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5.人攫い

※残酷な描写


 避暑地での外出はよくマクシミリアンと鉢合わせた。

 狭い街なので不思議なことではない。出くわすと並んで本を読んだり、歌を口ずさんだり、手品をしたりした。

 彼と親睦を深めるたび、弟が出来たような気持ちが胸をくすぐった。



 晴れの日、母が貴族の友人とスパに向かったので、その日も私は外へ出た。行商の集団とサーカスの旅団が一気になだれこんだらしく、通りは活気に満ちていた。


「お母様に異国の花をお土産にするのはどうかしら」

「きっと喜ばれます」


 背後の侍女に伺い、そうしようと決める。道は人で溢れていた。嗅ぎ慣れない臭いが混ざりあっている。露店で行商を見つけて目当ての物を買い求め、帰りに持って帰るからと予約にリボンを巻いて貰う。

 まだつぼみの花で、この地で育てるなり、領地に持って帰るなり、丁度いい具合だった。


「ねえ、湖に行ってもいいかしら?」

「これから向かうと遅くなりますよ、お嬢様。それに、湖畔で休むには準備がなく……」

「ちょっと眺めるだけ。散歩したら帰るから」


 込み入った通り複雑な香りで満ち、長居すれば酔いそうだった。体に染み付く臭いを振り払うために、ひと気のない場所へ行きたくなって侍女に甘える。彼女はあまり良い顔はしなかったが、じっと見つめると頷いた。



 人混みを抜け、物静かな森へと向かう。

 晴れ間が濃い夕ぐれに溶けていく。


 森の入口まで来ると、私は立ち竦んだ。

 明るい内は踊ってしまいたくなるような静かさが、暗さを含むと胸騒ぎがするほど不気味に感じる。ザア、と音を立てて森の木々が風にうねる。わずかな恐怖と、不愉快な気分に心臓が早鐘を打った。


「ごめんなさい、ここまで来たけど、やっぱり帰りましょう」


 背後の侍女に振り返る。

 その時、ドサ、と物音がした。


 大きな荷物が地面に転がった音だ。


「……え?」

「へ、へへへっ、不用心な金持ちだぜ。女と子供二人で人の居ねえ所まで来るなんてよ。オレぁついてら、売りゃ金になるぞぉ」


 ぷん、と嫌な臭いが鼻腔を突いた。

 男が立っていた。訛った言葉遣いで、髪はざんばら、爪は長く、笑う咥内の歯は黄色い。資金をかけずに長旅をする者特有の皮脂の悪臭。


 足元を見ると、侍女が地面に転がっていた。


「お、じょう、さま」


 彼女の仰いだ額からは血が流れていた。暴力。大量の旅人。人攫い。情報が一気に流れ込む。


 に げ て


 声すら上がらない侍女の唇を見て、途端、全身を跳ね上げる。


 街への道は男が塞いで逃げられない。ただ、無我夢中に暗い森へと突き進んでいく。


 重たいスカートが邪魔だ。

 硬い靴が鬱陶しい。

 短い手足が憎い。


 坂道を転がるように、がむしゃらに走った。


「おぉい、待てよぅ」


 余裕たっぷりの声が追いかけてくる。自分の方が先に飛び出したのに、男はみるみる距離を縮めた。走ると開けた湖畔に辿り着く。どこにも隠れる先が無かった。


 どうしたら。どうしよう。

 捕まったら売られるのだろうか。

 想像もできない怖ろしいことが待ち受けているなら、いっそ入水して死んだほうがマシかもしれない。

 私、どうしたら。


「……ルイーザ?」


 パニックで湖畔に駆け寄ると、ひとつの人影が私の名を呼んだ。


「マクシミリアン!?」

「どうしたの、そんなに焦って」

「説明してる時間がない、逃げなきゃいけないの!」


 少年がひとり、湖のほとりで休んでいた。いつもは居るはずの従者が見えない。私は吼えて彼の腕を引いた。マクシミリアンも私の焦りようと、遠くに怪しい男を見て駆けだした。


「新しいボートがある、こっちに!」


 マクシミリアンが湖にせり出した船着き場を指差した。木製のボートに乗り、櫂を漕ぐ。遊戯用のボートは子供の腕力ではすぐに進まず、お互いの顔に焦りが浮かんだ。


「待てよぉ、ガキどもぉ。逃がすもんか」


 ボートの進みの遅さを見て、男は湖に入った。

 ザブ、ザブ、と浅い水深を両足で乗り越えて来る。水深が腰を超えても男は諦めなかった。私たちは力いっぱい櫂を漕ぐ。


「マクシミリアン……!」


 このままでは捕まえられてしまう。荒い呼吸で彼の名を呼んだ。

 同時に、いたいけな少年を巻き込んで、助けを求める自分の浅ましさに心臓が引き攣った。


「ルイーザ。大丈夫」


 しかし、マクシミリアンは悠然と微笑んだ。昼の明るい湖畔のように澄んだ瞳に、夕闇が差し込む。オーロラの色彩が不均一に照った。

 場違いなうつくしさに、私は呆けて口を半開きにした。


「おぉい、捕まえちま、う、ぞ……ォッ? あっ、ぅわっ!?」


 さあ後一歩と、ボートに手をかけようとした男が、突然体のバランスを崩して悲鳴を上げた。


「おおッ、くそっ! 足が…ッ!」


 男は急に上半身を揺らし、腕で何かを掴もうともがき、死に物狂いで暴れた。体が激しく上下に浮き沈みを繰り返した。


 溺れている。

 溺れていた。

 これで逃げられる!


 私は呆然と眺めていた男から視線を逸らし、マクシミリアンの方を向いた。


「マクシミリアン?」


 少年は無表情だった。溺れる男を見ている。


「早く逃げよう、マクシミリアン!」


 私はわけもなく叫んだ。少年の瞳の静かさに胸がざわつく。

 マクシミリアンは私の言葉に返事をしない。代わりに、櫂を持ったまま、大きく振りかぶった。



 ガツン、と音がした。

 ガツン、ガツン、と何度も音がした。櫂が硬いものを何度も叩いた。



 しばらくすると、湖は完全な静寂に包まれる。


 男はもう、どこにも居なかった。



「これで安心だ、ルイーザ」


 私は胸の前で両手を組んで、こうべを垂れた。少年が震える私の体を優しく抱きとめた。

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