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六人の殺し屋  作者: 帆高
9/10

寒椿

 椿蒼汰は、売り切れて空になったパンの籠を重ねてカウンター奥へと運ぼうとしていた。

 扉を開けたベルの音に反応して、彼が振り向く。


「……ルナ、さん……」

「……こんばんわ」


 たったそれだけの簡単な言葉を口にするのに、少し時間がかかった。

 彼は抱えていた籠をカウンターの上に置くと、袋を手に私の方へ小走りで近づいて来た。


「この中に、好きなだけ入れてください。……って言っても、もうほとんど売り切れちゃってるんですけど……」


 彼の視線の先には、数個のパンが身を寄せ合うように並んでいた。メロンパンとクリームパン。人気商品であろうそれらが多く残ってるということは、本当にあの日交わした約束を、守ってくれていたのだろう。


「なんなら全部持って行っていただいて構いません。この時間だと、お客様もほとんど来られないので」


 椿の笑顔は、変わらなかった。暖かくて、優しい。初めて会った時と同じだ。


「じゃあ、これ全部買います」

「え? お代はいいですよ」

「払わせてください」


 それがせめてもの償いだった。


「……分かりました」


 椿はほんの少しだけ目を伏せてから、小さく頷いた。

 彼はパンを一つずつ、丁寧に袋へ詰めていく。カトラリーを食器棚に戻すみゑ子さんの姿と重なった。我が子を見つめるような優しい眼差し。


「……巻き込んで、すみませんでした」


 その横顔に向かって、私は頭を下げた。


「やめてください。何もできないくせに、出しゃばった僕が悪いんです。……こちらこそ、お仕事の邪魔をしてしまってすみませんでした」

「いえ。全部私のせいです」


 静かな店内に、袋が擦れるかすかな音が響く。


「私が本当は何の仕事をしているのか、聞かないんですか」

「聞いてほしいんですか?」

「……いえ……」


 そう答えると、彼は少し笑って言葉を紡いだ。


「妙に、噂好きな人っているじゃないですか。友達に、そういうやつがいるんですけど。そいつが、言ってたんです。この国には、犯罪者だけをターゲットにしている殺し屋が存在するって」


 その言葉に、私は一瞬だけ眉を動かす。


「……その友人に言っておいてください。もうその噂は、広めないようにと」

「……分かりました」


 少しの沈黙の後、彼は真っ直ぐに私を見て言った。


「……僕、ずっと考えてました。ルナさんのこと。ずっと、会いたかったんです」


 ああそうか。一週間前、狼碧の言っていたことは本当だったのか。


「……僕は、どうしたらあなたに近づけますか」


 これほどまでに純粋な好意を向けられたのは、初めてかもしれない。

 ここ数週間、ずっと胸に引っかかっていた靄が晴れていくのを感じた。

 不思議な男だ。人の心を優しくほどく空気を、自然と纏っている。

 彼の隣で生きていく誰かは、きっと、ずっと幸せだろう。


「……あなたは、正しく人を幸せにできる人だから。この世界に触れてはいけない。あなたに、拳銃は似合わない」


 椿は静かに視線を落とした。


「美味しいパンを、これからも作っていてください」


 店員と客。それ以上でもそれ以下でもない。彼の人生と私の人生。たった一度、交差しただけだ。彼の人生に、私は必要ない。


「……そう、ですね」


 椿の小さな声が、店内に落ちる。


「お会計、お願いします」

「やっぱり、お代はいりません」

「そういうわけには──」

「いりません。……その代わり、また来てください」


 どうしたら、こんなにも綺麗な心で生きられるのだろう。その輝きを、少し羨ましく思う。


「……分かりました。ありがとうございます」


 そう返すと、椿は小さく微笑みながら袋を差し出してくれた。それを受け取り、彼に背を向ける。


「……お気をつけて」


 背後から聞こえた彼の声に、私は振り返らなかった。

 扉を開けると、外の空気がふわりと頬を撫でた。夜の街は静かで、乾いた冬の風が、袋の持ち手をかすかに揺らす。歩くたびに揺れるパンの匂いに、少しだけ足取りが軽くなった気がした。

 この世界に、自分がまだ人間でいられる余地がほんのわずかでもあるのなら──きっと、それは彼のような人間がいるからだ。


 私は足元を見つめ、そして前を向く。夜の静けさが、やさしく背中を押してくれるようだった。

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