第4話 未亡人、酒と執事で夜更けまで
それからの日々も、何かと忙しかった。
滞っていた伯爵領の経営や財産の管理、領民の監督や税の方針。
やらなきゃいけないことが山ほどあった。
私は書類に目を通してサインするだけ。
……それだけのはずなのに、一日中サインし続けて終わる日もある。
字を書く手が腱鞘炎になったらどう責任を取ってくれるんだろう。
私より大変なのはジルだ。
領地の収入と支出、屋敷の管理や運営――ほとんど全部を仕切ってる。
会計係や書記もちゃんと配置してるけど、それでも彼の負担は尋常じゃない。
なのに、私が呼べばすぐ来る。
しかも、あの涼しい顔で。まるで「今、暇でした」とでも言うように。
……ほんとに人間? それとも機械?
私は、じーっとその顔を覗き込んだ。
「……オフィーリア様。私の顔に、何かございましたか?」
午後の紅茶の時間。
ジルはいつも通り、慣れた手つきで茶器を整えて紅茶を淹れる。
ここでだけは、私も少し肩の力を抜ける。
驚くべきことに、ジルはどんなに忙しくてもこの時間を欠かしたことがない。
むしろ、私が部屋に戻る前から紅茶を準備して待っているくらいだ。
あの顔で。あの涼しい顔で。
疲れるって概念が、彼の辞書に載ってないんじゃないの?
「あんた……こんな所で私にお茶なんか淹れてて平気なの?」
「領地経営も茶を淹れるのも、いずれも私の務めにございます。
オフィーリア様が茶を欲される時、それに応じることは何より優先すべき仕事。
どうぞご心配なく」
ジルは音も立てずにポットを傾け、琥珀色の液体を静かに注ぐ。
その動きには無駄がなく、まるで舞でも見ているみたい。
最後にふわりと立ち上る湯気と香り……はいはい、完璧ですね。
「むしろ……オフィーリア様とこうして茶を囲むひとときこそ、私にとっての休息にございます」
カップを口に運ぶ。
……美味しい。腹が立つくらいに。
メイドのお茶も十分美味しいのに、ジルの紅茶はどこか違う。
温度も香りも、全部私好みに調整されている気がする。計算高いにも程がある。
肩の力が抜けて、ほっとする。
二口めを飲もうとした時、ジルの視線に気付いた。
相変わらず無表情なのに、その奥に「どうだ」と言わんばかりの得意げな色。
“してやったり”ってやつね。
……やっぱり、むかつく。ほんと、この執事。
この鉄面皮をどうにか崩せないものか。
私の手で驚きや敗北の色を引きずり出せたら、どれほど痛快だろう。
想像しただけで、口角が勝手に上がってしまう。
私は横に控えて立つジルに視線を向けた。
「そんな所に立ってたら、こっちも休まるものも休まらないでしょ。
あんたもそこに座りなさいよ」
「僭越ながら……執事が主と同じ卓に並ぶなど、礼を欠く振る舞いにございます」
「これは命令よ。私の言葉に逆らう方が“礼を欠く振る舞い”でしょ?」
ジルの視線が私と空いた席とを往復する。
その眼差しと漂う気配から、明らかなためらいが読み取れた。
ふふ……困ってる困ってる。いい気味だ。
「……畏まりました。それでは」
ジルはそう言って、仕方なさそうに私の正面に腰を下ろした。
背筋は伸びたまま、表情は相変わらず動かない。
それでも、纏う空気にはどこか居心地の悪さが滲んでいる。
――さて、獲物は席についた。ここから、どうやって揶揄ってやろうか。
ジルは自らを“観察魔”だと言った。
人の内面を見抜く眼を持っているのだと。
けれど私にだって、それなりの眼はある。
この、ステータスが表示されないクソゲーみたいな世界で、
数多のキャラクターの表情や声色を読み切って破滅フラグをへし折り続けてきた日々。
そして何より、私の魂は生粋の日本人。
“空気を読む力”を極限まで鍛え上げた空気戦闘民族だ。
私には、この世界で生き残った実績と、生まれ持った特性がある。
ジルの鉄面皮ごとき、私の能力で打ち砕いてみせる!
私は、内心を悟られぬようにいつもの笑みを浮かべ、ジルをじっと見つめた。
「ジル、いつもありがとうね。領地経営を一人で取り仕切るのは大変でしょ。
ここにいる時ぐらい、ゆっくり休んだら良いよ」
とりあえず、油断させて相手の反応を見る。
ジルを困らせるには、もう少し弱点を探らないと……。
私の言葉に、ジルの口元がほんの僅かに動いた気がした。
「……オフィーリア様。何を企んでおいでで?」
一瞬で空気が凍り付いた。
……しまった。もう気付かれた!
早い、早すぎるぞジル!
何なんだこいつの観察力は。とりあえず誤魔化さなきゃ。
「別に、何も企んでないわよ。ただジルを労おうと……」
「左様でございましたか。私はてっきり――オフィーリア様が私を困らせて愉しまれようと なさっているのかと、早合点いたしました。
どうか、この早とちりな執事をお赦しくださいませ」
そう言って、ジルは恭しく胸に手を当てる。
――まずい。やっぱり全部見破られてる。こうなったら仕方ない……。
私は諦めたように小さく溜息をついた。
「確かにちょっと困らせようと思ったけど、具体的に何するかは全然考えてなかったわ。
もういっそ聞いちゃうけど……ジルは、私が何をしたら困るの?」
「困る事、でございますか。さて……」
ジルは顎に手を添えて考え込む。
え? 答えてくれるの? 自分の弱点を?
――こいつ、馬鹿なの?
やがて顔を上げ、細めた眼に淡い光を宿して言った。
「考えてみましたが、私が困ることなどございません。
むしろオフィーリア様のお振る舞いが予想を越えるほど、観察する愉しみが増すだけにご ざいます」
……いや、無いのかよ!
ちょっと期待して損したじゃない!
しかも、言ってる事は、結局ただの観察魔だし。
「あんた……ホントに私が何しても困らないの?」
「はい、オフィーリア様。私が困ることはございません」
「じゃあ、私がキスしても?」
ジルの指先が僅かに動いたのを、私は見逃さなかった。
「……それもまた、私にとっては観察の一端にすぎません」
声色はいつも通りの平静。
けれど、その瞳の奥に微かな揺らぎが走ったのを私は確かに見た。
……これなら、いけるかもしれない。
私が次の言葉を紡ぎかけた瞬間、部屋のドアがノックされた。
お茶菓子を取りに行ったメイドが戻って来たのだろう。
ジルは即座に席を立つ。
「オフィーリア様。他の者の目のある場で――礼を欠く振る舞いは致しかねます。
どうか、ご容赦を」
そう言い残し、ジルはメイドを部屋に招き入れた。
私はその背中を見送りながら確信する。
――ジルは恋バナに弱い。
普段は真面目で浮いた話など一切ないジルだ。
恋愛の話題など、きっと照れ臭くてまともに受け止められないに違いない。
真面目な草食系男子によくある反応……なるほど、そこを突けばいい。
見てなさい、ジル。
私があんたの涼しい顔を嘲笑いながら崩してやるんだから。
その日、私は湧き上がる謎の決意に胸を躍らせた。
***
それから数か月後、伯爵の葬儀が厳かに執り行われた。
最期の頃は、食事もろくに喉を通らず、口にしても半分夢の中で粥を啜るだけ。
あんな状態で、よくここまで持ったものだ――と医者は感心したように言っていた。
私は喪服に身を包んで、葬儀に参列し、土に埋められていく棺桶を見つめる。
……当然だけど、涙は出なかった。
悲劇の未亡人を演じる気には、なれなかった。
それはむしろ、彼を侮辱することになる気がしたから。
だからと言って、伯爵の死を祝う気にもなれなかった。
確かに、私は自由を得た。
これからは夫の爵位を受け継いだ未亡人として、社交界でも自由に振る舞える。
残された財産だって、好きに使える。
……なのに、笑う気になれなかった。
涙を流して「良き妻」を演じることもできず、
高笑いして「悪役らしく」振る舞うこともできない。
結局どっちつかずの、この中途半端さ。
――ああ、これがきっと私なんだ。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、数日が経った。
屋敷が寝静まる夜。
窓には夕方から降り続いた雨が沁みついている。
風の無い静かな雨が庭園を濡らし、ガラスに細い筋を描いて流れ落ちていた。
私は寝室で、眠れないままの夜を過ごしていた。
ジルが改装してくれたこの部屋は、だいぶ過ごしやすくなった。
私に世継ぎを強要する様な者は全て解雇し、淀んだ空気も入れ替えた。
ジルのおかげで、ようやくここは“私の部屋”になっていた。
部屋も屋敷も、以前よりずっと快適になった。
それでも――眠れない夜はある。
私は窓の外を眺めながら、長い長い溜息をついた。
「はぁぁ……お酒飲みたい」
もやもやした気分の時は酒に限る。
OL時代、社畜だった頃の私にとって一番の睡眠薬は酒だった。
無能な上司、終わらない仕事、つまらない人間関係……。
そのどれもを忘れさせてくれるのがアルコールだった。
炭酸に乗せて度数の高い酒を喉に流し込み、全ての憂いを溶かしていくあの感覚。
……駄目だ。思い出したら、もう止められない。
――アルコールを! 誰か、私にストゼロを!!
「あーー! お酒が飲みたーーい!」
私は衝動的に呼び出しベルを掴んだ。
軽く振るだけで、仕事中だろうが夜中だろうが、あの執事は必ず来る。
私の望みを何でも叶えてくれる、ジルえもんの登場だ。
「お呼びでしょうか、オフィーリア様」
ノックと共に現れたジルに、私はにっこりと笑みを浮かべた。
「ジル! 飲み会しよう!」
さすがのジルでも、返答がすぐには出てこなかった。
……3秒か。今のところ新記録だ。
しかしすぐに、何事もなかったかのように眼鏡を指先で押し上げる。
「畏まりました。今宵のご所望――早速整えさせていただきます」
そう言って、ジルは静かに背を向ける。
やっぱりジルえもん、話が早い。
しばらくして、ワゴンを押して戻って来たジル
ワインやウイスキーはもちろん、氷やグラスなど必要なもの一式。
それどころかチーズや干し肉を使った簡単なおつまみまで整えてある。
私はワゴンに並べられた品揃えに目を輝かせた。
「さすがジル! 分かってるじゃない!」
寝室のソファーに座り、ワクワクとした気分でジルを待つ。
お酒の用意も完璧だし、服装も後は寝るだけの本日終了モード。
大人の楽しみとはここから始まるのだ!
けれど、ジルはワインを注ぎながら声を低くした。
「……オフィーリア様。葬儀を終えたばかりで、深酒はお体に障ります。
慰めに杯を傾けるのは結構ですが――その痛みを酒に沈めれば、明日の朝にまた苦しみが戻るだけ。
せめて、今宵は“ほどほど”でお楽しみくださいませ」
「分かった分かった。舐めるだけにしておくよ」
100%嘘だ。
もう飲みたくて仕方なくて、笑みが漏れてしまう。
ジルの溜息が耳に入ったけれど、そんなの気にしてられない。
私はワインに口をつけ、そのまま一気に飲み干した。
ジルの喉から「……あっ」という小さな驚きが零れる。
「ぷはー! 美味しい! もう一杯!」
「……オフィーリア様。ワインとは本来、香りを愉しみ、舌の上で転がし、余韻を味わうものにございます。
今のように一息で流し込んでしまっては、ただの葡萄酒に堕ちてしまいます」
「これは亡くなった伯爵の分だから良いの。早く飲んであげないと天国まで届かないかもしれないでしょ」
次は伯爵を悼む私の分。
その次は伯爵の死を悲しむ領民の分。
……あれ、領民ってどれぐらいいたっけ。
何百人? 何千人? いや、数万人はいたような……。
――これは大変だ。グラスが全然足りないぞぉ!
などと言い訳をしながら杯を重ねる。
隣に控えるジルの視線は、呆れているようで――それでいて、どこか楽しげにも見えた。
夜はまだまだ長い。
献杯はまだまだ重ねられそうだ。