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2.伯爵令嬢


 ルイーザ・ツィレイ伯爵令嬢とは私のことだ。長く王国の歴史を支え、複数の領地を持つ裕福な貴族の娘である。

 私は気付いたら彼女だった。こんなことに気付く前は、21世紀日本のごく一般的な社会人だったはずなのに。

 ある日突然、なんの前触れもなく赤ん坊になっていたのだ。

 目も見えず、音だけが響き、手足を振り乱しても床すら叩けない。パニックに怯えて泣く日々が続いたが、しばらくすると周囲の景色が見え始める。


 知らない人、知らない場所、知らない言語。

 知らない世界だった。


 中世ヨーロッパに似た文化水準の知らない国で、私は貴族の娘として育てられた。

 世界は偏見と未知の常識で満ちていた。衛生は水準が低く、産業革命は程遠い。貴族の娘という特権を前にしても浮かれた気分にはならなかった。


 寝て起きたら元の生活に戻っていないかと、いつも考えた。


 夜が来るたび高層ビルを見上げる夢を見た。

 おいしいものを食べて、友人と遊んで、オシャレをして、上司や契約先と円滑なコミュニケーションをとる。好きな本を読んだり映画を見たり、アウトドアではしゃぐ。夜に見る夢だけが楽しみだった。


 こんな精神状態が続けば、五歳になる頃には夢と現実の境が曖昧になるのは、ちっとも不思議な話ではなかった。

 異世界へ行く物語なら、アリスも、ナルニアも、ガリヴァーだって家に帰れたのに。帰り道を知りたかった。ふつうの生活に戻りたかった。気が狂いそうだった。



 そんなある日、いつもと違う夢を見た。


 暗闇で、うすぼんやり光っているものがある。近付くと、虎だった。人間のような目をしていてゾッとする。

 しかし、夢の中の私はふしぎと怖いとは思わなかった。虎の前で膝をつき、顎の下に腕をうずめる。指を鉤状にして何度か掻いてやると、猫のように目を細めて機嫌良く喉を鳴らした。


「これは夢だ」


 虎がしゃべった。


「しかし、起きた世界は夢ではない」


 虎は教卓の上の教授のように、冷静に語る。私は呆然として、空いた口が塞がらないまま責めるように虎と真正面から対峙した。


「起きたらまたあんなところへ? どうしたら元の世界に戻れるの。なんで私がこんな非常識な目に合わなきゃいけないのよ」


 私は虎に文句をつけた。すると虎は優しく諳んじる。


「“何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。”」


 そこで、パチン。と目が覚めた。


 上半身を起こす。辺りは暗く、体はベッドの上だった。月明りが窓から差し込んでいた。

 起き上がってよたよた歩き、姿見の前に立つ。青白い月光に照らされ、顔色の悪い少女がこちらを見ていた。

 私である。ルイーザ・ツィレイ伯爵令嬢だ。柔らかな金髪の頭から冷えた裸足の爪先まで、この全身が私だ。


 私は鏡に向かって、片膝を曲げ、低くおじぎをする。


 カーテシーをした。21世紀に生きる日本人なら、人生に必要のない挨拶。

 でも、この世界の伯爵令嬢には必要不可欠な所作だ。こうべを垂れたまま、横顔に月光を浴びる。

 有名な小説を諳んじる虎と出会ったことに引っ張られるように、どこかで有名な物理学者の言葉を思い出す。あの学者はたしか、“常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクションである”と言った。


 そう。そうなのだ。この世界で非常識なのは、私だったのだ。


 罪悪感を吐き出したわけではない。常識なんて土地で変わり、同じ国でも百年ちょっとで移りゆくのを地球の歴史で知っていた。

 偏見は1億人の半分でも共有すれば規律になるし、強固な構造を持つ。それが偏見だ。統計で見た時、人間の思想など固定化できない。


 だから、他人の価値観に依存するのは愚かなことだ。

 大事なのは自分にとって何が重要な価値観なのか。

 構造主義的な大衆から一人抜け出す自分を夢想する。すぐにそのコミカルさに気付き、思わず笑い声を上げた。


 そういえば、哲学は酔いやすくて危険な存在だった。泥酔に気をつけねば。

 どこかの中国の詩人のように、虎になって荒野に消える才能が自分にあるのが笑えた。


 カーテシーのあいだ、たった数分で様々な考えが頭を巡った。今まで心に傷をつくる原因だった、元の世界の価値観が私を身軽にしていた。チェス盤でもひっくり返したような気分だった。


 玉粒の汗が床にすべり落ちる。妙にすっきりした心地だった。浮足立って、私は私室から暗い廊下へ抜け出し、裸足のまま両親の寝室へ忍び込んだ。


「こんな夜更けに、一体どうしたの?」

「ママ、パパ、わたしね」


 気分はすっかり舞台役者だ。同時に、本物の子供になった気もした。

 心に何かが満ちている。自分がルイーザ・ツィレイであることに気付けたおかげで、今まで右を見ても左を見ても耐えがたかった心が、平穏の欠片を取り戻していた。


「夢で猫を見たの。おしゃべりしたわ。大きな猫だったの」


 急な娘の襲来に寝ていた伯爵夫妻は面食らっていた。だが、甘えた声で何度もベッドを揺さぶると、懇願に頷き私をベッドの真ん中に迎え入れた。

 その夜、ベッドであたたかい人肌を感じながら、私は久しぶりにぐっすり眠りにつくことができた。


 次の週。虎ほどではないにしろ、大きく成長するだろう長毛種の美しい友人を得た。白い毛並みとハシバミの瞳。思い返すと夢の中の虎も、この子も、日本の実家で飼っていた猫に似ている気がした。

 人見知りのしない子で、私はすぐに日当たりのいい部屋で猫を膝に抱え、柔らかい毛並みを何度も撫でた。



“何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々にはわからぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。”(中島敦,山月記,1942)

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