第8話 悪役令嬢、経験値を稼ぐ
それから数週間が過ぎ――舞踏会の夜がやってきた。
ああ、ついにこの日が来てしまったのだ。
本当なら盛大にだらしない溜息をつきたいところだけれど、必死に飲み込む。
腹にきつく締めつけられたコルセットが、嫌でも背筋を伸ばし、令嬢らしい姿勢を強要してくる。
重たい裾を揺らしながら玄関ホールへと進む私に、横を歩くマチルダ夫人が声をかけてきた。
「奥様。くれぐれも淑女らしく」
「分かってるわよ」
一歩進むごとに、豪奢なドレスが擦れ合い、散りばめられた宝石のアクセサリーが揺れる。
……貴族って、どうしてこうもバカみたいに着飾らないといけないのかしら。
Tシャツとスウェットでゴロゴロしていた頃が、妙に懐かしい。
「奥様! とっても、とーってもお綺麗です!」
廊下で待っていたクララが目を輝かせながら声をかけてきた。
あまりに可愛いので、思わず頭を撫でてしまう。
「ありがとう。留守をお願いね、クララ」
「はい、喜んで!」
深く息を吐いて、再び顔を上げる。
私はこの屋敷の主。
グレイストーク領を背負う、グレイストーク伯爵夫人。
部下たちの前で、情けない顔を晒すわけにはいかない。
意を決し、玄関ホールへと足を踏み入れた。
そこに整列した使用人たちが、一斉に頭を下げる。
無数の視線を浴びた瞬間、私は扇子を開いて口元を隠した。
今夜の装いは黒を基調としたドレス。
未亡人らしく落ち着いた色――のはずなのに、歩くたびに裾の奥から深紅の刺繍がのぞき、薔薇の花びらのように光を攫っていく。
肩から背にかけて流れる布地は黒く、しかしなめらかに輝き、まるで「まだ終わっていない」と囁きかけてくるようだった。
……やっぱり派手すぎたかもしれない。
こんなの、未亡人が着るものじゃない。
けれど、もし地味に淑女ぶった装いで出たなら――噂好きの社交界の格好の餌食になるだけ。
“オフィーリアは落ちぶれた”、“グレイストーク領に未来は無い”――っと。
ならば。
睨みつけるように咲き誇る黒薔薇として、この身を飾り、牽制してやればいい。
広い玄関ホールから外の馬車まで、ずらりと使用人たちが並んでいた。
この日ばかりは屋敷中の全員が集められているらしい。
彼らの間を深紅の絨毯がまっすぐに伸び、その中央を――まるで主役のように歩いていかねばならない。
地獄のように目立つ演出。でも、これが貴族の“しきたり”だという。
……次からは絶対に廃止してやる。
気まずい顔を扇で隠しながら絨毯の上を歩く。
陰キャには地獄すぎる演出から早く逃げたくて、自然と足が早くなった。
玄関の扉の前には、ジルとエディが並んで立っていた。
エディに視線を向けると、彼はガチガチに強張った顔で声を震わせる。
「お、おおお奥様……と、とととてもお綺麗でしゅ!」
噛んだ。しかも豪快に。
緊張のあまり声が裏返っているのが、何だか可愛い。エモい。
これ以上いじったら気の毒だから、私は微笑んで返すにとどめた。
ふと隣を見ると――ジルと目が合った。
その瞬間、いつもは鉄面皮のはずの顔が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
……一瞬だけ、私に見惚れていた。
――見た。今のは確かに見たわよね。
すぐに無表情へ戻ったけれど、遅い。
私は見逃さなかったし、その事実が胸をくすぐる。
思わず口元が緩みそうになって、慌てて扇子で隠した。
けれど同時に、胸の奥がざわつく。
扇子の影で唇を噛みながら、自分に吐き捨てる。
……馬鹿みたい。ジルに見られたからって、何を期待してるのよ、私。
ジルは静かに頭を垂れ、恭しく言葉を紡いだ。
「……お支度がお済みでございますね。
――まことに、お美しい」
「ふんっ……当然でしょ」
吐き捨てるように返しながらも、背中が熱い。
玄関の扉が開き、夜の冷たい風が頬を撫でても、その熱は引いてくれなかった。
差し出されたジルの手を取って――私は舞踏会へと向かった。
***
「こちらが、本日ご出席のゲスト一覧でございます」
舞踏会へ向かう馬車の中で、ジルが分厚い書類を差し出してきた。
公爵から男爵まで、見覚えのない名前がずらり。……これ全部覚えろって? 無理。絶対無理。
思わず眉間にシワを寄せていると、ジルはもう一枚紙を渡してきた。
「そしてこちらが、本日オフィーリア様がお目通りなさるべき来賓の方々です。
ご安心を。必要なお言葉はすべて私が覚えております。
オフィーリア様は、にこやかにご挨拶なさるだけで十分です」
……といっても、ざっと数えて二十人以上。
これ全部に挨拶? 胃に穴が開く未来しか見えない。
「……あんた、これ全部覚えてるの?」
「もちろんでございます。
お名前からご趣味、近況の噂に至るまで、すべて記憶しております。
どうぞご安心を」
さらりと答えるジル。……恐ろしく有能な執事。
これであの“変態観察魔”な性格さえなければ、今ごろ引く手あまたでしょうに。
ため息混じりにリストを眺めていたら――見覚えのある名前が飛び込んできた。
「げぇっ!! ルシアン来るの!?」
思わず潰れたカエルみたいな声が出てしまう。
リストに記されていたのは――ルシアン・フォンタネル。
貴族学園時代のクラスメイト。
そして……
「ご学友と伺っておりますが、まさか……」
「そう。彼は……ゲームの攻略キャラクターよ」
この世界――私が悪役令嬢として転生してしまった世界は、乙女ゲーム『ロザリア・クロニクル』の舞台そのままだった。
主人公がイケメン貴族たちを攻略して楽しむ、女性向けのシミュレーションRPG。
ルシアンはその中で、女遊びが過ぎる宰相の放蕩息子ポジション。
要するに「遊び人枠」である。
正直に言うと、ゲームをプレイしていた時からルシアンルートだけは苦手だった。
遊び人タイプは私には軽すぎて、主人公がどうして惚れるのか未だに腑に落ちない。
しかもルシアンルートにも、きっちりとオフィーリアの破滅フラグは仕込まれている。
結末はテンプレート通り。
放蕩息子だったルシアンが父である宰相と涙の和解を果たし、ついでに「主人公を陥れようとする悪役令嬢オフィーリア」の悪事を暴いて断罪する。
――はい、私の破滅の出来上がり。
……まったく、どのルートでも悪役令嬢の扱いは雑すぎるわ。
まあ、今の私は、その破滅フラグをばっさりへし折ってここにいるわけだけども。
「はぁ……攻略キャラには会いたくない。どこかで余計なフラグが立ったら面倒だもの」
「では、出来る限りを避けるよう手配いたします」
「それは無理よ。ルシアンが私を見つけたら、確実に話しかけてくる。
何しろ私は、彼の“女神”だからね」
***
舞踏会の会場に足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。
天井はまるで夜空を閉じ込めたような深い群青色。
中央に吊るされた巨大なシャンデリアには無数の水晶が散りばめられ、星々の瞬きのように光を屈折させて煌めいている。
……眩しすぎて、目が慣れるのにしばらくかかりそう。
壁には金箔の装飾が蔦のように絡み合い、果実を結んで光を反射している。大理石の柱には英雄や妖精が彫られていて、見下ろされるたびに、その壮観さに息を呑む。
中央に据えられた氷細工は噴水を模しており、流れ落ちる水は銀糸のように舞い散る。
テーブルには宝石じみた菓子や果実酒が山のように並び、香りだけで酔いそうだ。
華やかな音楽、貼り付けた笑顔で談笑する貴族たち。
……舞台の上で糸を操られてる操り人形の群れみたい。
これが「社交界」という名の戦場。
豪奢さに圧倒されて立ち止まったら、その瞬間に負けだ。
――ふん。負けるものですか。黒薔薇らしく、堂々と咲き誇ってやるわ。
意気込んでいたその時、背後のジルが小声で囁いてきた。
「奥様、斜め後方からプリシラ・サマーヴィル嬢が話しかけたそうに見ております。
いかがなさいますか?」
……何それ、ドラクエの「仲間になりたそうにこちらを見ている」モンスターか何か?
ちらりと横目をやると、確かにそこには元クラスメイトのプリシラがいた。
プリシラ・サマーヴィル。
ゲームではオフィーリアの腰巾着ポジション。
主人公をいじめるオフィーリアに「さすがですわ、オフィーリア様」と持ち上げるだけの、小物中の小物。
ゲームをプレイしていた当時は、名前すら覚えてなかった。
そのプリシラが、私と目が合った瞬間、嬉しそうに話しかけてきた。
「あーら、オフィーリア様、ごきげんよう。どこぞの老人に嫁いだとお聞きしましたけれど……お元気でいらっしゃいましたの?」
……はい出ました、小物ムーブ。
プリシラは学園時代、私が必死で破滅フラグをへし折っていたおかげで空席になった“悪役令嬢ポジション”を、これ幸いと埋めにかかった女だ。
分かりやすいにも程がある。
それにしても、卒業して何年経ったと思ってるのよ。
いまだに学園時代のノリで絡んでくるとか、呆れを通り越して同情するしかないわ。
「まあまあ……あの学園一の才媛オフィーリア様が、まさかお年寄りの奥方になるなんて。世の中、分からないものですわね」
人を見下す笑みを浮かべるプリシラ。
しかも後ろに取り巻きを二人引き連れて、自信満々。
……典型的な悪役令嬢ごっこですね。額に入れて展示したいくらいの様式美。
私が黙っていると、案の定取り巻きとクスクス笑いながら畳みかけてくる。
「あら、そのドレス……ご自身でお選びになったの? とても落ち着いていて、年上の方によく似合いそうですわ」
はいはい。要するに「ババ臭い」って言いたいのね。
まあ黒を基調にしてるから、そう見えるのも分かるけど。
さて、どう返してやろうかと考えていると、背後からジルの低い声が忍び込んだ。
「奥様、ここは私が――」
私は手で制して、にっこりと笑顔を作る。
「ごきげんよう、プリシラ様。もう社交界デビューはお済みでして?
……あら、申し訳ありません。そうでしたわね。プリシラ様は私と同い年。
あまりにも言動が幼くて可愛らしいから、つい年下と勘違いしてしまいましたの」
にこやかに告げると、プリシラのこめかみがピクついた。
ギリギリと奥歯を噛み、露骨に私を睨みつけてくる。
……ほんとダメね。貴族が感情を顔に出すなんて、子供そのものじゃない。
仕方なく、私は彼女の耳元に顔を寄せ、そっと囁いた。
「プリシラ様。いつまでも学生気分では……嫁の貰い手が見つかりませんわよ?」
言ってやった瞬間、プリシラの顔が見る見る赤くなる。――あ、効いたわね、これ。
「ふんっ」と鼻を鳴らし、悔しそうに踵を返していく。腰巾着二人も慌てて後を追っていった。
背中が見えなくなるその瞬間、私の頭の中ではゲームの勝利ファンファーレが高らかに鳴り響いていた。
はい、完全勝利。経験値ゲット。
「奥様、お見事にございます」
……褒められても嬉しくないわ。
二十歳そこそこの子供に言い返しても、ただ哀れさが募るばかり。
空しくなって溜息が漏れる。
プリシラだって必死なのだろう。
感情を押し殺して立たねばならない社交界は、小物には重すぎる舞台。
久しぶりに会った学友に、学生時代の延長で話しかけてしまった――ただ、それだけ。
可哀想なプリシラ。
早く大人になれるよう、お祈りしてあげる。
私は扇をパタンと閉じ、気分を切り替えた。
「さてと。さっさと挨拶回りを済ませましょう」
「かしこまりました」
踵を返し、黒薔薇らしく背筋を伸ばして。
ジルを従え、私は人混みという戦場の中へと切り込んでいった。




