憎い男
突然、黒い闇に飲み込まれそうになる時がある。気を抜くとあっという間に足を取られ、そこから抜け出せなくなる。
──息が、苦しい。
「……くそ」
あのドレスを着た日から、どうも調子がおかしい。結局捨てられないまま、クローゼットの奥で眠っている。
手を握っては開き、また握る。意識的にゆっくりと深呼吸を繰り返す。
──大丈夫、大丈夫。
自分に言い聞かせるように何度も心の中で唱えて、何とか自分を引き戻す。
「ルナ?」
煙草を吸おうとベランダに出ると、琳凰が隣から顔を覗かせた。
「起きてたのか」
「うん」
彼は視線を伏せたまま、しばらく黙り込んだ。
「……どうした?」
「……そっち、行っていい?」
風で揺れる葉音にかき消されそうなくらい、小さく、か細い声だった。
「ああ、鍵開いてる」
そう返すと彼はすぐに顔を引っ込め、やがて窓を閉める音が聞こえた。
扉まで迎えに行くと、彼は両腕いっぱいにお菓子を抱えて立っていた。いつもと変わらない、まるで子どもが宝物を抱えているかのようなその姿に、思わずふっと力が抜けた。
「まだ寝ない?」
「まあ、そうだな」
「深夜の、お菓子パーティー」
「……ふっ、するか」
琳凰らしい提案に笑みがこぼれた。眠れないのは彼も同じだったらしい。
「ありがと」
彼はソファに腰を下ろすと、嬉しそうにローテーブルの上へお菓子を広げていく。袋が擦れる音が、静かな部屋にささやかに響く。
「眠れなかったのか?」
「うん。嫌な夢、みた」
「嫌な夢?」
「みんな、いなくなる夢。僕、一人になった」
彼はそう言って少しだけ肩を落とした。
「それは、嫌な夢だな」
「でも、ルナいて、安心した」
琳凰は少し表情を和らげて、チョコビスケットを口に運ぶ。
「ルナも、眠れなかったの?」
「まあ、そうだな」
咀嚼音がやけに大きく聞こえた。
「……時々、漠然とした不安に襲われることがある」
「不安?」
「怖くなるんだ。……自分が何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか、分からなくなる」
普段は口にしない本音が琳凰の前だと簡単に言えてしまうは、きっと彼の持つ飾らない空気のせいだ。
「生きていても、いずれ大切な人たちは死んでいく。それならいっそ、自分が先に死んでしまいたいとも思う」
「……もし、ルナが一人なったらどうする?」
「──死ぬよ」
迷わず口を出た言葉に、琳凰は眉をひそめて僅かに俯いた。
「一人で生きる意味なんて、それこそないだろ」
「……僕は、ルナには生きててほしいって思う。……けど、それが、ルナを苦しめるなら、一緒にいたい。たぶん、みんな同じ気持ち」
割れ物に触るかのように、彼は慎重に言葉を紡いだ。
「それなら、安心してみんなの後を追えるな」
そう笑ってみせたものの、最後の一人になるなんて未来は想像もしたくなかった。
人の死には慣れている。数えきれないほどの人間を、この手で葬ってきた。それでも、大切な人の死など、到底受け入れられない。
「僕たち、仲良いよね」
「そうだな、いいチームだ」
琳凰は目尻を下げて、煙草の箱に手を伸ばした。
「煙草って、美味しいの?」
「琳凰は美味しく感じないと思う」
「二十歳なら問題ないよね」
「そうだな」
「吸ってみたい」
「やめとけ」
「なんで」
「なんでも」
「やだ」
彼はぎこちなく箱を開けて、煙草を一本取り出した。
こうなっては何を言っても聞かないだろう。
ため息をついて、仕方なくライターを手に取る。
「咥えろ」
煙草を咥える彼を見るのは新鮮だった。
「火近づけたら、軽く吸え」
彼は盛大にむせた。
「最初の煙は吐き出すんだ」
「先に言ってよ」
「悪い」
涙目で睨みつけてくる彼が子どものようで、思わず口角が上がった。
「少しずつにしろ。軽く口に含んで、口から息を吸って、肺に送る」
彼は、先ほどよりもひどくむせた。
「なにこれ……っ、全然美味しくない……」
「最初はそんなもんだ。一箱吸い終わる頃には慣れる」
「お菓子の方が美味しい」
「だろうな」
「でも、狼碧が任務終わりの煙草が一番美味いって言ってた」
「それは、そうだ」
琳凰は俯いて、ぽつりと呟く。
「羨ましい。みんなでそういう時間、共有できるの」
「龍河だって普段は吸ってないだろ」
「全然吸えないのとは違うじゃん。お酒も飲めないし、僕だけ子ども」
「琳凰はそのままでいい」
そう言うと彼は唇を尖らせる。寂しそうに煙が上がる煙草を、彼はじっと睨んでいた。そして、もう一度挑戦し、案の定またむせた。
「もうやめとけ。こっちが悪いことしてる気分になる」
「でもこれ、もったいない」
「私が吸うからいい」
彼は素直に煙草を差し出すと、すぐにテーブルの上のマシュマロに手を伸ばした。
そっちの方が、ずっと似合っていると思った。
「これ、新作。今日発売日だった」
「いつも食べてるやつか」
「うん。いつものは、中にチョコが入ってるんだけど、これはキャラメルクリームなの」
「美味しいか?」
「うん。恭虎が買い出しに行った時に、買ってきてくれた」
「よかったな」
「恭虎って優しいよね。怒ると怖いけど」
「滅多に怒らない分、迫力がある」
「うん。でもね、いつも、誰かのために怒るから、やっぱり優しいなって思う」
「そうだな」
たわいない会話に、胸にこびりついていた冷たい影が、少しずつ和らいでいくのを感じた。
「ルナはさ、結婚するなら誰がいい?」
「結婚?」
思いがけない質問に、思わず目を見開く。
「うん。チームの中で、結婚するなら誰?」
「考えたことないな」
「ルナって好きな人いないの?」
琳凰の無邪気な視線から、思わず目を逸らす。
「あ、いるんだ。誰?」
何かを察したのか、彼は随分とこの話題に興味を持ったらしい。
頭の中に、一人の男が現れる。水色のドレスをくれた、憎い男。
「……本当に好きになった人は、いたよ」
「いつ?」
琳凰がそっと問い返す声に、私は遠い記憶を手繰った。
「出会ったのは、まだ五歳の頃だった。十二年くらい、一緒にいたな。家族よりも長い時間を過ごしていたと思う」
「その人とは、付き合ってないの?」
「ああ。六歳年上だったからな。あの頃の六歳差は大きいだろ」
「確かに……。その人、どんな人?」
顔も、声も、仕草も、全てを鮮明に思い出すことができる。少し癖のある黒髪も、健康的に焼けた肌も、大きな手のひらも、広い背中も。彼は、私の全てだった。
「いつも強気で荒っぽくて、でも、実は誰よりも繊細な人だった。彼からは、本当に色んなことを教わった。人の殺し方も、人との関わり方も、幸せも、絶望も。……この人と、普通に生きられたらと、何度も考えていた」
「……獅央も知ってる人?」
「ああ。高校生の頃、三人でチームを組んでいたからな」
「そうなんだ。その人は、今何してるの?」
「……分からない。どこで何をしているのか、生きているのかも、分からない」
そう口にした瞬間、胸に鈍い痛みが広がった。
中学生の頃、同級生たちの話題はいつも恋愛のことばかりだった。彼女たちと一緒になって盛り上がることはなかったが、私もまた、同じようにその世界に強く惹かれていた。
告白してみたら付き合えた、よく知らないけど告白されたから好きになっちゃった。
そんな風に楽しげに話す同級生たちを、少し羨ましく思っていた時期だった。
「なんで陽彦は、この仕事してるの」
任務が終わった帰り道、彼のバイクの後ろに乗せられて夜の街を駆け抜けた。少し遠回りをした彼は、夜景が見える小さな公園の駐車場でバイクを止めた。そこは、彼のお気に入りの場所だった。
私はバイクに跨ったまま、煙草を吸う彼の横顔に問いかけた。
少し自暴自棄になっていたんだと思う。先ほど殺した男の手の感触が、まだ私の太ももに残っていた。
「親がやってたから。それだけだ」
陽彦の境遇は私と似ていた。両親が共に殺し屋で、生まれた瞬間から私たちの人生は決まっていた。
「嫌に、ならないの」
そう問いかけると、彼はゆっくりと煙を吐き出した後に少し間を置いて言った。
「……なんでそんなこと聞くんだよ」
私は視線を落とした。太ももに残る感触が、消えてくれない。
──気持ち悪い。
「……悪かったな」
「……」
「相手がロリコン野郎だったから、お前が適任だった」
「……知ってる」
「情報を聞き出すためには、ああするしかなかった」
「知ってる」
「ボスの命令は絶対だ」
「知ってる……! 全部、知ってる。……分かってる」
喉の奥が熱くなった。次第にその熱は顔へと上り、視界がぼやけ始める。
陽彦は煙草を携帯用の灰皿へ捨てると、私の頬に優しく手を添えた。指先はひんやりとしていたが、触れられたところが一気に熱をもつ。
「俺が殺す。お前に触れたやつは全員、俺が殺してやる」
涙を拭う彼の手からは、かすかに煙草の香りがした。彼の瞳は吸い込まれそうなほど強く、真剣なものだった。
「陽彦……」
「なんだ?」
私の小さな声を、彼は聞き逃さなかった。今までに一度だって、彼は私の呼びかけに答えなかったことはない。いつも、優しく反応してくれる彼の声が好きだった。
「……陽彦と一緒に、普通に暮らしたい。二人だけで、遠い所へ行きたい」
空気が、かすかに揺れたのを感じた。
頬を撫でていた指先の動きが止まり、彼の瞳に戸惑いの色が浮かぶ。少しの沈黙の後、彼は私の頭をそっと撫でた。
「……ルナ。普通の人間は、人を殺さねえんだよ。もう俺たちは、普通には生きられねえ」
ずるいと思った。普通に暮らすことだけを否定して、私の気持ちには触れない彼が、ひどく憎かった。
──いっそこの男を、今ここで殺してしまおうか。そして、私もすぐに後を追う。そうすれば、全ての苦しみから解放される。
「お前、変なこと考えんなよ」
「え……?」
「人殺す時の目してんだよ。俺にそんな顔するなんて、お前も偉くなったもんだな」
「……してない」
「いーや、してたね」
彼は私の額を指先で──とん、と軽く突いた。
「お前にそんなことはさせねえよ。仲間を殺した女になんか、絶対させねえ。そもそも、俺がお前に殺られるわけねえだろ」
「そんなの、やってみなきゃ分からない」
「うるせえな、口答えすんな」
私は、セーラー服のスカートの下に隠したホルスターから銃を抜き取った。しかし、それを彼に向けるより早く彼の手が私の手首を掴み、あっという間に銃を奪われる。冷たい銃口が、私の首筋に押し当てられた。
「──お前が俺を殺すより先に、俺がお前を殺す。そんで俺も後追って死んでやるよ。……一緒に地獄に堕ちようぜ」
心臓が、どくりと音を立てた。それもいいかと、思った。
どうせ死ぬなら、愛する人の手で殺されたい。
「ルナ」
優しく名を呼ぶその声が、ひどく私を誘惑した。
──陽彦に、殺してほしい。
「……パンツ見えてんぞ」
「……っ」
昔からこの男のこういうところが嫌いだ。冷たく突き放したかと思えば、優しく引き寄せて、掴みかけたその手をするりとほどく。
私は舌打ちをして彼を睨みつけた。
「もっと可愛い反応できねえのかよ」
「殺す」
「お前この状況でよく言えたな。まあ安心しろ。ガキのなんか見たって欲情しねえよ」
「絶対殺す」
「はいはい。怖い怖い」
そう言って彼は楽しそうに笑っていたが、その目の奥には、確かに別の色が宿っていた。
彼もまた、苦しみの最中にいたのだと思う。誰にも見せないように、一人で、深く沈んでいた。そしてその弱さに触れることを、彼は決して許さなかった。
「ルナ?」
「……っ」
琳凰の声で、意識が一気に現実に引き戻される。
「……なんだ?」
「このチョコレート、美味しいよって」
「ああ、ごめん。貰うよ」
そう言うと、琳凰は手のひらに七個ほどのチョコレートを乗せてくれる。
「こんなにたくさん?」
「うん、甘いもの食べたら元気になるよ」
自分の機嫌の取り方を知っている彼を、少し羨ましく思った。
「ありがとう」
「うん」
やはり何かを察したのか、琳凰はもう何も聞いてこなかった。
今夜は、随分と彼に助けられたな。
今度お菓子の詰め合わせをプレゼントしようと、心に決めた夜だった。