水色のドレス
夜風を感じながらウッドデッキで煙草を吸う。庭のプールに向けて置かれたラタン調の黒いガーデンチェアセットは、私が購入したものだ。間に置かれたガラステーブルには灰皿が置かれており、この家の屋外喫煙所になっている。私のお気に入りの場所だ。
夜はだいぶ涼しくなった。最後に蝉の鳴き声を聞いたのはいつだっただろうか。秋はもうすぐそこらしい。
ふいに窓を開ける音がして視線を向けると、獅央がタブレットを手にしてこちらへ向かってきた。
「ルナ、次のターゲットの資料だ。目を通しておけ」
そう言ってタブレットを手渡すと、隣に腰掛け煙草に火をつける。
白い煙が闇に溶け込んでいった。
画面には口髭を生やした男の顔写真と、その男のプロフィールが映し出されていた。
「今回のターゲットは御影重吾。自動車メーカー御影の社長だ。土曜日、依頼主が主催するパーティーに御影が参加することになっている。会場のホテルが今回の仕事場だ」
御影自動車といえば、日本トップクラスの自動車メーカーだ。プロフィールに目を通していると、気になる文字が目に入る。
「性癖、人妻好き?」
「ああ。今までに複数人、既婚の女性社員を対象に金を払って強制的に行為に及んでいたらしい。応じなければ会社をクビにする、と脅された被害者もいるそうだ」
「それはうちに依頼して正解だ」
私たちが所属している組織が依頼を受ける条件はただ一つ。それは──ターゲットが犯罪者であること。「逮捕するより殺してほしい」と願う人間がうちに依頼に来るのだ。
「そこで今回、俺たちはその性癖を利用して夫婦としてパーティーに参加する」
「夫婦?」
「ああ。まず二人で御影に近づき、夫婦だと認識させる。その後にルナが一人で接触し、御影が当日予約しているホテルの部屋に誘導させてから実行してほしい」
「分かった。……夫婦設定は初めてだな」
「そうだな」
「まあ、夫が獅央なら安心だ」
獅央は一瞬動きを止めてこちらに顔を向けると「どういう意味だ」と問いかけてきた。
「付き合いが長い分ボロが出にくいだろ」
「ああ……、そういうことか」
「どういうことだ?」
「なんでもない。……そうだ」
獅央は何か思い出したように呟くと、ポケットからベルベット調の小さな箱を取り出して「開けてみろ」と手渡してきた。
不思議に思いながらも応じると、数個のダイヤモンドが装飾された可愛らしいシルバーのリングが入っていた。
「結婚指輪だ」
「……もう少しロマンチックに渡そうとは思わないのか」
「偽りでロマンチックにされる方が嫌だろ」
とはいえ本当にそういう日が来るとも思えないが。
早速リングケースから取り出し、左手の薬指にはめてみる。
「ぴったりだな」
「怖い」
「お前が寝てる時に測った」
「部屋に入ったのか?」
「昨日リビングのソファで寝落ちしてただろ。その時にボスからこの依頼がおりてきて、ちょうどいいから測っただけだ」
「……昨日?」
「ああ」
「今朝、私は自分の部屋で起きたはずだ」
疑いの目を向けると、獅央は煙草を口にくわえて薬指にリングをはめていた。
「……入ったな」
「運んでやったんだ。前から思っていたが、あんなところで寝て他の奴らに襲われたらどうする。お前は無防備すぎる」
「誰が襲うんだ」
「知るか」
「そんな人間この家にはいない」
「ああそうだな──いたら俺が殺す」
その殺気に思わず息を呑んだ。
この男は昔からそうだ。普段は一切出さないそれを、ふとした瞬間に恐ろしいほどに感じることがある。
「……気をつけるから、そんな怖い顔するな」
「……悪かった。俺はもう寝る。風邪ひくなよ」
「ああ、おやすみ」
獅央は煙草の火を消して立ち上がると「おやすみ」と背を向けた。
****
任務当日、クローゼットの扉を開けた瞬間に血の気が引いた。
何着かあったはずのドレスが一着しかない。
……しまった。まとめてクリーニングに出していたのをすっかり忘れていた。
クローゼットの隅には、淡い水色のドレスがぽつんとかけられている。最後に着たのはもう何年も前だ。
クリーニング屋に取りに行く時間も、店に買いに行く時間もない。つまり、これを着る以外の選択肢はない。
「はあ……」
仕方なく諦めてドレスを手に取ると、一気に懐かしさが胸にこみ上げてきた。
高校の入学祝いで“彼”がプレゼントしてくれたドレス。しかし、“彼”がいなくなってからは一度も着ていなかった。
「ルナ、そろそろ準備できたか」
「あ、ああ。今行く」
扉越しに獅央の声が聞こえて慌てて返事をする。私は急いでドレスを着用して部屋の扉を開けた。
今は無駄なことを考えている暇などない。感傷に浸っている場合ではない。任務に集中しなければならない。
そう自分に言い聞かせながらリビングへ下りる。ソファに座って待っていた獅央は、私を見るなり目を丸くした。
「ルナ……、そのドレス」
「お待たせ。行こう」
この動揺を、できるだけ悟られたくなかった。
獅央は何か言いたげな顔をしていたが、私は気付かないふりをして玄関へ向かった。
****
「あれが御影重吾だ」
「なんだ、あのジャケット」
獅央の視線の先には、金色のスパンコールがギラギラと光るジャケットを羽織った御影がいた。
一目でなんともいえない趣味の悪さが窺える。
「見失いにくくて良い。ほら、行くぞ」
獅央は私の腰を抱いて歩き出した。
真っ赤なカーペット、豪華なシャンデリア、煌びやかな装いの人々。話し声や笑い声、視線の中に、嫉妬や憎悪、羨望などの様々な感情をピリピリと感じる。
パーティーには今まで何度も潜入してきたが、いつまで経ってもこの空気には慣れない。
そして、今日は特に落ち着かない。このドレスのせいなのだろうか。
呼吸を整えるように静かに深呼吸をすると、腰を抱く獅央の腕に少し力がこもった気がした。
気を引き締めて御影に意識を集中させる。獅央の合図で御影に近づき、わざと躓いて腕に触れる。
近くで見る金色のスパンコールは目が痛くなりそうだった。
「おい!」
「すみません……! 躓いてしまって。大丈夫でしたか……?」
「あ、ああ……、大丈夫だよ。そちらこそお怪我は?」「私は大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした……」
御影は一瞬怒りを露わにしたが、相手が女だと分かるとあからさまに態度を急変させた。その浅ましさに腹が立つ。
「私の妻が大変失礼をいたしました」
少し離れて待機をしていた獅央が隣に並んで謝罪をすると、御影は分かりやすく“妻”というワードに反応した。瞬時にお互いの左手薬指にはめられたリングを確認すると、僅かに口角が上がったのが分かった。
「いえいえ、お気になさらず。お怪我がなくてなによりです。今日は、ご夫婦でご参加を?」
「ええ、そうです」
「そうですか。綺麗な奥様とご一緒とは羨ましい限りですな」
「ありがとうございます。私も自慢の妻です。まあ、少し不注意な所はありますが……」
「あははは、そのくらいが可愛いものですよ。今夜はお互いにパーティーを楽しみましょう」
「ありがとうございます。では、失礼いたします」
獅央に続いて「失礼します」と軽く会釈をしてその場を離れる。
後ろから食い入るような視線を感じた。手応えはある。
私たちはバルコニーへ移動し、会場全体が見渡せることを確認してから煙草に火をつけた。
「そのドレスのせいか」
「え?」
突然の問いに反射的に獅央を見上げる。彼はちらりとこちらに視線を向けたが、すぐに会場内へと視線を戻した。
「いつもより落ち着かないように見える」
やはり、気付かれていたのか。この男相手に、私の動揺を隠せるわけなどなかった。さっき、腰を抱く腕に力がこもった気がしたのは勘違いではなかったらしい。
「“あの人”から貰ったやつだろ。どうしてそれにしたんだ」
「……これしか、なかった。他のはクリーニングに出してて、忘れていた」
「そうか」
呆れられただろうか。たかがドレス一つで動揺しているのかと。まだ何年も前のことを引きずっているのかと。
「ルナ」
顔を上げられずにいると、頬に手が添えられ先ほどより優しい声で名前を呼ばれる。見上げると真っ直ぐな目に捕えられた。その目があまりにも強く澄んでいて、周りの音が遮断される。
「安心しろ。俺がついてる」
甘く掠れた低い声が、静かに響いた。
そうだ。獅央はこうしていつも私を支えてくれる。欲しい時に欲しい言葉をくれる。その鋭い目の奥にある大きな優しさで、私を包み込んでくれる。
「……ありがとう」
「ああ」
御影は相変わらずだらしなく笑っていた。