第6話 黒歴史とダンスを
ジルの顔面にクッションをぶつけてから、もう一週間。
あれから、まともに口を利いていない。
当たり前のように続けていた午後のお茶会も、もっともらしい理由をでっちあげては断っている。
――仕方ないでしょ。
酔った勢いで一線を越えた執事と、どんな顔して会話しろっていうのよ。
元の私は雪村灯子。地味で目立たない、ただのオタクOL。
現実の恋愛? 多少は興味があったけど、縁なんて一度もなかった。
家に帰れば推しとサブカルで満足して、幸せに浸って、それで十分だったのに。
それが今は見目麗しいオフィーリアの身体。
破滅フラグを避けるために小悪魔的な真似は散々やってきたけれど、一線だけは守ってきた。
「オフィーリアを汚してはいけない」――そう思っていたから。
何より、あんなことを現実にするなんて、私には一生できないと思っていた。
……思っていた、のに。
結局、私はジルとやってしまった。
毎晩思い出しては枕に顔を埋めて「ぎゃあああ!」と叫ぶほどの黒歴史。
裸で抱き合う? 無理無理! それは二次元で十分なの! ボーイズラブで読ませてくれればそれでいいのに!
なのに私は、現実でジルに抱かれた。
彼のざらついた掌の感触、口紅で汚れた口元、耳元で名前を囁く低い声――
ああああああ!! 思い出すな、私!! 恥ずかしすぎる!!!
……無理。顔なんて絶対に見られない。
キスすら経験なかったのに。
オフィーリアの美貌に甘えて、私が調子に乗ったせいだ。
もう二度とあんなミスはしない。……絶対に。
そんなことを考えながら自室で書類を整理していると、小柄な影がちょこちょこと入ってきた。
丸眼鏡にふんわりした栗毛の天然パーマ――ジルの下で会計を任されている青年、エドワード・アシュビーだ。
私は気軽に「エディ」と呼んでいる。
今では、彼が私とジルの伝令役。
表向きは“忙しいジルへの配慮”だけれど、実際は――私がジルの顔を見たくないから。
……はい、完全に逃げ腰でございます。
「しししし失礼します!」
そんな事情を知ってか知らずか、エディはいつも緊張しっぱなし。
小動物みたいに震えながら、今日も私の前に立つ。
「お、おおお奥様! ジルバート様からのお言付けです!」
両手で差し出される書類。思わず噴き出しそうになるけれど、受け取りながら微笑んでみせる。
「ありがとう、エディ。……クララ、エディにお茶を出してあげて」
「はい、奥様!」
部屋付きのメイド、クララ。彼女は明るくて、いるだけで場が華やぐ。私のお気に入りだ。
ところがエディは、クララがお茶を用意しようとした瞬間、慌ててぶんぶん首を振った。
「い、いえ! これは僕……あっ、ワタクシの役目です! それに、奥様の前で休んでいたなんて知られたら、ジルバート様に叱られてしまいます!」
あたふたするたびに、ふわふわの栗毛が揺れる。
……可愛い。なんて癒される光景なの。
困り顔のトイプードルが首を振っているみたいで、お菓子のひとつでもあげたくなる。
しかも緊張のあまり、敬語が崩れて“僕”が口を突いて出る。……芸術点が高すぎる。
「良いから、クララと一緒にお茶でも飲んで行きなさい」
「え? 私も良いんですか、奥様!? やったー!」
クララは無邪気に喜び、お茶の準備を始める。
その横でエディは「ええ……」と困った顔。
二人の光景はまるで子犬と子供。……平和そのものね。
そんな和やかさを横目に、私はジルからの書簡へと目を落とした。
そして――視線が釘づけになる。
そこに書かれていたのは、到底ありえないことだったから。
「……あの、モブ執事ぃぃ!!!」
***
「ちょっと、ジル! これはどういうことよ!!」
私は執務室の扉を乱暴に押し開け、そのままずかずかと足を踏み入れた。
ノックなんて上等な物は、今の私には持ち合わせがない。
部屋の中には机が並び、書記や補佐官たちが目を白黒させて一斉に立ち上がり、慌てて頭を下げる。
けれど私は気にも留めず、最奥――専属執事ジルの机へまっしぐら。
……肝心の本人はというと。
私が扉を開けた瞬間には、もう立ち上がって待っていた。
「おや……奥様。執務室までお越しとは存じませんでした。何かご用でしょうか?」
白々しい。
来るのを分かっていて待ち構えていた顔だ。
机の横には、ちゃっかり紅茶のワゴンまで用意してある。
――絶対に私が“書類を見て殴り込んでくる”って読んでただろう、このモブ執事!
危ない危ない。
ここで紅茶なんか飲まされたら、またジルのペースに乗せられる。
今はそれより、このふざけた書類だ。
「この予定表はどういうことなの!」
エディから受け取った紙束を机に叩きつける。
そこに書かれていたのは、来月までびっしり詰まった私の予定表――
「なによこれ! なんで私が舞踏会なんかに出ることになってるのよ!」
信じられない。
私は何度も何度も「隠居してのんびり暮らす」って宣言してきた。
それなのに、この期に及んで舞踏会?
……ああ、そうか。きっと私が一週間も避け続けた腹いせに違いない。
――なんて心の狭い執事! 見損なったぞ、このモブ野郎!
睨みつける私に、ジルは胸に手を添え、淡々と告げる。
「申し訳ありません、奥様。奥様が社交界に背を向けておられるのは承知しております。
しかし、この舞踏会はグレイストーク領にとって極めて重要。
今後の領地運営のためにも、避けては通れない催しにございます」
それから、淡々と舞踏会の必要性を説明してきた。
周辺領地との利害関係、他貴族との顔合わせ、今後の経営に不可欠な挨拶回り――。
要するに、聞けば聞くほど「逃げられませんよ」ということらしい。
……そう、私は「のんびり暮らす」ために結婚して未亡人になったのに。
結局、領地の経営がある以上、その裏に社交がついて回る。
社交界――。
私にとっては破滅フラグを避けるために散々立たされた戦場だ。
上辺の言葉を並べて笑顔で刺し合い、所作ひとつで悪評を撒かれる。
……二度と戻りたくなかった場所。
なのに、またそこに立たされるのか。
想像しただけで、もう胃が痛い。
いっそもう、領地も何もかも投げ捨てて平民になってしまおうか――。
……いや、無理ね。
現代の便利さにどっぷり浸かった私が、肉体労働で汗水垂らして暮らせるわけがない。
それに、オフィーリアのこの綺麗な手を、私の怠惰な選択で荒れさせるなんて許されない。
オフィーリアは貴族だからこそオフィーリア。
この身体は、私が守ると決めたのだから。
額に手を当てて溜息をついたとき、見かねたようにジルが口を開いた。
「どうかご安心ください、奥様。
社交の場とはいえ、奥様を独りで立たせるつもりはございません。
お声がけに迷われれば、私が即座に言葉を添えましょう。
もし視線に怯まれることがあれば、その瞬間、私は必ずお傍におります。
……奥様はただ、いつものように気丈に微笑んでくだされば良い。
その姿こそ、人々を惹きつける力にございますから」
いつもの無表情で、落ち着いた声色。
一週間ぶりに言葉を交わしたはずなのに、まるで何も変わらない態度。
相変わらず淡々としていて……なのに、どうしてこうも核心を突くことを言うのか。
あんなに意地を張って避けていた自分が、馬鹿みたいじゃない。
腕を組んで、長い溜息を吐き出す。
――舞踏会に出るのはもう避けられない。
でも、それ以上に深刻な理由が私にはあった。
これを解決しなければ、舞踏会に出る出ない以前の問題。
「あーもー……分かった。百歩譲って顔を出すぐらいはしてあげる。
でもね、ジル。あんた、重大なことを見落としてる」
言い淀む私を、ジルが無言で見つめる。
その視線が痛い。
やめてよ、そんなに真っ直ぐ見ないで。私だって言いたくないのに。
「……私、踊れないのよ」
次の瞬間、空気が凍り付いた。
「貴族なのに踊れない」――それは馬が走れない、鳥が飛べないと言うのと同じ。
貴族の嗜みとしての社交ダンスは、子供でも息をするように踊れるもの。
伯爵夫人が踊れないなんて、この世界ではありえない。
でも、私は“ありえない”存在なのだ。
当たり前でしょ、中身はただのオタクOLなんだから!
一瞬、言葉を詰まらせたジル。
けれどすぐに眼鏡を押し上げ、その目に奇妙な光を宿す。
……あぁ、分かる。
また「面白い女だ」って、観察対象として楽しんでる顔だ。
観察魔の視線を浴びながら、私はもう一度、深々と溜息をついた。




