7.親愛
ヒマ。
世界一ヒマ。誰か助けて欲しい。
私は最近の生活にウンザリしていた。
「ルイーザちゃん、今日もお庭のお散歩?」
朝食をとり、新聞と本を持った私は声を掛けられた。虚無生活を言い渡した、母その人が微笑んでいた。
「はい、お母様」
「お庭もいいけど、あんまり外に長く居ると体を冷やしますからね」
はあい、と間延びして答える。ついでに近くに居た猫も抱えて私は別荘の小庭に出た。
庭師に挨拶をして、椅子に腰かけ剪定作業を眺める。母のお気に入りのバラの木はキレイに整えられていく。
「ヒマだわ……」
膝に置いた猫がなぁんと鳴いたので、手持無沙汰に顎の下をくすぐる。
先日湖で誘拐されそうになってから、私は一人での外出を禁止された。そうすると、本当にヒマなのだ。
領地の邸宅に帰れば勉強なり、ダンスなり、芸術なり、先生を呼んで時間はあっという間に溶けていく。社交シーズン中の首都のタウンハウスでは使用や親族が面白い話を持ってきてくれる。
しかし今は夏休み、避暑地では有閑こそが正解だった。
一度自由を手に入れると、窮屈に戻って平気な顔をするのは至難の業だ。
この世界の治安について考えが甘かった、侍女まで被害に合わせた軽率な行動は反省している。これは罰なのかもしれない。
家の中でちょっとでも変わった行動をとると母が駆け付けてきて自分が編み物や刺繍をする脇に置いて私を監視するので、大人しくしている他ない。
あまり気乗りしないが、自分も裁縫に手を出すべきだろうか。
猫を茎の長い植物で構いながら考え事をしていると、メイドに声をかけられた。
「訪問の先触れのないお客様が、お嬢様にお会いしたいそうです」
「どなた?」
「グントラム公爵家のマクシミリアン様です」
メイドは耳元で「旦那様も奥様も、あまり良い顔をなさらず……」と囁いた。私は彼を、応接間ではなく庭に連れてきて欲しいと頼んだ。
「ルイーザ、調子はどう?」
「ごきげんよう、公子。お陰様で元気にしております」
現れたマクシミリアンは私の態度に笑った。
「キミは会うたび他人になってしまうな」
「模範的な貴族同士の挨拶ですよ」
敬意をもって礼節にたっとぶ。私は教えられた通りの仕草で挨拶した。
「ボクは家門としてじゃなく、友人としてキミに挨拶してるのに」
彼は唐突に手を差し出した。
見れば鉢植えを抱えており、プレゼント用のリボンが巻かれている。
そのリボンと、つぼみの状態の花には見覚えがあった。母にプレゼントしようと通りで先払いしていた異国の花だ。
人攫いに拐かされそうになった日に買ったもので、もう行商も街を出たと思っていた。
「私がこれを買ったって、誰に聞いたの?」
「露店で。これを買った貴族の女の子は知り合いじゃないかって尋ねられてさ。キミのことだと思った。違ったら返しにいかなきゃいけないとこだったよ」
「……ありがとう、マクシミリアン」
私は鉢植えを受け取る。本当は母に贈ろうと思っていたが、あの日の件で何だかけちが付いた気がして自分の部屋に飾ることにした。
「猫を飼ってるんだ」
その言葉を聞いて、マクシミリアンの視線を追う。見ると、先ほどまでくつろいでいた猫が毛を逆立てていた。
脚を伸ばし、背中を丸めてステップを踏む。マクシミリアンは威嚇する猫を上から凝視した。私はメイドに猫のブラッシングを頼み、屋内に連れて行かせた。
「見てただけなのに」
「そうね。見てただけ」
「ボクが猫になにかしそうだと思った?」
温度の無い質問に、私は動作を止めた。
「あの子に何かあったら、アナタを同じ目に合わすわよ」
肩を人差し指で小突くジェスチャーをして、ガーデンテーブルへ導く。
「同じ目? キミは暴力が嫌いなのに?」
「アナタは暴力が好きであんなことを?」
脳内に湖での風景が鮮やかに蘇る。
戸惑いなく、何度も、何度も櫂が振り下ろされた。
硬い音が鼓膜の中で弾ける。
沈む一瞬前の男の表情が網膜に焼き付いている。
思い出す一瞬の間に大人しく彼が座ったので、私も席についた。
「好きなワケではないよ。ただ、あの時は選びようがなかった。必要だったんだ」
「なら、私も同じね。必要なら決心するわ」
彼の言葉の殆どは、共感性に欠けているように思う。
私は黙って屋内でブラッシングされている愛猫を庭から見つめた。
「かわいい猫だね。名前は?」
「まだ無いわ」
「まだ無い?」
「気に入る名前がないみたいだから、まだ無いのよ」
「じゃあ、いつか名前がつく?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないわ。どちらでもいいの」
「そう。たしかにどちらでもいいか。キミの猫には変わりないし」
会話が一区切りつくと、彼も私と一緒にお世話される猫を眺める。
(必要だった、ね)
思うに、暴力に必要性なんか説くべきではない。なぜなら、必要性という言葉は、時に小賢しく悪用されるからだ。
必要性は金や権力にひどく弱い。
大抵の人間は金と権力を自分の頭上より更に上に掲げる。相性は最悪だ。
でも、例えば襲われそうになったり。
例えば大切な人が傷付いたり。
例えば理不尽な圧力によって自由を長年奪われていたり。
そんな時、全てを忘れて暴力を愛するのは至極当然のことだと思う。
有閑のあいだ、先日の人攫いの事件を何度も思い出した。
彼は私を助けてくれた。純粋な少女の視点ではそうかもしれない。勧善懲悪だと思えないのは何故かしら。
自身の生存と尊厳が、あの一瞬の暴力にかかっていた。
確かにそう。
でも。
彼の暴力には、情緒がなかった。恐怖や怒りがなかった。だから怖いのだろうと思った。21世紀に辿り着くまでの様々な技術を思い出す。成果こそが倫理観と対立する技術が幾つか頭によぎった。
テーブルの上の新聞に視線を落とす。国境の争いについて書かれていた。
例えば十年後、と考える。
『グントラム公爵令息 戦場で千の首を討ち、英雄へ!』という見出しを見かけたら、私は嬉しくなるだろうか?
新聞から視線をずらす。ふと、彼の腕が目に入った。
「マクシミリアン、怪我をしたの?」
袖から伸びた肌に見えた赤い線。切り傷かと思ってよく目を凝らすと、鞭跡によるミミズ腫れだと分かる。
思わず手をとる。服に隠された腕には無数の傷跡があってゾッとした。私はのけぞって、信じられないものを見る目で彼の傷を見つめていた。
「いつものことだよ。父は青い血はみんな厳しい教育を受けるって言うし」
ひょうひょうとした態度でマクシミリアンは呟く。
少年の言葉に、この世界の全てが嫌になる。自分すら生きるのに精一杯なのに。誰の言動にも揺さぶられない、鉄のような人間になりたかった。
猫の背を撫でるように彼の傷を撫でる。マクシミリアンは傷を撫でる私の手をとって、両手を握った。
「ルイーザ。あの時、ボクにはもっと上手いやり方があったと思う?」
「どうしてそんな事を聞くの?」
澄んだ目が私を貫く。
揺らぎがない湖のような瞳だ。
「キミが凄いヤツだと思ってるから。うまく説明出来ないけど、ボクはキミを追いかけていたいのかもしれない」
「私を?」
「うん、だからキミの意見を知りたい」
真っ直ぐな瞳が、私を追いかけてくる。
見つめ返した少年の面立ちは年相応であどけない。参るよな、と首を振った。
「物事は、私の意見だけで決めるべきでは無いわ」
握っていた手を降ろした彼に、でも、と続ける。
少し気軽にほほえんだ。
「来年もボートに乗りたいわ。そこで検討会をしましょう。一緒に漕いでくれる? マクシミリアン」
「勿論、ルイーザ。今度は何も起こらない日にするよ」
計画的ね、と私は呟いた。彼は声を弾ませながらも、そうかな、と首を捻った。
この日に受け取った鉢植えは数日後に花を咲かせた。本で調べても、異国の花の名前は分からなかった。




