揺れる瞳
雨の中車を走らせていると、明かりが消えたひだまりの前で、椿が空を見上げて立ち尽くしているのが見えた。咄嗟にハンドルを切り、お店の前で車を停めて助手席の窓を開ける。
「え、ルナさん?」
「傘、ないんですか」
「ああ……、ちょっと、忘れちゃって」
彼は苦笑しながら答えた。
「それなら送りますよ」
「え? いや、そんな、悪いですよ」
「この様子じゃ、いつ止むか分かりませんよ」
彼は一瞬戸惑いを見せたが、空を仰いでため息をついた。
「じゃあ……、すみません。お言葉に甘えて……」
椿は「失礼します」と、控えめに助手席のドアを開けると、遠慮がちに腰を下ろした。
「どこまで行けばいいですか?」
「駅までで、大丈夫です」
「分かりました」
私は慎重にアクセルを踏み、静かに車を発進させた。
助手席に誰かを乗せるのはいつぶりだろうか。いつもみんなが運転をしてくれているから、最後に乗せたのが誰だったかすら思い出せない。
「……これ、本物、ですよね……?」
椿の声に視線を向けると、彼はある一点を凝視していた。
──しまった。
慌ててコンソールボックスに置かれた拳銃に手を伸ばすと、彼がぽつりと呟いた。
「触っても、いいですか?」
「え……?」
「あ……、駄目ですよね。すみません」
彼は眉を下げてあからさまに落ち込んだ様子を見せたが、それに構うことなく拳銃をドアポケットに収めた。
「危険なので。すみません」
信号が赤に変わり、車を停める。
「……かっこいいですね、警察って」
私はただ前を見据えたまま、ワイパーが描く弧を目で追った。
「今度、お礼をさせてください」
「お礼?」
眩しすぎるくらいに真っ直ぐな瞳と、視線が交わる。
「ノートを拾っていただいたお礼と、送っていただいたお礼です。ルナさんが好きなパンって、何ですか?」
「……ひだまりのパンは、どれも好きです」
「じゃあ、今度好きなだけ袋に詰めていってください。もちろんお代はいただきません」
「それは、お得ですね」
信号が青に変わり、車を走らせながら私は少しだけ口元を緩めた。
彼の持つ暖かな空気に、任務終わりの凍てついた心が溶けていくのを感じた。
「また、お店行きます」
「はい。ルナさん専用の、大きめの袋を用意しておきますね」
「メロンパンとクリームパンは、絶対に欲しいです」
「たくさん焼いておきます」
そう言って、椿はふっと笑った。
このまま、何も知らずにいてくれたらいい。闇の世界など知らずに、暖かいひだまりの中で優しいパンを焼いているままで。
しばらく車を走らせると人通りが増え、駅の近くに建つショッピングモールが見えてくる。
「北口でいいですか?」
「はい、大丈夫です」
ロータリーに車を停めると、椿は「本当にありがとうございました」と言って深々と頭を下げた。
「いえ。風邪ひかないように気をつけてください」
「はい、ルナさんも気をつけてくださいね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、またお店でお待ちしてます。それじゃ」
ドアが閉まり、椿は雨の中を小走りで駅へと向かって行った。その背中を見送りながら、私は拳銃を手に取る。
──こんな物、彼には似合わない。
****
重低音の効いたビートが床を揺らし、鼓膜の奥をじわじわと震わせる。照明は赤や青のネオンが交互に瞬き、時折フロアを白く切り裂くストロボが、踊る人々の輪郭を一瞬だけ浮かび上がらせる。
天井から吊るされたミラーボールが回るたび、反射した光の粒が壁を滑り落ちていった。
バーカウンターには派手なドレスやスーツをまとった男女が肩を寄せ合い、琥珀色のグラスを手に何かを囁き合っていた。
甘くて鋭いアルコールの匂いと、汗や香水が混ざり合った熱気に頭が痛む。
今夜のターゲット、中本良平はフロアの中心で女の腰に手を回しながら酒をあおっていた。連日このクラブに入り浸り、裏で麻薬の密売を繰り返している男だ。
「……ルナさん?」
カウンターの隅に腰を下ろし、中本と接触する機会を伺っていると、聞き覚えのある声に名を呼ばれた。
視線を向けると、そこにはこの喧騒と毒気に満ちたこの空間に似つかわしくない、純粋無垢な雰囲気を放つ青年が立っていた。
「やっぱりルナさんだ! こんなところで会うなんて奇遇ですね」
──椿蒼汰。なぜ彼がここにいる。
「お一人ですか?」
椿は私の隣に腰を下ろした。明るい声が悪目立ちをする。
「ああ、はい……」
「意外です。こういうところも来られるんですね。僕は友達に連れて来られたんですけど、こういうところ初めてで、なんか疲れちゃって」
まずい。早く彼から距離を取らなければ。
「すみません。私、今仕事中で──」
「ねえねえ、そこのお姉さん」
彼から離れるように立ち上がろうとしたその瞬間。後ろから声をかけられて振り返ると、中本が酒で濁った目をこちらに向けていた。
「この人、彼氏?」
中本は、頭の先からつま先まで値踏みするような視線を椿に向ける。
「いえ、知らない人です」
私は即答した。
少しでも関係があると思われたら、椿が危険に晒されかねない。ここで彼を巻き込むわけにはいかない。
私が返したその言葉に、隣にいる彼が「え……」と小さく声を漏らした。
「そ。じゃあ、ナンパ?」
「僕は、その……」
目を泳がせる椿に中本は鼻で笑うと、私の腰に腕を回した。
「こんな美人、君にはもったいないよ」
中本の酒気を帯びた息が、耳元にかかる。
「ねえこんなやつほっといて俺と飲もうよ。二階のVIPルーム、案内するよ」
そう言われて歩みを進めようとすると、椿が私の左腕を掴んだ。
「はあ? 離せよ」
中本は顔をしかめて椿を睨みつける。
「あ、あなたが……、離してください」
「チッ、なんだお前」
「絶対離しません」
「お前には釣り合わないって言ってんだろ」
「それでも、離しません」
その声は震えており、掴まれた腕からも彼の怯えが痛いほど伝わってきた。
「離してください」
私は彼の手に自分の手を重ね、冷静な声で告げた。
──頼むから、今すぐこの場を離れてくれ。
目で訴えかけるように彼を見つめると、ゆっくりと手の力が緩められた。腕から、彼の熱が消えていく。
「行きましょう」
中本を促すように一歩踏み出すと、彼は「いや」と顎に指をあて、何かを思案するような素振りを見せた。
「……ちょうどいいや。お前も一緒に来い」
ぞっとするような笑みを浮かべながら、彼は椿に視線を向けた。
「待って。私一人じゃ不満ですか?」
私は一歩前に出て中本の視線を引き戻す。
しかし中本は、獲物を見つけた獣のように目を細めた。
「俺もっと楽しいこと思いついちゃった。だから、こいつにも来てもらうよ」
中本は強引に椿の腕を掴み、そのまま引きずるようにして階段を登る。
「ルナさん……」
弱々しく名を呼んだ椿の瞳は、子どものように怯えていた。
「大丈夫です」
そう静かに告げると、彼は唇を噛んで俯いた。
VIPルームは、ガラス越しにフロア全体が見渡せるようになっていた。
下からは一切見えなかったはずだ。マジックミラーか。
「お姉さんは、あそこに座ってて」
中本は中央のソファを顎で指す。私は静かにそこへ腰を下ろした。
「お前はこっち」
そして椿を部屋の隅に置かれた椅子に座らせると、棚から取り出してきた縄で手足を強く縛りつけた。椿の顔が歪む。
どうする。今撃てば、流れ弾が彼に当たるかもしれない。それだけは避けたい。
私は太もものホルスターに手を伸ばし、拳銃を静かに抜き取った。背中に隠して呼吸を整える。
「やめてください! 何するんですか!!」
「うるせえな、暴れんじゃねえ!」
必死に抵抗する椿に、中本は容赦なく拳を振るった。
「……っ!」
鈍い音が響き、椿の口の端から血が流れた。
体が熱くなり、ひどい怒りを覚える。
「そうそう、そうやって黙ってりゃいいんだよ。今からおもしれえもん見せてやるからよ」
中本は、興奮したように息を荒くして髪をかきあげた。嗜虐的な笑みを浮かべながら、こちらへ歩み寄って来る。
「……実は俺、ずっと寝取りプレイしてみたかったんだ」
その目は、すでに正気を失っていた。
「まあ残念ながら彼氏ではないみたいだけど? 君に気があることは確かみたいだから」
「何、する気ですか……」
椿の声が、掠れる。
「この美人が俺に壊されてくとこ、見たくない?」
中本が私の頭を撫で、嘲るように椿に問いかける。
「やめてください……!」
「さ。お注射、しよっか」
「ルナさん逃げて!」
中本はポケットから注射器を取り出し、にやりと口元を歪めた。
「やめろ!!」
椿の叫びが響いたのと同時に、私は中本の脳天を撃ち抜いた。その体が勢いよく床に倒れる。
室内に、静かな沈黙が流れた。アルコールと香水の臭いに、硝煙の臭いが混ざる。
「見ないでください。あなたが見ていいものじゃない」
私は椿に近寄り、きつく結ばれた縄をほどく。
「なん、で……。警察、ですよね……?」
その問いかけに、沈黙を返す。
「ルナさん……」
「ここで見たことは、誰にも話さないでください」
彼の声は、縋るように震えていた。
「答えて、ください……」
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……知ってどうするんですか」
これ以上踏み込めば、後戻りできなくなる。
私がいるこの世界は、椿のような人間が立っていい場所ではない。
「早く行ってください」
椿は俯いたまま、なかなか動こうとしなかった。
「同じ目に遭いたいか」
そう言って拳銃を向けると、彼の喉がヒュッと音を立てた。勢いよく立ち上がり、何度も足をもつれさせながらよろめくように部屋を出て行った。
見られたくなかった。見せるつもりもなかった。
恐怖と戸惑いに揺れるあの瞳が、脳裏に焼きついて離れない。
──もう、彼に会うことはないだろう。