4.湖畔
お茶会の後、私には朗報が届けられた。
一人での外出を、侍女をつけたら好きにしてよいと両親から認められたのだ。
母が他の貴族の元へ社交に向かう日や、市が開かれる日、何かと都合をつけて外に出た。
表通りを散策し、露店の行商から懐中時計やガラス細工、他国の古書を買った。避暑地近くの森は開かれており、男性の使用人も連れて出掛けたりもした。
ある晴れた日、その日も私は外に出た。
軽食を持って森へ出掛け、湖の前に敷物を広げて腰かける。膝には手持無沙汰に難解なあの本、『ポリーの夢』を乗せて。
ピチチ、と鳥が鳴きながら湖畔を飛び立った。
虫の声、草が揺れる音、湖のさざなみが静かに響く。
難しいことも、簡単なことも、一度考えるのを休んだ。
そうやって、溶けるように時間を過ごしていた私の耳に、ある時突然、はっきりと形を持った音が届いた。
「その本」
「え?」
「愛の物語なのにやけに難解でイヤにならない?」
音の方向へ振り向く。
緑の目をした少年が、サアとふいた風に黒髪をなびかせて此方を見ていた。
「ごきげんよう、マクシミリアン公子。愛とは難解なものだという教義なのではなくて?」
「ごきげんよう、レディ・ルイーザ。その本の読者に相応しい難解な問いだ」
私は目をつぶって少しだけ肩を竦めた。先日会ったグントラム公爵の令息が従者を連れて立っていたのだ。
敷物の上で立ち上がって挨拶した私に、彼は「座ってていいよ」と告げた。
「よければ公子も休憩なさいますか?」
「関係性が仕切り直されて寂しいよ、ルイーザ」
首を横に振って話を流す。少年は歳の割に冗談が流暢だった。
「マクシミリアン、飲み物はハーブティしか用意がないけど構わないかしら」
「もちろん」
侍女に水筒に入れたお茶を出して貰い、私たちは敷物に腰を降ろした。
「ここにはよく来るの?」マクシミリアンが訊ねた。
「ええ、今年から」
「急に深くなるところがあるから、湖の中には入らない方がいい」
「入ったことあるの?」
「水になんて入ったことないよ。でも、何か流されても放っておくことだ」
そう、と私は頷いた。この静かな湖を泳いでみたいとは思わなかった。浸かるなら温泉で充分だ。
「去年までは夏にボートに乗れたんだけどね。先月の嵐で壊れたから、今年の避暑シーズン中は無理かも」
「構わないわ。一人じゃ漕げないもの」
「ボクが漕ぐよ。新しいのが出来たら、船着き場に繋がれると思うから、覚えておいて」
それから私たちは湖畔を眺めた。
軽食をとり、フォークを使って簡単な手品を見せると、マクシミリアンはムキになってカラクリを探ろうとした。二枚重ねて、一枚を服の袖に隠しただけだと教えると呆然としてもう一度見せてとせがんだ。
お互いが連れてきた使用人も私の簡単な手品を興味深そうに見る。前世でちょっとしたイベントの時に覚えたネタがこんな所で注目を浴びるとは思わなかった。
歓談の際、ふと、視界をよぎったものがあった。
「あら、虫だわ」
会話の最中、敷物の上に大きなコガネムシのような昆虫を見つけた。手を伸ばせば届きそうな距離だ。
「待ってて」
「マクシ——」
「すぐに殺すから」
ギョッっとして息が詰まる。振り返ると、マクシミリアンは宣言通り小刀を取り出し、片膝をついて立ち上がろうとしていた。
「殺さなくていい」
「どうして? 虫はみんな嫌いだろ」
とりわけて明るくも暗くもない疑問が胸につかえた。目前の緑の瞳は、奥にたたえる湖のように澄んでいた。
「もしもアナタが夢から覚めて、自分が虫になっていた時、人に殺されてしまったら困るでしょ」
「……なにそれ?」
マクシミリアンは不思議そうにする。行為が止まったことに私はホッとした。虫とはいえ、生き物を刃物で殺傷する場面なんて見たくない。
それに、ここは森だ。沢山の虫に出会う場所でキリがない。
今まで逐一殺してきたのだろうか。その刃物で。無尽蔵に湧く虫を? 私は少年期の残酷さに果てのない気分になった。
「ただの冗談よ」
なんでもないフリをして、小刀を受け取る。
刃先に昆虫が乗るのを待って、刀の腹までよじ登ったら持ち上げて近くの茂みに払う。戻ってくると、マクシミリアンは不可解そうな表情をしていた。
「ルイーザは虫が好きなの?」
「別に好きじゃないわ。病気の原因にもなるし」
「じゃあどうして殺されると困るの?」
「わざわざ殺さないだけよ。追い払えばいいじゃない」
生活に支障が出るなら、駆除はした方がいいと思う。そこで心を痛めるのは過敏な反応だ。でも、手ずから行う執拗な虫の殺害は、暴力に快感を見出したように映る。
自衛と快感は分けて考えなければならない筈だ。それは確かに私の常識だった。
「害虫なら元が人でも殺した方がいいんじゃないかい?」
先ほどの夢から覚めたら、という発言に言及したのだろう。マクシミリアンの言葉に私は思わず彼の手を握った。
前世のヨーロッパ、近世までは処刑を観覧するのが市民の娯楽だったと言う。
それがこの世の価値観かもしれない。
或いは、大人になったら残虐性など忘れてしまうかもしれない。
この世界の外から来た私が彼の倫理観に口を出すべきか分からず、口ごもる。代わりにもっと強くマクシミリアンの手を握った。
「ルイーザ?」
「マクシミリアン。なんにだって選択肢があるわ。他に選びようがあるのに、ひとつの物事に拘るのは、賢い選択ではないのよ」
少年は何を考えたのか、何度か澄んだ瞳をまたたかせた。
「キミはイヤってことだよね。尊重するよ」
「……どうもありがとう」
「ボクの母はどんな小さな虫でも、見かけただけで顔を真っ赤にして怒るけどね」
冗談らしく、笑い合う。私たちはそれからしばらく『ポリーの夢』の難解さについて解釈を語り、夕暮れになると家に帰ることにした。
帰りしな、マクシミリアンの従者が私に近寄り、低く、小さな声で打ち明けた。
「マクシミリアン様への理知的な言及、お礼申し上げます」
嫌味なのか感謝なのか。分からず私は立ち呆ける。数歩先でマクシミリアンが早く帰ろうと朗らかな表情で笑っている。困ったが、笑い返した。
帰宅のあいだ、簡単な手品で驚いたり喜んだ少年の顔をしばらく思い返していた。




