も把握してまして、この度の調査で東部がそれを主導していると判明して教会関係者は大変お怒りでしてね」

 なぜか大変嬉しそうにルードルフが手の平を開いたり握ったりを繰り返す。首でもくびる様な不穏な動きだ。

「もともと東部は独自の信仰があり教会の教えはあまり一般的ではないんです。隣国も山岳信仰が主流で教会信者は少数派。ですが、いないわけではありません。教徒もいれば教会もちゃんとある。以前から教会は東部に対して少数派である教会信者に対する不当な差別や強引な改宗を止めるように申し入れていました」

 教会と東部の対立、そして奴隷貿易。

「即位後、私は隣国の奴隷貿易を非難し教皇猊下の代理人として隣国の教徒の保護のために派兵します」

 教会は我が国を東部に対する盾として使い、ルードルフは教会を隣国に対する剣として使おうと。

「乱暴すぎるだろう」

 あまりのことに呆然としながら呟く。

「目の前で害虫の巣が作られようとしているのになんで巣が出来上がるまで見守ってなきゃいけないんですか?」

 ルードルフに鼻で笑われた。意味はわかるが、あまりにもな言いようだ。

「隣国制圧後、しばらくは東部も牽制できるでしょう。ですが、本番は彼らが橋頭堡も必要ないほどに船の数を揃えた時です。大型船の入ることのできる貿易港、それを奪われれば彼らはどこまでも手を伸ばせる」

「それが東部の者たちに可能だと、お前たちは考えているのか……」

 正直、いまだに夢物語を聴いているような心地だ。

 山脈の向こうでお互いに噛み付き合っていた狼がこちらを覗いている。

 高みの見物をしていた間抜けな人間たちの喉元に噛み付く機会を今か今かと窺っているというのだ。

「隣国の制圧で稼いだ時間で準備をします。西部は教会の影響力が強い。教皇猊下のお名前で船も人も金も供出させます」

「大陸全土を敵に回すのか、東部も哀れなことだ」

「さて、それはどうでしょうかね?」

 ルードルフが苦笑する。

「十五年、いえ、きっとそれ以上前から我々に気づかれずに下準備をしてきた連中です。下準備の一つが無駄になった程度でどうにかなるような計画ではないでしょう。西部の商人どもも教会の権威があれど完全な味方とはいかないでしょうし。一筋縄ではいかないでしょう」

 苦笑しながらも、なぜかその笑みは楽しげだ。

「でも私たちには」

 ニヤニヤと笑うナダルニアがルードルフの座る椅子の背に頬杖をついた。


「ヴェルリッド様がいる」


 歌うように、捧げるように、天使のような男が寿いだ。


「いっとう輝く主役の星! 強くて賢くて優しい! 誰もが讃える! 千年先まで語り継がれる俺たちの英雄! ヴェルリッド様がいるのに負けるなんてありえない!」

 突然のナダルニアの口上を唖然として聴いていると、あ、いて! とナダルニアが蹲った。無表情のエルトリート大公がナダルニアに小石を当てていた。一撃、二撃と当てて、その度にナダルニアは頭を抱え、いた! マジいた! と呻く。

「というわけでして、二つ目の理由ですね。めちゃくちゃ忙しいので嫁取りとかしてる暇ないので、お孫さんください」

 ルードルフはナダルニアの呻き声を気にすることなくにこやかに言った。

 突然詰め込まれた大量の情報による頭痛を誤魔化すようにため息をつく。

 拒否権のない要望に返答の意味はあるのか。

 理には適っている。教皇の代理人として中央と西部の盟主となるルードルフの権威は一国には過ぎたものだ。それが一代だけのものであれば他国の警戒も和らぐ。

「……息子はどうするつもりだ?」

「国父が平民じゃ格好つかないですから、王族からは除籍しますが適当な伯爵位についてもらいますよ」

 エルトリート大公に踏まれていた息子が目を剥く。

 妻がほっと息をついた。戦争への不安より、息子の命に安堵する。

「基本的に、全ての咎は王太后に背負っていただこうと考えています。陛下には是非議会で盛大に煽っていただきたく」

 もう何も言うまいと頷く。

 王として見えていなかったものが多すぎる。まさに無能王の名に相応しい体たらくだ。

「それでは、本日はこの辺でお暇します。次に会うのはだいぶ先でしょうが、後ほど詳しい資料はお渡しできるように人をやります。連絡はそのものを通してお願いしますね」

 椅子から立ち上がりながら、さらりと城内に内通者がいると宣う。

 本当になぜこれを穏やかな聖職者などと思っていたのだろう。

 ルードルフが談話室の片隅、灯の届かない暗い壁を二度叩くと音もなく壁が消えた。

 驚くのにも疲れた。無表情でルードルフとエルトリート大公を見送る。

 遅れてナダルニアがよっこいしょっと言って立ち上がった。見た目若々しいくせに年寄りくさい。

 エルトリート大公の足の下から解放された息子が床に胡座をかいて胡散臭げにナダルニアを眺めていた。仕方ない、あれはなんとも言い難い奇怪な生き物だ。

 不意に、ナダルニアが振り返って私を見た。

 前から思ってたんだけどさ、と前置きする。


「「いーれて」って言えば特等席でヴェルリッド様の英雄譚が見れたのに。王様ちょっともったいなさ過ぎじゃね?」

 

 本当に不思議そうにそう言って、首を傾げた。

「エド、余計なこと言ってないで帰るよ」

 隠し扉の後ろから声をかけるルードルフにはーいと返事をしてナダルニアは暗がりの中に消えていった。

 音もなく扉は閉まった。

 しばらくして立ち上がった息子が壁に手を当てる。

「繋ぎ目も取手もありませんね。これは向こう側からしか開かない扉ですね。こんな隠し通路があったなんて、陛下はご存じだったのですか?」

 息子の問いに私は何も言えなかった。返事のない私に息子は不思議そうに振り返る。

 言葉を返そうと口を開くが、言葉にならなかった。

 喉の奥に何かが詰まって、音が消える。

 何かを察してくれた妻がそっと私の頭を抱きしめてくれた。

 それが、少しだけ喉の奥を緩めてくれる。

 

 後悔はいつだってしていた。

 母のこと、派閥のこと、異母弟のこと、異母兄のこと、末の息子のこと。

 もっと何かできることがあったのではないか、自分の努力が足りなかったのではないか。そんな常に心にあった後悔を、ナダルニアは塗り替えてしまった。


「あれは、悪魔か……」


 生涯、この後悔を抱いてゆくのだ。




 

 あの日、ひだまりの中で笑い合う兄と弟に、たった一言が言えなかったことを。

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― 新着の感想 ―
読みたいと思っていた王様視点が読めて嬉しいです。 王太后、罪なことをしましたね。 ルーディくんは、目の前で友人が殴られて血だらけて昏倒している間にさらわれて、結構トラウマだと思うのですよ。そのあと、自…
祝 連載化。 2話の推察力、俯瞰視をみるに、王の器ではなくても凡愚でもないが故に陛下も気の毒な御仁かと。 もしルードルフが王、大公が元帥、王が宰相格でナダルニアが宰相だったら。 この国は混乱も腐るこ…
大公が喋ったァアアアァァア!!!! もしかして始めてセリフが出てきたんではない??ので??しょうか????いままでずっと天使のような悪魔くんの語りでかたられていただけ……のような……?? 推しの肉声を…
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