牽制
椿は、ルナが出て行った扉をしばらく見つめていた。
「……あの子に、惹かれているの?」
突然の問いに驚いてみゑ子に顔を向けたが、すぐに手元のカップに視線を落とす。
「あんなに綺麗な人ですから、恋人くらいいますよね……」
「さあ、どうかしら」
「……まだ全然、よく分かってないのに、おかしいって自分でも分かってるんです」
みゑ子は笑いながらカップを拭く手を止めた。
「おかしくなんかないわ。……でもね、ルナちゃんは、ちょっと特別なの。昔から、人に心を許すのが得意じゃなくてね。まるでずっと、何かと戦ってるみたいに生きてきた子だから」
「……」
「あの子を取り巻く空気は、時々鋭くて、冷たい。……遠くて、誰にも触れることができない」
みゑ子は、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「……あなたみたいな子は、少し心配になっちゃうの。優しい子は、あの子の闇を知らずに踏み込むと傷を負うこともある」
昨日、ノートを渡してきた水谷との会話を思い出す。
「蒼ちゃん、あの人のこと気になってるんでしょ?」
「え?! な、なんで分かるの?」
「……見てたら分かるよ」
「そう……。なんか、恥ずかしいな」
「やめたほうがいいと思う」
「え?」
「だって、色んな男の人連れてるんだよ? 絶対おかしいじゃん」
「優、そうやって決めつけるのは良くないよ」
「だって……。なんか、普通じゃない……。怖いよ、あの人」
彼女の目は、今までにないくらい真剣だった。
「ごめんね、嫌な言い方をして」
みゑ子は困ったような笑みを浮かべた。
「……でも、もしかしたらあの子に必要なのは、あなたみたいに真っ直ぐな目をした人かもしれない、って思うこともあるの」
ルナという女性が持つ、静かな哀しみや、言葉にしない距離を、椿は確かに感じていた。けれどそれでも、それだからこそ、彼女の隣にいる未来を想像してしまう。
「……また、会いたいです。ちゃんと、知りたいです。彼女のこと」
その気持ちに、嘘はない。
みゑ子は微笑み、穏やかに目を細めた。
「その時が来たら、ルナちゃんも少しは素直になれるといいね」
静かに流れる音楽と、温かな紅茶の香りの中で、椿はもう一度カップを口に運んだ。
****
「今日は、お一人なんですね」
椿は焼き上がったメロンパンを棚に並べ、カチカチとトングを鳴らしながらパンを選ぶ金髪の男に声をかけた。
彼はルナが連れている男たちの中では、一番気さくな印象を持つ男だった。
「ん? ああ、そうです。今日はみんな仕事なんで」
彼がふわりと笑うと、左耳のピアスがきらりと光った。
「警察の方ってお忙しそうですもんね」
「警察?」
彼は目を丸くして、首を傾げる。
「あ、はい。ルナさんから聞きましたけど……」
一瞬の沈黙が流れる。
「……ああ、そうなんや。びっくりしたわあ。なんで知っとるんかなあって思って。ルナちゃんからいつ聞いたんですか?」
「彼女の行きつけの喫茶店で、たまたまお会いしたんです。その時に」
「へえ」
どこか探るような視線を向けられ、椿は目を逸らす。抱えた籠に残るパンのかけらを、意味もなくトングでかき集めた。
「……お兄さん、ルナちゃんのこと気になっとるんや」
「え?!」
「まあ、ルナちゃんええ女やからしゃあないよなあ」
「あー、いや、その……」
「隠さんでもええよ。好きな女の話する時って、男はだいたい同じ目するんですよね。特にお兄さんはめっちゃ分かりやすいし」
「あ、あはは……。そんな、分かりやすかったですかね」
幼馴染みの優はともかく、初対面のみゑ子にもすぐに見抜かれたことを思い出す。
椿は急に照れくさくなり、頬をかいた。
「でもなあ……、手引いてもらわんと困るわ」
「え……?」
一瞬で、男の纏う空気が変わった。
「彼女、俺の女やから」
低くなった声共に、鋭く冷えた瞳に射抜かれる。その凍りつくような視線に、椿は息を呑んだ。冷たい汗が背筋を伝う。
「あ、あの、すみません……! そうですよね。ごめんなさい、気を悪くさせてしまって」
必死に謝ると、彼は、ふっと笑った。
「冗談や冗談。ちょっと意地悪言うてもうたわあ、ごめんな」
「え、ええ……」
先ほどの冷たさが嘘のように、彼は大きな口を開けて笑った。思わず情けない声が漏れる。
「まあでも……、悪いこと言わんから、ルナちゃんだけはやめとき。お兄さんが手に負えるような人やないですよ」
彼はメロンパンを二つ取り、トレイに乗せる。
「あの人のために、迷わず死ねます? その覚悟がないなら、忘れたほうがええですよ」
ああ、これは冗談ではないのだと、椿は確信した。
「お会計、お願いします」
みゑ子も、目の前にいるこの男も、自分の知らない本当の彼女を知っている。そして、ルナという女に惹かれた自分を、簡単には許してくれない。
「ありがとうございました」
「おおきに。また来ます〜」
扉のベルの音だけが、虚しく店内に残った。