第10話 皮肉な救い
舞踏会からの帰り道の馬車は、やけに重苦しかった。
ガタガタと車輪が回る音だけが、妙に大きく響いている。
斜め前に座るジルは、いつもの鉄面皮で一言も発さない。
その沈黙に釣られるように、私も窓の外ばかり眺めていたけれど――空気は重い。
……気まずい。ほんとに気まずい。
馬車が出てからどれだけ経ったのか分からない。
それでもジルは真正面を向いたまま、ぴくりとも動かず黙り続けている。
あれ……こういう時って、普通は何を話せばいいんだっけ。
そういえばいつも、さりげなく話題を振ってくれてたのはジルの方だったわね。
黙られて初めて気付くなんて……沈黙すら有能さの証明にしてしまうの、反則でしょ。
「無くして初めて気付くものがある」とか言うけれど、まさかジルの会話力でそれを実感することになるとは思わなかった。
そんなことを考えていたら、不意にジルが口を開いた。
低い声で、ぽつりと呟くように。
「……申し訳ございません。オフィーリア様をこのような脅しに巻き込んでしまったこと」
その手は強く握られ、革手袋に深い皺を刻ませている。
顔は相変わらずの無表情なのに、滲む感情は隠せていない。
……悔しさがこぼれてる。仮面みたいな顔でも、完全には隠し切れないのね。
私は溜息をひとつついて、ようやく声を出す。
「別に……ジルのせいじゃないわ」
ルシアン――あの軽薄な遊び人。
奴は私とジルの関係を見抜いたうえで、それを脅しに使ってきた。
世間にばらされれば、私の人生はまたもや破滅。
……そう、結局のところ。
私の前にはまた新しい破滅フラグが立った、というわけだ。
私は大きく溜息を吐いた。
「……私も、うっかりしてたわ」
馬車の背もたれに体を預けると、ようやく肩の力が抜けていく。
ずっと気を張っていたから、こうして揺れに身を任せるだけで少し救われる気分になる。
「ルシアンはね、学園時代から妙に観察眼が鋭かったの。特に男女の関係を嗅ぎつけるのが得意で……まあ、女たらしの本能ってやつね」
あの場で、何としてもジルをルシアンの視界に入れるべきじゃなかった。
今さら気づいても遅いけれど。
……それにしても、私を庇ったジルの一挙一動から一瞬で“関係”を見抜くなんて、あの遊び人も大概だ。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
ジルが胸に手を当て、熱を込めたまなざしをこちらに向けていた。
低く落とした声には、罪悪感と怒気が入り混じっている。
「……ご安心を。如何なる手を使おうとも、私が必ずこの件を収めてみせます」
その声音には、まるで「ルシアン暗殺プラン」でも頭の中に組み上がっていそうな気配が漂っていた。
……危なっかしいったらありゃしない。
私は慌てて制止するように手を伸ばした。
「待って、ジル。それなら心配いらないわ」
その言葉に、ジルがぴたりと動きを止める。
「あのクソ野郎の欲しいものは分かってるの。だから、私たちの関係を世間にばらすことは絶対にない」
そう――私にとって、ルシアンの脅しなんて効き目ゼロだ。
だって、彼が欲しがっているものは、すでに私の手の中にあるから。
いくら女たらしの脅迫が飛んできても、主導権は常にこっち側。
ジルは心底理解できないといった顔で、じっと私を見つめてきた。
珍しく眉間に皺が寄っていて……ああ、こういう顔をしていると案外、人間っぽいのね。
「まあ、来週あいつの屋敷に行けば分かるわよ。――嫌と言うほどね」
***
ルシアン・フォンタネル。宰相の息子、公爵家の御曹司。
この国で生まれながらに持てるものをほとんど握っている人間だ。
だから屋敷や別荘をいくつも構えていても、誰も驚かない。
私とジルは、その中のひとつに招かれ――いや、正確には脅迫され、応接室へ通された。
そこは、噂で聞いていた女遊びの巣窟とは似ても似つかない空間だった。
壁は生成りに近い落ち着いた色合いでまとめられ、過剰な装飾は一切ない。
窓辺では薄いレースのカーテンが風に揺れ、差し込む光が床の木目を柔らかく照らしている。
置かれた家具も上質ではあるけれど、使い込まれた艶があって妙に居心地がいい。
……女たらしのアジト、というよりはむしろ「静かな隠れ家」そのもの。
あの軽薄男が本当にここに住んでるなんて、信じろという方が無理な話だ。
私はソファに腰を下ろし、その背後にジルが控える。
そして、テーブルを挟んで向かいに座るのは――ルシアン。
派手な服に、胸元や腕にはいくつものアクセサリー。
身じろぎする度に金属が擦れて、ちりちりと小さな音を立てる。
静かな部屋の中で、彼一人だけが喧しい。存在そのものが「派手」なのだ。
「オフィーリア。また会えて嬉しいよ」
軽やかに微笑む声。
私は一瞬だけ目を伏せた。
ここには、もう私たち以外に誰もいない。
舞踏会のように取り繕う必要なんてこれっぽっちも無い。
「私は会いたくなかったわ」
口をついて出たのは、いつもの素の声。
その瞬間、背後のジルの肩が小さく跳ねるのが分かった。
……ええ、分かってる。これが淑女の口調じゃないことくらい。
でも、このクソ野郎には取り繕う必要なんて無いのよ。
私がいつもの口調で話し出した瞬間、ルシアンの目がいやらしく輝いた。
口角を上げて、嬉しそうに目を細める。
「嗚呼、オフィーリア……それだよ。その君が見たかった」
「人のことを偉そうに脅しておいて、よく言えるわね」
私はまるでウジ虫でも睨みつけるように視線を送る。
すると、ルシアンの頬が高揚で赤らみ始め……それがまた気持ち悪い。
軽蔑の意味を込めて、わざと小さく舌打ちしてやった。
「……あんたの望みは分かってるわ。さっさと出しなさい」
「えっ……でも、本当にいいのかい? オフィーリア。執事君の前なのに……」
「はぁ? そもそもあんたが脅迫なんて真似をして、うちの執事を巻き込んだんでしょ。今さら恥じらってる場合?」
「で、でも……オフィーリア。僕、人前は初めてで……出来れば、君と二人きりが……」
もじもじと長髪の先をいじりながら、視線を泳がせるルシアン。
――見てるこっちが恥ずかしい。そしてウザい。
私はその言葉を遮るように、机の上に足を投げ出した。
ルシアンは歓喜で目を輝かせ、ジルは露骨に怪訝そうな顔をしている。
「いいから、さっさと出しなさい。どうせ大したものじゃないんだから」
「嗚呼……苛烈で愛しい僕の女神。君がそう言うなら仕方ないね……じゃあ、準備してくるよ」
そう言って、ルシアンはいそいそと部屋を出て行った。
残されたジルは、状況がまったく飲み込めていない様子で、助けを求めるように私を見つめてくる。
「オフィーリア様。これは一体……」
「いいから。見てれば分かるわよ」
私はそう言い捨てて、紅茶のカップに口を付けた。
渋みの奥に広がる香りを味わいながら、頭に浮かぶのは――学生時代の記憶。
あの頃、私は破滅フラグをへし折るのに必死で、精神を削り取られるような毎日を過ごしていた。
***
上級貴族しか通えないロザリア学院。
ここは、乙女ゲーム『ロザリア・クロニクル』の主な舞台――つまり、私にとっては「破滅ルート製造工場」みたいなものだった。
悪役令嬢オフィーリアとして転生してしまった私は、生き延びるためにひたすら破滅フラグを折り続ける毎日。
それはもう、寝る間も惜しんで好感度調整だの、必要アイテムだの、情報集めだの……。
昨夜なんて一睡もしないで「破滅回避スケジュール」なるものを調整していたくらい。
おかげでまともに頭が回らない。今すぐベッドに潜り込みたい。
そんな廃人モードのまま呼び出されたのは、中庭。
相手は、あの放蕩息子ルシアン。
……好感度、今どれくらいだったかしら。正直、考える気力すらない。
私はベンチに深く腰掛け、ぼんやりと庭を見渡した。
青々とした芝生、整えられた花壇には、季節ごとに入れ替えられた花々が咲き乱れている。
深紅の薔薇、黄金の百合、青紫のデルフィニウム……誰かが絵の具をぶちまけたみたいに派手で、妙にまとまりがいい。
風が運んでくる香りは甘ったるく、鼻の奥に絡みついてくる。
昼下がりなのに庭はやけに静か。噴水の水音と、時折の鳥の羽ばたきしか聞こえない。
――綺麗ね。まあ、忙殺されて景色を味わう暇もなかったから、たまには悪くないわ。
「オフィーリア。待ったかい?」
感傷に浸っていたら、遅れて登場する赤茶髪。
肩まで伸ばした髪をなびかせ、甘ったるい笑みを浮かべる男――ルシアン。
派手に着崩した制服に、胸元のだらしない開き。
これでもかと装飾品を身につけて、動くたびにガチャガチャと音を立てている。
……嗚呼、この見た目、本当に嫌い。ゲームプレイ時から苦手だったのよね。
独りよがりな性格、女を物のように扱う態度。
そのくせ心の拠り所に女を利用しようとする浅ましさ。
何もかもがイライラする。
それでも顔には出さず、私はゆっくり立ち上がって淑女らしく挨拶をした。
「ごきげんよう、ルシアン様。お呼びいただいて光栄ですわ」
――心底さっさと帰りたい。
だから私は首を傾げて、「それで、ご用とは?」と笑みを作る。
ルシアンは「まずは座っておくれ」ともったいぶりながらベンチに腰を下ろした。
私が再び腰を下ろすと、彼は金の縁取りが施された派手な封筒を差し出してきた。赤い蝋で封までしてある。
「実は、君に読んでもらいたいんだ……」
――ああ、はいはい。
受け取った瞬間、心の中でため息をついた。
『ああ……このイベントね』
ルシアン攻略ルートで必ず発生する“スチルイベント”。
差し出された手紙の中身は――ルシアンが綴った、切なくて感動的物語。
ゲームなら、これを読んだ主人公が涙ぐんで「ルシアン様……」とか感動する筋書きだったはず。
たしか発生条件は好感度70%あたり。
もちろんこの世界にステータス画面なんて便利機能はないから、勘でしか測れないけど。
そんなことを頭の隅で計算しながら、私は封を切り、中身に目を走らせる。
……はい、出ました。ゲーム通りの筋書き。
王子が浜辺で人魚に恋をする物語。
言葉を持たない人魚は、歌で心を伝える。
けれど彼女は消えてしまい、王子は歌声の記憶を抱きしめ続ける――。
そしてラストはこうだ。
「僕は君を探し続ける。声が枯れるまで呼び続ける。
海が凍ろうと、心が砕けようと、必ず君に届くと信じて――」
読み終えて顔を上げると、ルシアンがキラキラした目でこちらを見ていた。
「どうだい、オフィーリア。僕が書いた小説なんだけど……」
……顔に「さあ、褒めてくれたまえ」と書いてあるんですけど。
ルシアンはにっこりと甘い笑みを浮かべながら、内心では暖かい拍手喝采を期待しているのが丸見えだった。
――でもね、私の内心は氷点下。
正直言って、くっっっっそつまらない。
これを読むくらいなら、監督が逃げて作画が崩壊した打ち切りアニメを見てた方がまだマシ。
人魚姫を題材にするにしても、もう少しオリジナリティを出せなかったの?
それに、こんなものを唐突に読まされて、どう反応しろっていうのよ。
何で私が、あんたの黒歴史発表会に付き合わなきゃいけないの?!
そういうのは厨二病の時だけにしておきなさいよ!
しかし、喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
……だって相手はゲームの攻略キャラ。
不用意に悪口でも言えば、どこで破滅フラグが立つか分かったものじゃない。
私が脳内の引き出しをひっくり返して、何とか無難な誉め言葉が無いか探していると――ルシアンの手が、私の頬に触れた。
ぞわり、と背筋が凍る。
愛おしげに目を細め、甘ったるい笑みを浮かべた彼は、とんでもないことを言い出した。
「オフィーリア……君の涙で、僕の物語は完成するんだ。さあ、泣いてごらん」
……は? 泣けと?
このクソみたいなシナリオで?
忙しい私をわざわざ呼び出しておいて、チリ紙以下の代物を押しつけておいて、さらに泣けと?
ああ、駄目。もう無理。
その瞬間、私の中でプツンと何かが切れた。
気付けば私は、無意識にその手を振り払っていた。
ルシアンの瞳が驚きで大きく見開かれる。
「……オフィーリア?」
「ふざけないで。このチリ紙製造機」
頭に血が上って、言葉が止まらない。
固まったルシアンの顔が、逆に心地良いくらいだ。
「あんたのゴミ小説より、三流のポンコツ芝居の方がまだ泣けるわ」
同じベンチに座っているのも気持ち悪くなって、私は勢いよく立ち上がった。
見下ろすように睨みつければ、彼の瞳が私を捉える。
「女を人魚に見立てて悦に入ってるみたいだけど……笑わせないで。
あんたみたいな廃棄物は、せいぜい水揚げされた魚の臭いを撒き散らす王子様ごっこがお似合いよ」
吐き捨てるように言って、私は背を向けた。
……終わった。完全に終わった。
これで破滅フラグ一直線、間違いなし。
攻略キャラのスチルイベントを、最悪の形で粉砕した。
――でも、不思議と後悔はない。
生き残るために、こんな男に媚びなきゃいけないのなら……死んだ方がマシ。
怒りで地面を踏み鳴らしながら歩き出した、その時。
背後から追いすがる声が響いた。
「オフィーリア! オフィーリア、待っておくれ!」
聞こえないふりをして歩き続ける。もう話すことなんてない。
「待って! 待ってよ、僕の女神!」
……は? 女神?
ここまで暴言を浴びせられて、まだそんなこと言う?
思わず立ち止まると、追いついたルシアンは頬を赤らめ、熱っぽい視線をこちらに向けてきた。
ほんの数歩しか歩いてないはずなのに、息を荒げて――まるで高揚しているみたいに。
「オフィーリア……僕は……こんなに率直に言葉をくれた女性は初めてだよ」
……あれ? 何か目が輝いてる。いや、むしろ血走ってない?
「僕が書いた詩や小説を見せれば、淑女たちは皆、口を揃えて褒めてくれた。それが当たり前だと思っていたんだ。
僕には才能があると、皆が羨望の眼差しで僕を見ているのだと……」
「……まあ、あんたに才能は無いけどね」
思わず本音が漏れた。
その瞬間、ルシアンは「ぐふっ‼」と呻き声をあげて地面に崩れ落ち、のたうち回る。
「嗚呼、オフィーリア! これだ、これだよ! これこそ僕が待ち望んでいたものだ!
作品という剥き出しの心を、完膚なきまでに罵倒される屈辱感! これこそが僕の求めていた言葉!
君こそ、僕が待ち望んでいた文学の女神!」
……はぁはぁ言いながら頬を紅潮させる姿。
うん、心底気持ち悪い。
「嗚呼、その貶む様な瞳もたまらない! 可憐な乙女にこんな顔をさせるほど、僕の作品は酷かったんだね!
良い!! すごく良いよ、オフィーリア!! 心を踏みにじられるこの感覚! 敗北感が最高に心地良い!」
……最悪。まさかルシアンがこんな種類の変態だったなんて。
私が汚物を見るような顔を向けると、彼はすばやく立膝をついた。
その姿はまるでナイトの叙任式――いや、ただの茶番。
「お願いだ、オフィーリア! これからも僕に君の言葉を授けておくれ!
そのためなら、僕は何でもするよ!」
「ん?……何でも?」
「そうだよ、何でもだ! 君の言葉のためなら、僕は喜んで犬になる!」
完全に目がイッちゃってる。
さっきの罵倒がよほどご褒美だったらしい。
――でも、“何でも”か。
確かに、利用価値はある。こいつを使えば破滅フラグの回避はしやすくなる。
……問題は、そのためにこの変態趣味に付き合わなきゃいけないこと。
私は長いため息を吐いた。
「……分かったわ。ただし、人前では絶対やらないこと。それと、私の性格を他人にバラしたら承知しないから」
「嗚呼、もちろんだよオフィーリア! これは僕と君だけの秘密の花園――大切に育てていこうね!」
「……火炎放射器で焼き払いたくなる様なこと、言わないでくれる?」
舌打ちをすると、ルシアンは歓喜で震えていた。
……本当に気持ち悪い。
けれど皮肉なことに、この変態がいたおかげで――
私の破滅フラグ回避ライフは、ほんの少しだけ楽になったのだった。




