寒椿
椿蒼汰は、売り切れて空になったパンの籠を重ねてカウンター奥へと運ぼうとしていた。
扉を開けたベルの音に反応して、彼が振り向く。
「……ルナ、さん……」
「……こんばんわ」
たったそれだけの簡単な言葉を口にするのに、少し時間がかかった。
彼は抱えていた籠をカウンターの上に置くと、袋を手に私の方へ小走りで近づいて来た。
「この中に、好きなだけ入れてください。……って言っても、もうほとんど売り切れちゃってるんですけど……」
彼の視線の先には、数個のパンが身を寄せ合うように並んでいた。メロンパンとクリームパン。人気商品であろうそれらが多く残ってるということは、本当にあの日交わした約束を、守ってくれていたのだろう。
「なんなら全部持って行っていただいて構いません。この時間だと、お客様もほとんど来られないので」
椿の笑顔は、変わらなかった。暖かくて、優しい。初めて会った時と同じだ。
「じゃあ、これ全部買います」
「え? お代はいいですよ」
「払わせてください」
それがせめてもの償いだった。
「……分かりました」
椿はほんの少しだけ目を伏せてから、小さく頷いた。
彼はパンを一つずつ、丁寧に袋へ詰めていく。カトラリーを食器棚に戻すみゑ子さんの姿と重なった。我が子を見つめるような優しい眼差し。
「……巻き込んで、すみませんでした」
その横顔に向かって、私は頭を下げた。
「やめてください。何もできないくせに、出しゃばった僕が悪いんです。……こちらこそ、お仕事の邪魔をしてしまってすみませんでした」
「いえ。全部私のせいです」
静かな店内に、袋が擦れるかすかな音が響く。
「私が本当は何の仕事をしているのか、聞かないんですか」
「聞いてほしいんですか?」
「……いえ……」
そう答えると、彼は少し笑って言葉を紡いだ。
「妙に、噂好きな人っているじゃないですか。友達に、そういうやつがいるんですけど。そいつが、言ってたんです。この国には、犯罪者だけをターゲットにしている殺し屋が存在するって」
その言葉に、私は一瞬だけ眉を動かす。
「……その友人に言っておいてください。もうその噂は、広めないようにと」
「……分かりました」
少しの沈黙の後、彼は真っ直ぐに私を見て言った。
「……僕、ずっと考えてました。ルナさんのこと。ずっと、会いたかったんです」
ああそうか。一週間前、狼碧の言っていたことは本当だったのか。
「……僕は、どうしたらあなたに近づけますか」
これほどまでに純粋な好意を向けられたのは、初めてかもしれない。
ここ数週間、ずっと胸に引っかかっていた靄が晴れていくのを感じた。
不思議な男だ。人の心を優しくほどく空気を、自然と纏っている。
彼の隣で生きていく誰かは、きっと、ずっと幸せだろう。
「……あなたは、正しく人を幸せにできる人だから。この世界に触れてはいけない。あなたに、拳銃は似合わない」
椿は静かに視線を落とした。
「美味しいパンを、これからも作っていてください」
店員と客。それ以上でもそれ以下でもない。彼の人生と私の人生。たった一度、交差しただけだ。彼の人生に、私は必要ない。
「……そう、ですね」
椿の小さな声が、店内に落ちる。
「お会計、お願いします」
「やっぱり、お代はいりません」
「そういうわけには──」
「いりません。……その代わり、また来てください」
どうしたら、こんなにも綺麗な心で生きられるのだろう。その輝きを、少し羨ましく思う。
「……分かりました。ありがとうございます」
そう返すと、椿は小さく微笑みながら袋を差し出してくれた。それを受け取り、彼に背を向ける。
「……お気をつけて」
背後から聞こえた彼の声に、私は振り返らなかった。
扉を開けると、外の空気がふわりと頬を撫でた。夜の街は静かで、乾いた冬の風が、袋の持ち手をかすかに揺らす。歩くたびに揺れるパンの匂いに、少しだけ足取りが軽くなった気がした。
この世界に、自分がまだ人間でいられる余地がほんのわずかでもあるのなら──きっと、それは彼のような人間がいるからだ。
私は足元を見つめ、そして前を向く。夜の静けさが、やさしく背中を押してくれるようだった。