約束
「御影が気付いた。こっちに来る」
『早かったな。何かあったらすぐに言え』
「了解」
車で待機をする獅央にインカムで短く状況を伝える。
私は一人で会場に残り、再度御影に接触するタイミングを見計らっていた。しかし獅央が離れて数分後、早々に向こうから来てくれるとは運がいい。
「奥様、パーティーは楽しまれていますか?」
「あなたは先ほどの。パーティーは……、ええ、まあ」
曖昧な表情をつくって目を伏せると、御影はわざとらしく辺りを見回した。
「旦那様はどちらへ?」
「急な仕事が入ったみたいで、置いていかれてしまいました」
「なんと。せっかくのパーティーなのに」
「もう慣れてるからいいんです。でも、今夜くらいは一緒にいて欲しかったな……」
ずっと御影からの視線には気付いていた。まさか夫が妻を置いて帰ったなどとは、想像もしていなかったはずだ。夫に置いて行かれた可哀想な妻。この男にとっては絶好のチャンス。逃すはずがない。
「あの、私で良ければご一緒しても?」
──かかった。
「いいんですか?」
「もちろんです。何か飲まれますか?お取りして来ますよ」
「いえ。その……、会場の雰囲気に少し疲れてしまって……。どこか2人きりでお話しできる場所がいいのですが……」
「……でしたら、今夜泊まる予定で部屋をとっているんです。そこにしましょう」
「お邪魔じゃないですか?」
「はい。行きましょうか」
私は慣れた笑顔を貼り付けて礼を言い、御影に続いて会場を後にした。
****
「何かルームサービスを頼みましょうか?」
最上階のスイートルーム。大きな窓ガラスの先には東京の夜景が広がっていた。
ふとガラスに反射した自分の姿が目に入る。
なぜもっと早くクローゼットの中を確認しなかったのだろう。
自分の行いを悔いていると「どうされました?」と問われて我に返る。──適当に油断させてさっさと帰ろう。
「……実は今日、結婚記念日だったんです」
「え?」
「なのに夫に置いていかれてしまって、私寂しくて……」
「奥様……」
「あの……、私を慰めてくれませんか……?」
そう言って見つめると、御影はごくりと喉を鳴らす。だが、すぐににやりと口元を緩め、期待に満ちた表情で「もちろんです」と腕を広げた。
なんて滑稽な姿なのだろう。
私は素早くバッグから拳銃を取り出し、御影の脳天を目掛けて引き金を引いた。
呆気なく床に倒れたそれの表情は、醜く情けないものだった。
****
帰宅して早々にドレスを脱ぎ捨て、ウッドデッキに出る。
冷たい空気と一緒に吸う煙草は美味しい。やはり、ここが一番落ち着く。
不規則に揺れるプールの水面を眺めるのが好きだ。夜空を見上げ、月や星を観察するのが好きだ。風に揺れる葉音や鳥のさえずり、虫の声を聞くのが好きだ。たまに背中から聞こえてくる生活音に、安心する。
「さむ」
冷たい風が頬を撫でる。思わず肩を窄めたのと同時に、窓を開ける音が聞こえた。
「風邪引くぞ」
「獅央……」
「これ使え」
「ありがとう」
ブランケットを肩へ掛けてくれた彼は、いつもと同じように隣に座って煙草に火をつける。
私の火を消す音と、獅央の息を吐く音が重なった。
「あのドレス、もうお前には似合わないな」
「……どういう意味」
珍しく棘を含んだ言葉を向ける獅央に違和感を覚える。
私は真っ直ぐに彼を見て答えを待ったが、彼は目を伏せたまましばらく沈黙した。まるで、何か発言することを躊躇っているように。
「獅央?」
呼びかけると彼は何か決心したように息を吸って、こちらを見る。
「──陽彦さんを、思い出すんだろ」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。数年ぶりに聞くその名前に胸の奥が冷たくなるような感覚が走り、思わず目を逸らす。
「あの人を思い出して辛くなるくらいなら、あのドレスはない方がいいんじゃないのか。……これからも、あれを見るたびにお前があんな顔をするのかと思うと、俺は耐えられない」
「あんな顔……?」
「朝から何度も悲しそうな顔をしていた。今までも、そうだったのか」
──今までも。
クローゼットの隅にかけられていたとはいえ、目につかないはずがなかった。そのたびに、悲しみと怒りの針が同時に心を深く突き刺してくるような、そんな感覚がしていた。
「あの人のことで傷つくお前を、俺はもう見たくない」
いくら辛くても、苦しくても、あのドレスは私にとって大切な物で、捨てるなどとは微塵も考えたことがなかった。
ふと、自分の薬指にはめられたリングが目に入る。
すっかり外し忘れていたな。
沈黙が続き、返す言葉もタイミングも見つけられずにいると、獅央が口を開く。
「……悪い。余計なことを言いすぎた」
彼は煙草の火を消すと私の前へ来て跪き、優しく左手を取った。撫でるようにリングを触る親指が、妙にくすぐったい。
「今度、新しいドレスを買いに行こう」
「ドレスなら他にも──」
「たくさん買おう。あれを忘れるくらい、たくさん買おう」
彼は私の言葉を遮り、ゆっくりと瞬きをしながら顔を上げた。
「俺に選ばせてくれないか? 今のお前に似合うドレスを、俺が選びたい」
「……」
「駄目か?」
甘い空気を纏って余裕な笑みを浮かべるこの男は、私が断らないことを確信している。あるいは、断っても強制的に選ぶつもりだろう。
「……気に入らなかったら着ない」
小さな反抗心でそう答えると、彼は小さく笑った。
「──上等だ」
彼はリングに優しく口づけた。
私はこの男に、一生敵わない。