第3話 伯爵夫人と、変な執事
そこからの日々はあっという間だった。
まずは、お父様に「ジルを私の専属執事にしたい」とお願いした。
これが難なく通ったのは――ジルが“お父様が一番ご機嫌な瞬間”を見計らってくれたおかげだ。
次に持ち上がったのは、死にそうな伯爵との縁談。
これもまた、すべてジルが取り計らってくれた。。
関係各所に手紙を出し、両親にあることないこと吹き込み、気がつけば円満な縁談が出来上がっていた。
――一体、何をどう吹き込まれたら、十八歳の娘と七十五歳の老人との結婚が円満になるのよ。
貴族の政略結婚は、なんか怖い。
私の結婚はまたたく間に社交界へ広がった。
けれど、爵位が近しく財産の格差もさほどではなかったこと。
そして何より、ジルが広めた“若い身空で老人に嫁ぐ可哀想なオフィーリア”という美談のおかげで思ったほど騒がれずに済んだ。
むしろその噂が根を張ったおかげで、“社交界デビューで紅茶を被った狂人”の評判はいつの間にか消えていた。
……ジルは最初から、そこまで計算していたのだろうか。
だとしたら、本当に恐ろしい執事だ。
***
あっという間に一年が過ぎ、伯爵家に嫁ぐ日を迎えた時には、私は十九歳になっていた。
あれほど恐れていた神託――「オフィーリアは十八歳で破滅する」は、気づけば呆気なく過ぎ去っていた。
いや、もしかすると……
「絶望も、破滅も――すべて私が先んじて払いのけてみせましょう」
あの時ジルが言った、言葉の通りになったのかもしれない。
まあ、考えたところで私には分からないのだけれど。
伯爵とは結婚式を行う事は無かった。
当然だ。相手は寝たきりの老人なのだから。
エドワード・グレイストーク伯爵。
彼に派手な経歴なんてひとつもない、地味な伯爵だった。
若い頃に一度だけ結婚をしたけれど、それも政略結婚。
子供は出来なかったらしい。
それでも彼は、妻を生涯愛し続けたという。
妻を失ってからも再婚はせず、ただ静かに領地を守り続けた。
欲を張らず、目立ちもせず、ただ淡々と。
――そうやって平凡に生きた人生。
それが、私の夫――エドワード・グレイストーク伯爵だった。
輿入れの日、私は伯爵の寝室で初めて彼を見た。
ベッドに横たわる彼を目にした瞬間、胸の奥がひやりとした。
皮膚は薄い紙のようにしわを刻み、白髪は枯れ草のようにまばら。
唇は乾ききっていて、息をしているのかどうかさえ分からないほど。
――これが、かつて一つの領地を背負った男の姿か。
ただ眠っているだけにも見える。
けれど、その胸の上下はあまりにか細く、まるで今にも途切れてしまいそうで……。
残酷なくらいに老いは進み、命の灯火が尽きかけているのが、ひと目で分かった。
私は伯爵の手にそっと手を重ねた。
「ごめんなさい。私はこれから貴方の地位を利用します。
浅ましい女と罵ってくれて構いません。
ですが、これだけは誓います。
貴方が生涯守ったこの領地を、私は何があっても守ってみせる。
それが、この結婚の私なりの誠意だと受け取って下さい」
ただ眠る老人に私の言葉は聞こえていないだろう。
それでも言わずにはいられなかった。
立ち上がって振り返ると、そこには静かにこちらを見つめるジルの眼差しがあった。
「ジル、あんたも協力してね」
「もちろんでございます。
お嬢様が背負われるなら、私もまたその重みを共にいたしましょう。
それこそが――執事ジルバート・ヴァンデンベルグの務めにございます」
「ふふふ……もう“お嬢様”じゃないけどね」
「おっしゃる通りでございます。
では、改めて申し上げましょう――これから先も、いついかなる時もお傍に仕えさせていただきます。
……オフィーリア伯爵夫人」
***
伯爵との顔合わせも終えると私は“私の自室”に通された。
案内された部屋を見渡した瞬間、思わず息を呑む。
壁は淡いクリーム色で、縁にはきらびやかな金の装飾。
床には一面に上質な絨毯。沈み込むほど柔らかくて、思わず裸足で歩いてみたくなる。
中央には、私の背丈よりも高い天蓋つきのベッド。
薄いレースのカーテンが光を受けて輝いている。
……ふわふわしていて可愛らしいのに、まるで牢獄の格子みたいに見えるのは、私の心が歪んでいるからだろうか。
隣には暖炉、壁際には本棚や鏡台。完璧すぎて隙がない。
どこからどう見ても「伯爵夫人の部屋」だった。
……なのに、胸は少しも高鳴らなかった。
ここは私のために用意された部屋。けれど本当の意味で“私の部屋”には思えない。
家具の一つひとつが「今日からあなたは伯爵夫人なのだから」と声なき圧力をかけてくる。
華やかというより、むしろ息苦しい。
ふと窓辺に立つと、整えられた庭や噴水が目に入る。
伯爵が守ってきた領地の一部……のはずなのに
私には「美しい風景」ではなく「逃げ場がまた増えた」という皮肉な安心しか与えてくれなかった。
視線を戻すと、ベッドサイドに小箱が置かれている。
お菓子箱のような可愛らしいデザイン――だが、この部屋に似つかわしくなくて違和感を覚える。
『寝る前のお菓子……? そんなわけないよね』
開けてみると、中には小瓶と丸い宝石。
香水にしては匂いが弱く、むしろ薬に近い。
しかも宝石と一緒に入っている。何これ。
後ろで控えるジルに視線を向けた。
「ねぇ、ジル。この小瓶は何?」
「それは“夜の薬”でございます」
「……は?」
「そちらの石は“世継ぎ祈願の石”と呼ばれます。夫婦の床に置けば男子が授かる――と、貴族社会で囁かれる迷信でして」
ジルが言い終わる前に小箱を投げ捨てた。
壁にぶつかって壊れ、中身が床に散らばる。
――これは、他にもあるかもしれない。
慌てて部屋を探し回ると、本棚やベッドサイドに「夜伽指南」の本がいくつも紛れ込んでいた。
金箔押しで『幸福な夫婦生活の秘訣』。中身は……見事にエロ本だった。
「こんなもの! ただのいやらしい本じゃない!!」
こんなもの作る暇があるなら同人誌でも書いてろっての!
腹立たしくて思わず地面に投げつける。
さらに探すと、クローゼットの隅に子供服や揺り籠まで。
あまりにあからさまな品々に、乾いた溜息しか出なかった。
――この屋敷の人間は、私に“世継ぎ”を求めている。
その無言の圧力に、背筋が寒くなる。
ありえない。伯爵は寝たきりの老人だ。
食事の時以外、ほとんど眼を覚まさないと聞いている。
「いや……どう考えても無理でしょ」
それでも悪寒は止まらなかった。
まるで、老人のしわがれた手が私の背を撫でているかのように。
疲れて豪華なソファーに腰を下ろす。
柔らかい座り心地よりも、隣に立つジルの存在に安堵を覚えた。
思わず弱音が漏れてしまう。
「……ジル、私この部屋怖い。ここにいる間、出来るだけ離れないで」
「承知いたしました。オフィーリア様。
ここはどれほど絢爛に飾られていても、檻にも似た空気が漂っております。
――ですが、どうかご安心を。私は片時もお傍を離れません」
普段は淡々とした声が、今日だけは少し柔らかく聞こえた。
さすがに私の心を察してくれたのだろう。
こんな時ばかりは、ジルがいてくれて良かったと思ってしまう。
……変な奴だけどね。