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六人の殺し屋  作者: 帆高
8/10

迷い

 昼に目が覚めてリビングへ下りると、狼碧(ロア)がダイニングで煙草を吸いながらタブレットを操作していた。顔を上げた彼と目が合う。


「おはようございます、ルナさん」

「おはよう」

「昨日遅かったんですね」

「ああ」


 手元のタブレットには、任務の資料が表示されていた。


「今から仕事か」

「はい」


 テーブルの上には、丁寧にラッピングされたひだまりのパンが綺麗に並べられていた。

 この並べ方は、おそらく恭虎がやったのだろう。

 私はフォカッチャを手に取り、狼碧の向かいに腰を下ろした。


「この店のパン、もう飽きたのかと思ってました。最近行ってないですよね」 

「……別に飽きたわけじゃない」

「そうですか」


 あの日から三週間、私は一度もひだまりを訪れていない。あの夜のことは獅央にしか話していなかった。


「まあ、食べたくなったらいつでも言ってください。俺が買いに行くんで、ルナさんはもう行かなくていいですよ」


 狼碧はタブレットに目を向けたまま、静かに呟いた。


「……急になんだ」


 そう問いかけると、彼はゆっくりと顔を上げる。


「あの男の店員、ルナさんのこと狙ってるみたいなんで」


 椿のことを言っているのだということは、すぐに分かった。あの店で、男は彼しか見たことがない。


「勘違いだろ」

「どうですかね。龍河も同じこと言ってましたよ」


 真相はどうでもいい。どうせ、もう会うこともないのだ。

 パン屋の柔らかな明かりの下で見た無垢な笑顔も、真っ直ぐで眩しい眼差しも、もう見ることはない。恐怖に揺れた瞳も、そのうち霞んでいくだろう。


「……あんな平凡な男、ルナさんの隣にはふさわしくない」


 狼碧が呟いたその言葉に、心の奥で何かが小さく引き攣るのを感じた。


「……彼を馬鹿にしているのか」

「してないですよ。ただ事実を言ってるだけです。身の程知らずなんですよ。あんな男が、ルナさんに簡単に触れていいはずがない」

「それ以上侮辱をするな」


 あの夜、怯えながらも中本から私を守ろうとした椿を否定されることが許せなかった。

 感情の読み取れない青い瞳が、じっとこちらを見据える。


「……なんであの男のために、そんなにむきになるんですか」

「…………」


 狼碧は小さく息を吐くと、煙草を灰皿に押し付けた。


「……すみません、詮索するようなことして」


 そう言って立ち上がり、背を向ける。


「ルナさん、最近元気なかったので。急にあの店に行かなくなったのと、何か関係があるんじゃないかと思っただけです」


 彼はもう一度「すみませんでした」と言って部屋を出て行った。やがて、玄関の扉が閉まる音が聞こえた。

 彼は、私と椿の間で何かがあったことに気付いている。他のメンバーも口にしないだけで、もしかしたら何かを感じ取っているのかもしれない。

 私がどれだけ取り繕っても、心の綻びは隠しきれない。椿のことなど、早く忘れなくてはいけない。


 そう言い聞かせるたびに、胸の奥で誰かが「それでいいのか」と囁いてくる。


****


「ルナちゃん、あのパン屋さんにはもう行かないのかい?」


 みゑ子さんは、ホットココアの上に丁寧にホイップクリームを絞りながら問いかけてきた。


「どうして、それを……」

「あの子が言ってたのよ。もう来てくれないかもしれないって」

「彼、ここに来たんですか」

「ええ。……でも、もう来ないわ」


 目の前にカップが置かれる。たっぷりと乗せられたクリームが、わずかに揺れた。


「何があったかは知らないけれど、わざわざ謝りに来たのよ。ここはルナちゃんが安らげる場所だろうから、邪魔したくないから、自分はもう来られないって。……優しい子ね」


 その言葉に、胸が痛んだ。

 暖かい心を持つ彼の世界に、私はひとつの大きな影を落としてしまった。彼の心にも、体にも、私は傷をつけてしまった。

 暖かい心を持つ人間が、理不尽に傷つく世の中であってはならない。だから、この仕事をしているのに。


「あの子からの伝言よ。──メロンパンとクリームパン、たくさん用意してますって」


 雨の中、車内で交わした約束を思い出す。

 彼は、それをずっと律儀に守り続けているのか。──ちゃんと、謝らなくてはいけない。


「行ってあげたら?」


 彼に会う資格が、私にあるのだろうか。

 あの、恐怖に揺れた瞳を思い出す。

 もしまた、あんな顔をさせてしまったら──


「彼は、誠意を持って人と接することができる子よ。それに、人からの誠意を正しく受け取ることもできる」


 顔を上げると、みゑ子さんは穏やかな眼差しを向けていた。


「あなたも優しい子ね。……だから、迷ってしまうのよね」


 カップの中で、クリームが少しずつ熱に溶けていく。甘い香りが胸の奥に苦さにゆっくりと沁み込んでいった。


「……物は迷ったら買わない。物事は迷ったらやる。これ、私のモットーよ」


 みゑ子さんは肩をすくめて小さく微笑むと、新聞を広げて眼鏡をかけた。

 もう何も言うことはない、ということか。

 腕時計を確認すると、ひだまりの閉店まで一時間もなかった。


 私はまた、みゑ子さんの一杯をゆっくり味わうことができないみたいだ。

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