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第5話 責任取りなさい、モブ執事!

――まぶしい。


瞼を開けた瞬間、差し込む朝の光に思わず顔をしかめた。

いつの間にか、眠ってしまったようだ。

酒が抜けきらず、頭は茫然としたまま。体を動かすことすら億劫だった。


布団はやけに重く、肌に触れる空気は妙にひんやりしている。


……ん? ちょっと待って。

裸じゃない、これ!?


慌てて飛び起き、体を確認する。確かに何も着ていない。

急に動いたせいで頭がぐらりと揺れ、激しい頭痛が襲った。


「アガッ!……うぐぐぅ…」


言葉にならない呻き声を上げ、頭を抱えて俯く。

そのとき、布団の上に何か光るものが落ちているのに気づいた。


拾い上げると、それは小さなカフスボタン。


この世界でよく使われている、袖口を留めるためのアクセサリー。

私も例に漏れず愛用しているけれど、目の前にあるそれはどう見ても男性用だった。

銀を使った、飾り気のないシンプルなデザイン。


私はそのカフスボタンを指先で転がしながら、昨夜のことを思い出していく。


――昨夜の記憶が、少しずつ。

しかも嫌な順番で、蘇ってくるのだった。







***


酒をしこたま飲んだ私は、すっかり酔っていた。

日頃のストレスと、破滅フラグが完全に消えたことへの安堵。

そしてジルという味方が出来たことで気が緩み、酔った勢いで緊張の糸がぷつりと切れた。

この世界に来てからずっと張りつめていたものが、酒によって一気に崩れ落ちた――そんな夜だった。


そうなった私がやる事はただ一つ。

盛大に泣くことだ。


「うぅっ……うぅ……私、頑張ったんだよぉ……ここまでずっと一人でっ!」


酒瓶を抱えたまま、ぐずぐずと涙を流す。

長いソファーには、隣に座ったジルが背筋を正したまま、静かにこちらを見ていた。


「……はい。オフィーリア様はよく耐えてこられました。

 誰にも見せず、ただ一人で――それでも歩みを止めなかった。

 どうか今宵ばかりは、その涙を惜しまず流してくださいませ。

 その証こそ、オフィーリア様が生き抜いてきた証明にございます」


そう言いながら、白いハンカチを差し出してくる。

その仕草に優しさを感じた途端、さらに涙が溢れ出していった。


「うぅぅ……ジルが……ジルが優しいよぉ。モブ執事なんて言ってごめんねぇ」


私は散々泣きわめいていた。

たぶん、ジルに甘えていたんだと思う。

いつもはその無表情な顔や、観察魔な所にイライラしてるくせに。

都合よくジルに吐き出して、楽になろうとしていた。


――あぁ……思い出したくない事を思い出してしまった。


それでも、その夜のジルはどこか優しかった。

私は泣きじゃくっていたから表情までは読めなかったけど、

声だけは確かに、いつもより温かかった。


私が泣いていると、ジルはふいに立ち上がった。


「ジル……どこ、行くの?」


「恐れ入ります。グラスを倒してしまいましたので、拭くものをお持ちしようかと」


そう言ってジルはどこかに行こうとする。

私に背を向けて。

ずっと私を支えると言っていたジルが。

その背中を見ていると、あの言葉が全部嘘だったんじゃないかと疑いたくなってしまう。

胸に、針のような痛みが込み上げてくる。


――酔った私の頭には、一瞬の不安が何倍にも膨れ上がった。


ジルの背中に向かって「嘘つき!」と罵ってやりたい。

でも、それ以上に――今は縋りつきたい。

不安が胸を溢れかえって、抑えられない。


……もしかしたら、ジルは私に愛想を尽かしたのかもしれない。

私の中身が、ただのつまらない庶民のOLだと気づかれてしまったのかもしれない。


ジルがどこかに行ってしまうのを、私は止められない。

結局、私には何もないのだから。

ジルが興味を失えば、最初から無かったことになる。それだけの関係。


――それでも。行かないで欲しい。


もう一度、独りで戦う私に戻るなんて、耐えられない。

涙が止まらず、気づけば夢中でジルの腕を掴んでいた。


あまりに強く掴んだからだろう、ジルは驚いたように振り返り、目が合った。

酒に浮かされた頭では、それが現実なのか幻なのかも分からなかった。


「……ジル、行かないで。傍にいて。私を、独りにしないで…」


涙があとからあとから零れ落ちる。

声が震えて、うまく言葉にならない。

それでも伝えなきゃ。今すぐ言わなきゃ、ジルは行ってしまう。

掴む手に、自然と力が籠る。


「もうやだ……っ…独りは……だから、ずっと傍に――」


言い終わる前に、暖かいものに包まれていた。

目の前に広がるのは、ジルの執事服の布地。

酔った頭では、抱きしめられているのだと気づくまでに少し時間がかかった。


そして、頭上から落ちてきた声。


「……独りになどいたしません。

 たとえ長い夜が続こうとも、明けるまで寄り添いましょう」


その言葉に、先ほどまでの不安が嘘みたいにほどけていく。

……嬉しい。

独りじゃないことが、こんなに安心できるなんて知らなかった。


顔を上げると、こちらを見つめるジルの瞳とぶつかった。


いつもの無表情なのに、不思議と冷たさは感じない。

切れ長の瞳は静かで、奥底に隠された光が、今だけはわずかに揺れている。


端正な輪郭も、きっちり整えられた口元も――こんな至近距離で見つめるのは初めてかもしれない。

近いせいか、微かな吐息まで伝わってきて……やけに心臓が落ち着かない。


鉄の仮面みたいだと思っていたのに。

こうして見ていると、その奥にちゃんと熱を宿した人間の顔なんだと気づいてしまう。


思わずジルの顔に触れる。

手に伝わる温もり――確かに、人間だ。


けれど、触れても微動だにしない様子に、胸の奥がざわついた。

まるで、私が何をしても気にしないみたいに。


ああ……そういえば、前に言っていた。

ジルは「私が何をしても困らない」と。


ぼんやりと考えながら頬に触れると、親指がジルの薄い唇をかすめた。

その瞬間、私の口から勝手に言葉が漏れる。


「……ジル、キスして」


自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からない。

この前のお茶会の会話を思い出したのか。

それとも、不安を紛らわせたかったからか。

酒で茫然とした頭には、もっともらしい理由なんて浮かんでこなかった。


ジルはただ、じっと私を見つめている。

動かないまま――その瞳の奥に、普段は隠された何かが揺れているように見えた。


「……ジル?」


呼びかける声は、自分でも驚くほどか細かった。


確かめるように名前を呼んだ途端、唇に柔らかな熱が触れた。

何が起きたのか理解するより先に、体が固まる。

ぼんやりとした頭の中に、じんわりとした温度だけが広がっていく。


夢みたいに曖昧で、けれど確かに重なっている感触。

……これは、キス……?


理解が追いつくより早く、唇は離されていた。

ぼんやりとジルを見ると、彼はわずかに顔を背け、口元に手を添えている。

その仕草は、いつもの無表情よりもずっと複雑に見えた。


「……オフィーリア様。これ以上はなりません。進めば、私の務めを踏み外してしまいます」


淡々と告げられた言葉に、胸が締めつけられる。


――あぁ、そうか。

ジルは執事だから、私の言葉には逆らえない。

たとえ嫌いな相手であっても、主に命じられれば従う。

今のキスもその一つ。ただ“務め”で従っただけ。


優しさだと思ったものは全部、私の勘違い。

これは、ただの仕事。

それに付け込んで、私はキスを強要した。


罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。

ジルの存在に救われていながら、私は彼の尊厳を踏みにじっている。


――最低だ。私は、なんて最低な人間なんだ。


自分が醜すぎて涙が出る。

結局どこまで行っても、私は薄汚い悪役令嬢。


「……ごめんなさい」


声が震える。それでも言わずにはいられない。

ジルはこんな謝罪で許してくれないかもしれない。

それでも、伝えなければ。


「ジルの……嫌がる事して……っ……ごめんなさい」


ジルの顔が見られない。

どうせいつもの涼しい顔をしているんだろう。

けれどもし、その顔に嫌悪の色が浮かんでいたら――

私は、もう立ち直れない。


ただ祈るように、謝ることしかできなかった。


ふいに震える肩を抱き寄せられた。

俯いた頬に手が添えられ、指先がそっと涙を拭う。

顔を上げた瞬間、ジルの瞳とぶつかった。


その瞳は、どこか悲しそうで――胸の奥まで締めつけられる。


「……嫌など、するものですか」


その一言に、胸の重みがほどけていく。

“嫌じゃない”――それだけで、どれほど救われるのか。

ほっとして、安心のあまり笑みが零れた。


次の瞬間、距離が音もなく詰まる。

彼の手が頬に触れていると思ったら、唇が重なっていた。

柔らかいのに、どこかぎこちない。

そこに伝わる微かな震えから、ジルの迷いが伝わってくる。


私はその震えに応えるように、そっと腕を彼の首に回した。

安心させるように吐息を漏らすと、触れ合う唇はさらに深くなっていく。


……たぶん、もう後戻りできない。


そう思いながらも、私はただジルの温度に身を委ねていた。






***


二日酔いの頭で私は全てを思い出した。

思い出した瞬間、頭を抱える。


「や……やってしまった!!!」


そう、文字通り、やってしまったのだ。

私は酔いと勢いに任せて――ジルと。

あの鉄面皮のモブ執事と。


穴があったら入りたい! そして、入ったら一生出たくない!


よりにもよってジルとなんて。

せめて、あと腐れのない相手にしておけば良かったものを!


あーもー! これからどんな顔してジルに会えば良いのよ!


枕に顔を押し付けて叫びたい。

布団の中でジタバタ暴れたい。


……でも、その衝動すら二日酔いの頭痛に押し潰される。

いや、そんなことより――まず謝らなければならない相手がいる。

私はそっと、祈るように手を合わせた。


「オフィーリアたんごめんなさい。私の不注意で貴女の体を穢してしまいました」


この体は悪役令嬢オフィーリアのもの。

私はそれを借りているだけのオタクOL。

それなのに、どこぞのモブ執事に身を委ねてしまった。


ゲームプレイ時は、オフィーリアが可哀想すぎて何度もオフィーリア生存ルートを探したのに!

グッズが出れば攻略キャラよりオフィーリア限定で集めていたのに!

絶望フラグを折りまくった学園生活で、あんなに守ると誓っていたのに!!


そんな私が――こんなうっかりでオフィーリアの体に傷をつけるなんて。


謝っても謝り切れない。

謝ったところで返事なんて無いけど。


そんなことを考えていると、不意にノックの音がした。

……まずい。メイドが朝の支度に来た? それにしては早すぎる。


裸のまま、どうやって誤魔化そうか焦っていると声が聞こえてきた。


「オフィーリア様。失礼いたします」


ジルの声。

私の返事を待たずに、ドアは開かれた。


――本当に。なんて失礼な執事なんだ。


ジルは音もなくドアを閉め、私が起きていることを確認すると「おや……」と声を上げた。


「すでにお目覚めでございましたか。てっきりまだ夢の中かと存じました」


「な……何の用よ」


顔が、見られない。

なんとか声を出したけれど、ジルがそこにいるだけで昨夜のことが頭をよぎる。

熱くなる頬を隠すように、思わず顔を逸らした。


「失礼いたします。カフスボタンを落としてしまったようで。

 メイドに見咎められては、余計な憶測を呼びかねませんので」


……声も表情も、いつも通りすぎて腹が立つ。

昨日のこと、何とも思ってないのか、この執事は。


私は拾っていたカフスボタンをジルに投げつけた。

不満を込めたつもりだったのに、彼はあっさりと指先で受け止める。


「これで満足でしょ。さっさと出て行って」


これ以上、顔を合わせているのが辛い。恥ずかしい。

早くどこかに行ってほしかったのに――ジルは何かに気づいたように歩みを進めた。


慣れた手付きでドレッサーから手鏡を取り、ベッドサイドにやってくる。

その顔は、やはりいつもの鉄面皮だった。


「オフィーリア様。本日は首筋の隠れるお召し物をお選びくださいませ。

 ……昨夜の名残が、あまりに鮮やかにございますので」


「……は?」


言いながら手鏡を渡される。

そこに映っていたのは、二日酔いで険しい顔をした私と――首元に赤々と残る、無惨な跡。


頭から火が出るかと思うほど驚き、慌てて首を押さえた。


「あああああんた! こんな所に跡なんかつけて、何考えてるのよ!

 せ、責任取りなさいよ!」


口走りながら、自分でも支離滅裂だと思った。

責任って……どうやって取るんだ、これ。


私の怒鳴り声をよそに、ジルは淡々と口を開く。


「責任の形となるかは分かりかねますが――」


そう言いながら、ジルは指先でネクタイを緩めた。

さらに、シャツのボタンへと手を掛ける。


いつも完璧に整えられた執事服を、自ら崩していく姿に、なぜかこちらの方が羞恥で息苦しくなる。

目を逸らせないまま見ていると、ジルは自分のシャツを開いて見せてきた。


そこには赤く小さな――けれど確かな跡が残されていた。


羞恥で固まった私に、ジルはわずかに口角を上げた。

初めて見るその笑みは、まるで悪戯好きの少年のようだった。


「偶然か、それとも必然か。……お揃い、でございます」


最大級の煽りに、私は反射的にクッションを掴んで投げつけた。



挿絵(By みてみん)

読んでくださってありがとうございます。

おまけの挿絵です。

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