ひだまり
──椿蒼汰。
綺麗な文字で名前が書かれた小さなノートを拾った。中にはパンのレシピが丁寧に書かれている。
椿という名には見覚えがあった。
最近丘の下に新しくできたパン屋“ひだまり”の店員だ。
龍河に誘われて初めて訪れて以来、すっかりそこの味に魅了された私たち六人は、週に二回は通うようになっていた。
「持ち主、このお店の人かな」
そして今まさに、恭虎と共にそこを訪れている。
お店の駐輪場に落ちていたから、間違いなくあの椿という店員の物だろう。初日に瞳を輝かせておすすめの商品を教えてくれたので、よく覚えている。
「椿って人、多分知ってる」
「そっか。じゃあ届けてあげよう」
お店の扉を開けると、小さなベルの音が頭上で控えめに鳴った。焼きたてのパンの香りがふわりと鼻をくすぐり、暖かい香りに包まれる。
「いらっしゃいませ」
カウンターに立っていたのは椿蒼汰ではなく、小柄で丸い目元が印象的な可愛らしい雰囲気の女性店員だった。
歳は彼よりも少し下に見える。大学生くらいだろうか。
彼女も何度か見かけたことのある店員の一人だった。ネームプレートには水谷と記されている。
「これ、駐輪場で拾いました。椿さんってここの店員さんですよね」
そう言ってノートを差し出すと、彼女は一瞬驚いた顔をしてから恐る恐るノートを受け取った。
「……ありがとうございます。蒼ちゃんに、渡しておきます」
「お願いします」
彼女はノートの裏表示に記された“椿蒼汰”の文字を、指先で優しく撫でた。
「渡せてよかったね」
「ああ」
恭虎と並んで商品を選んでいると、背後から刺すような視線を感じた。
──興味と、警戒。そして、少しの軽蔑。
五人の男を代わる代わるに連れて来店しているのだから、勘違いをされても仕方がない。彼女の目には、私が何股もしている女に見えているのだろう。
会計をしている間も、ちらりとこちらを見上げた視線には、静かな警戒が宿っていた。
店を出ると外の空気は湿っていて、かすかに雨の匂いがした。
「もしかして、なんか勘違いされてる?」
車に乗り込むと、恭虎が呟く。
「だろうな。まあ、勝手に思わせておけばいい」
所詮店員と客だ。わざわざ誤解を解く必要もなければ、そんな機会が訪れることもないだろう。
「ルナがいいならいいけど。必要な時が来たら言ってね」
「ありがとう」
恭虎はエンジンをかけると、ゆっくりと車を走らせた。
ふと、椿蒼汰の顔が浮かんだ。
彼には、私はどんな女に見えているのだろう。あの無邪気な青年の瞳に、私はどう映っているのだろうか。水谷という店員と同じように、澄んだ瞳の奥で、私を軽蔑しているのだろうか。
そんな思考を断ち切るように、ぽつりと雨粒がフロントガラスに落ちた。やがてそれは静かなリズムを刻み始める。
──この妙な胸騒ぎは、きっと気のせいだ。
****
柔らかいジャズが流れる薄暗い店内。天井のファンはゆったりと回っている。物心ついた頃から親に連れられてよく来ている昔馴染みの喫茶店。
カウンターでは、髪をうっすらとピンク色に染めたみゑ子さんが、カトラリーを引き出しに収めていく。まるで、「ここがあなたたちのお家よ」と語りかけるような、優しい手つきだった。
彼女も随分と手の皺が増えた。一つ一つの動作も、記憶の中の彼女よりもゆっくりになっている。
任務帰りにふらりと立ち寄るたびに、「ルナちゃん今日も綺麗だねえ」と声をかけてくれる。
笑った時に目尻できる皺が、彼女の歩んできた人生と、底知れぬ優しさを表しているようで好きだった。
──カラン。
ドアにつけられたベルが鳴る。ひだまりのものとはまた違う、深い味わいのある音が店内に広がった。
反射的に音の方向へ目を向けると、そこに立っていたのは見覚えのある青年だった。
昨日拾ったノートの持ち主、椿蒼汰だ。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」
みゑ子さんの穏やかな声に、彼は少し表情を緩めて店内を見回した。
目が合うと、彼もこちらに気が付いたようだった。驚いたように目を丸くした彼は、すぐにこちらへ向かって歩いてきた。
「あの、昨日。ノート、届けてくださいましたよね……?」
「ああ、はい」
「本当にありがとうございました……! 大事なノートだったので、助かりました」
「いえ、よかったです」
「あら、知り合い?」
カウンターの中から、みゑ子さんは微笑みを向けていた。
「よく行くパン屋の店員さん」
「まあ、そうなの」
みゑ子さんが嬉しそうに笑うと、椿は照れくさそうに頬をかきながら「隣、いいですか?」と椅子の背もたれに手をかける。
「……どうぞ」
彼は私の返事に安堵したように「すみません」と言い、慎重に椅子を引いて腰を下ろした。
「ここ、よく来られるんですか?」
「まあ」
「それ、何ですか?」
椿は私のカップを指差す。
「アッサム」
「じゃあ、僕もそれにしようかな。すみません、アッサムティーを一つお願いします」
「アッサムね。ちょっと待っててくださいね」
「ありがとうございます」
彼は、みゑ子さんに小さく頭を下げた。
店員という肩書きが無くとも、普段から礼儀正しい性格なのだろう。
「こういう時は、常連さんと同じものを頼むのが鉄則なんです」
そう言って彼は人差し指を立てて、得意げに笑った。相変わらず無邪気な顔だった。
「別に、いつもアッサムなわけじゃないですよ」
「え、そうなんですか?」
「ここのは、どれも美味しいから」
「へえ、それは来てよかったです」
椿は店内をゆっくりと見回す。温かな木目と、柔らかい照明のせいか、声のトーンまで穏やかになる。
「ここ、ずっと気になってたお店なんです。でも、外から店内の様子があまり見られないから、ちょっと勇気が出なくて……」
彼の視線が扉の方へ向かう。
木製の扉に小さなガラス窓があるだけで、中の様子はほとんど外に伝わらない。この暗さが、私がこの店を好む理由の一つでもあった。
「煙草、吸われるんですね」
椿は、ふわりと立ち上る煙に視線を落としながら言った。
「すみません」
「あ、大丈夫です!」
咄嗟に火を消そうとすると、慌てた様子で制止される。
「むしろ……、なんかかっこいいなって思って」
「かっこいい?」
「はい。煙草吸う姿がこんなに様になってる人なかなかいないですよ。あ、かっこいいと言えば、一緒にお店に来てくださる方も、皆さんかっこいいですよね。いつもびっくりしちゃいます。同僚の方、とかですか?」
首を傾げた椿の瞳に、水谷のような鋭さは含まれていなかった。
「そう、ですね」
「どんなお仕事をされてるんですか?」
「どんな……」
「はい、どうぞ。アッサムね」
返答に迷っていると、運ばれてきた紅茶が視線をさらう。
「あ、ありがとうございます」
「この子はね、悪い人をやっつけるお仕事をしているんですよ」
みゑ子さんが何気ない調子で言う。
真実は伝えず、嘘はつかない。みゑ子さんらしい言い方だと思った。
「悪い人を、やっつける……。もしかして、警察の方ですか?!」
「ああ、まあ」
「すごい!」
私の曖昧な返事など全く気にすることなく、椿は瞳を輝かせた。
「だから皆さん、あんなに雰囲気があるんですね。どこか張り詰めた空気というか、オーラがあるというか」
「……そうですか」
「警察かあ。かっこいいですね!」
真っ直ぐな言葉。闇の世界を知らない、明るい世界でしか生きられない人間だ。
「そういえば、お名前、なんていうんですか?」
椿はカップを両手で包みながら、思い出したように尋ねてくる。
「……ルナ」
「ルナさん……」
彼はその響きを確かめるように繰り返し、柔らかく笑った。
「漢字はどうやって書くんですか?」
「カタカナです。母がイタリア人なので」
「わあ、そうなんですね。ルナってイタリア語では──」
その瞬間、ポケットに入れたスマートフォンが音を立てた。画面には獅央の名が表示されている。「すみません」と声をかけて、応答ボタンを押す。
「もしもし」
『ルナ、今どこにいる?』
「いつもの喫茶店」
『悪いが明日急な任務が入った。打ち合わせをしたいから、すぐに帰って来てくれないか』
「分かった。すぐ行く」
もう少しゆっくりと味わいたかった気持ちを押し殺して、残りの紅茶を飲み干す。
「すみません。急用が入ったので、帰ります」
「そうなんですね……。よかったら、またお店来てください」
「はい。みゑ子さん、お釣りいらないから。ご馳走様でした」
椿に軽く会釈をして立ち上がり、カウンターの奥で座っていたみゑ子さんに声をかけてテーブルにお金を置く。
「いつもごめんね。気をつけてね」
「ありがとう。また来ます」
外の空気はすでに夜の冷たさを纏っていた。椿の純粋な暖かい眼差しが、頭をよぎる。
それをかき消すように、私はバイクのエンジンをかけた。