第13話 舞踏会の後で
舞踏会が終わってから、もう二週間ほど経った。
夕暮れの赤い光が差し込む大広間。
ダンスの練習のために空けられていて、クララが奏でるグランドピアノに合わせ、私とエディがステップを踏む。
……もちろん、その横には、監視役のマチルダ夫人。厳しい目を光らせながら、じっと私の動きを見張っている。
「あっ!!」
そして、私は――膝から崩れ落ちるように広間に倒れ込んだ。
足がもつれて、もう体が動かない。完全に疲労で限界。
同時にクララのピアノがぴたりと止まった。
「マチルダ夫人! もうやめたい! 舞踏会も終わったんだから、ダンスなんてしなくていいでしょ!」
必死に抗議する私を、夫人は背筋を伸ばしたまま冷徹に見下ろす。
「いけません、奥様。ダンスは淑女の嗜み。グレイストーク領の顔である奥様には、立派な振る舞いを身につけていただかねば」
「いやだーー! もう、淑女なんかなりたくないぃぃ!」
舞踏会が終わったら解放されると思って頑張ったのに!
その後も延々と踊らされるなんて聞いてない!
毎日毎日ステップ踏んで、くるくる回って……オタクにそんな陽キャ活動させるんじゃないわよ!
私は床の上で亀のように体を丸め、断固として動かないことを誓った。
「奥様、そのような態度を取られても、不作法なだけでございますよ」
「何と言われようともうやだ! 絶対に踊らない!」
亀の姿勢のまま床をにらみ続けていると、頭上からマチルダ夫人の呆れた溜息が降ってきた。
すると、相手役だったエディが、おどおどしながら声をかけてくる。
「お、奥様……も、もう少し練習しましょう?
そそ、それに、前よりずっと上達してます! 足だって、ほら……まだ十二回しか踏んでませんし!」
「やだ!」
私は断固として拒否した。
私はもう淑女じゃない――亀なのだ!
困り果てた三人が、ひそひそと相談を始めているのが分かる。
内容までは聞こえないけれど、何か作戦会議をしているのだろう。
それでも、私は一切頭を上げなかった。
「私は亀よ! ここで一生亀になってやるんだから!」
もう絶対に踊らない!
駄々をこねるのが子供っぽいって? 上等よ!
私は今日から亀として生きるのだから!
「奥様、分かりました。本日のレッスンはここまでに致しましょう」
頭上から、マチルダ夫人の呆れた声が落ちてきた。
そう思った途端、彼女の足音が規則正しく遠ざかっていく。
続いてクララ、エディの足音も小さくなり、最後にドアが閉じる音。
……静寂。
辺りがしんと静まり返ったのを確認してから、私はゆっくりと頭を上げた。
――誰もいない。
館の主人をこうもあっさり放置して去っていくなんて……うちの使用人たち、忠誠心なさすぎじゃない?
(まあ、私が一番のわがまま女だってことは棚に上げるけど!)
拗ねたみたいに体育座りになり、床に腰を下ろした。
広い大広間に私ひとり取り残されると、途端に孤独感が膨らんでいく。
夕暮れの光が斜めに差し込み、影がやたら長く伸びて、余計に寂しい気分になる。
窓枠に切り取られた陽光をぼんやり眺めていると、頭の中がぐるぐる回り始めた。
――ゲーム世界に転生して、もうゲームの本編は終わった。
現実に帰れないなら、ここで生きていくしかない。
だからこそ、伯爵夫人になって、働かなくても悠々自適な生活が送れると思っていたのに。
本当は……何もせずにいたい。
私の本来の、“雪村灯子”の本音なら、そうだ。
現実なんか忘れて、ずっと二次元の中で生きていたい。
誰とも話さず、部屋に引きこもって、死ぬまでだらだら過ごしていたい。
だって、望んでもいない異世界転生を押しつけられたんだもの。
それくらいの贅沢、許されてもいいでしょう?
……でも出来ない。
周りの人たちが、私を追い立てる。
「伯爵夫人であれ」
「淑女であれ」
「オフィーリアであれ」
言われるたびに鬱陶しいと思うくせに――ほんの少しだけ、楽しい自分もいる。
――確かに、ダンスは嫌いだ。
足は痛いし、目は回るし、マチルダ夫人は鬼みたいに厳しいし。
正直、どこが楽しいのかさっぱり分からない。
……でも最近、ほんのちょっとずつ踊れるようになってきているのは、実は少し嬉しい。
出来なかったことが少しずつ出来るようになるあの感覚。
自分が前に進んでいるみたいで。
本当はずっと部屋に籠っていたいのに……外に出てみたら、案外悪くないって思ってしまう。
「はぁ……」
溜息をついて、頭をガシガシと掻いたその時。
大広間の奥から、こんこん、とノックの音が響いた。
「どうぞ」と返事をすると、ドアがゆっくり開く。
現れたのは――鉄面皮の専属執事、ジル。
……ああ、なるほど。
あの三人、私の対応が面倒になってジルに泣きついたな。
ジルは広い大広間を、コツコツと革靴の音を響かせながら近づいてくる。
「マチルダ夫人から伺いました。ダンスの練習に難航されていると」
「いいのよ。私はもう二度と踊らないから。社交界では“足を折った”ってことにでもしておくわ」
そう吐き捨てて、ゆっくりと立ち上がった。
……そうよ、最初からそうしておけば良かったのに。
ああ、ほんと無駄な時間を過ごしたわ。
スカートを軽く払って溜息をついた、その瞬間――ジルの視線が横顔に突き刺さった。
……嫌な予感しかしない。
恐る恐るそちらを見ると、案の定。
興味深そうに目を細めて、じっとこちらを観察するジルと目が合った。
あの鋭い観察者の目。探られている。完全に。
「……それは、いささかオフィーリア様らしくありませんね」
「うっ……」
出た。ジルの会心の一撃。
“オフィーリアらしくない”――その言葉、日頃どれだけ私が意識してると思ってるの。
胸の奥に棘が刺さるみたいに痛い。たった一言で仕留めてくる、この執事。
思わず私は動きを止めてしまった。
「少なくとも、舞踏会で誰よりも視線をさらったお方が、ここで“亀になる”などと……。
私にはどうしても、冗談にしか聞こえません」
「さ……さらってないわよ、視線なんか。あの時、誰も私なんか見てなかったじゃない」
「そう仰るのは、オフィーリア様だけです。
あの場で視線を逸らせた者が、果たしてどれほどいたか……ご自身ではお気づきでないのでしょう」
胸がざわつく。
ジルの視線が妙に熱くて、目のやり場に困る。
「惜しいことです。あの夜、オフィーリア様が踊られていたなら……私は職務を忘れ、見惚れてしまっていたでしょう」
ジルはいつもの鉄面皮を保っている――はずなのに、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
淡々とした声の奥に、熱が混じっているのが、私にははっきり分かってしまう。
一瞬だけ視線が泳いで、すぐに真っ直ぐ私を射抜いてきた。
その灰色の瞳が静かに揺れて……普段なら絶対に見せないはずの「欲」を、確かに映している。
――な、何よ、その顔。
そう言いかけて、私は慌てて口を閉ざす。胸の鼓動がうるさすぎて、自分でも落ち着かない。
「べ、別に……あんたに見惚れられても、嬉しくなんかないわよ……」
顔が妙に熱い。声もうまく出ない。
――これは照れてるんじゃない。ただ、ジルが変なことを言うから戸惑ってるだけ。
私を見るジルの目が細められる。
鉄面皮のままなのに、さっきから声だけが妙に甘やかで柔らかい。
「オフィーリア様。ダンスは決して難解な技ではございません。
ただ歩幅を合わせ、音楽に委ねるだけの遊びです。
……オフィーリア様なら、その面白さをすぐに掴まれる事でしょう」
そう言って、ジルは恭しく私の前に手を差し出した。
口元には、ほんのわずかに笑みを浮かべて。
「もし宜しければ――私と一つ、遊んでいただけますか?」
……正直、ダンスなんてもう嫌だ。
嫌なはずなのに。
ジルの言う「遊び」がどんなものか、気になってしまう。
――だって、あの絶望の噴水から私を連れ出した彼だもの。
きっとまた、面白いものを見せてくれる。
そんな期待に押されて、私は自然とジルの手を取っていた。




