穏やかな休日
昼下がりの柔らかな光が差し込むカフェには、若い女性客たちの笑い声が絶えず響いている。
苺のショートケーキを口に運んだナナさんは、幸せそうにふわりと目を細めて笑った。
こんなにもころころと表情を変える人間は、今まで身近にはいなかった。新鮮だ。
「ところでルナちゃん。獅央とはいつ結婚するの?」
あまりにも唐突なその問いに、レアチーズケーキに入れかけていたフォークが中途半端に止まる。
「……あの、獅央とはそんな関係じゃありません」
「それは分かってるわ。でもあなたたち、どう考えてもお互いがいないと成立しないじゃない。少なくとも獅央は、ルナちゃんがいなきゃとっくに死んでるわ。一年前に久しぶりに会った時、昔とは全っ然雰囲気が違ってあたし本当にびっくりしたの。あたしの知ってる獅央は、“この世界で信用できるのは自分だけだ”って顔してて、いつも死に急いでるような男だったわ。呆れるほどモテてたけど、纏う空気がとにかく冷たくて誰も獅央には近づこうとしなかった」
確かに──獅央に会ったばかりの頃、私は彼のことを“死んだように生きている男だ”と思っていた。あからさまに拒絶をする私に対して何も言わず、表情ひとつ変えなかった。この男には感情というものが存在しないのだと、本気で思っていたくらいだ。
彼は、常に特異な存在感を放っていた。学校でもかなり目立っていたと思う。他校の生徒が、彼を一目見るためだけに校門で待ち伏せをしていたこともあった。
彼は自ら身の上話をすることはなかったが、陽彦が問いかければ不思議となんでも素直に答えた。私は必要最低限の会話しかしなかった。陽彦はそれをひどく嫌った。必要以上に気を遣わせてしまっていることに、申し訳ない気持ちはあった。それでも私は、いきなり現れた彼の存在を簡単には受け入れられなかった。
「ルナちゃんに会って変わったのよ。守るものができた人間の強さと優しさは、本当に美しいわ」
そう言ってナナさんは柔らかく目を細めた。窓から差し込む光を受けて、ルビーの指輪が赤く煌めく。
真っ直ぐに人のことを褒め、他人の痛みに自然と涙を流すことができる。そんな彼女に触れていると、自分の中に沈んだ暗い感情が妙に浮き彫りになるような気がしてしまう。私とは違う明るいオーラを纏う彼女に、心の闇というものは存在するのだろうか。
「あの……ナナさんって人を嫌いになること、あるんですか」
「あら。なに? 急に」
「すみません。なんとなく、気になって」
「普通にあるわよ、そんなこと」
意外にも、彼女は何の迷いも濁りもない声で即答した。
「特にデリカシーのないやつは大っ嫌い。たまにいるじゃない? 平気な顔して人を傷つける奴。『気にしたら負け』とか、『相手にするだけ無駄』とかよく聞くけど、傷つけられてる方が我慢するのはおかしいと思うの。だからそういう奴には『謝って』って言うようにしてる。大抵『冗談だった』とか『悪気はなかった』とか言われるんだけど、たとえそうだったとしてもあたしは絶対に許さない。だって、相手を傷つけたことに変わりはないでしょ?」
──相手を傷つけたことに変わりはない。
その言葉に、ふと高校時代の記憶が蘇る。あれは私が高校に入学し、獅央がチームに加わってから三ヶ月ほど経った頃だった。
「ルナちゃん、一緒に帰ろ」
廊下を歩いていると、一人の男子生徒に話しかけられた。最近、執拗に声をかけてくる一つ上の先輩。委員会で一緒になったことをきっかけに、こうして頻繁に誘ってくるようになった。
「すみません。急いでるので」
「また獅央と帰んの?」
そう言って男は一歩前に出て、私の前に立ち塞がった。
「周りには親戚だって言ってるみたいだけど、どうせ嘘でしょ? ねえ知ってる? あいつ、裏で相当遊んでるらしいよ。クラブに出入りして、いつも違う女連れて歩いてるんだって」
馬鹿馬鹿しい。同じ屋根の下で暮らしているのだ。あの男が、夜に任務以外で外出しているところなんて見たことがない。
「知らないです」
「あんな奴やめて俺にしなよ」
「別に付き合ってないですし、好きでもないです」
「じゃあ、俺でいいじゃん」
支離滅裂な理屈だ。これ以上この男と関わっても、時間を無駄にするだけだ。
無視して男の左側へ抜けようと一歩踏み出すと、手首を乱暴に掴まれた。
「俺、ルナちゃんのことずっと好きだったんだよ。俺と付き合ってよ」
「お断りします」
「なんで? 俺委員会でめっちゃ助けてあげたよね? あー、もしかして特定の男つくるとか無理な感じ? 色んな男とやりまくってるって噂、本当だったんだ」
胸の奥が、ぐつりと音を立てる。
中学の時もそうだった。私が三股をしていると、根も葉もない噂が知らない間に広まっていた。
学校生活に期待などしていない。友達と呼べる相手もいない。それでも、私なりに平穏な生活を守ってきたつもりだった。陽彦と獅央との関係性を問われた時には、親戚だと言い張った。入学してたったの三ヶ月。目立つようなことも、クラスの輪を掻き乱すようなこともしていない。なのに、なぜそんなくだらないことで話題にされなければならない。
「俺と付き合えば、そんなの全部デマだったって言ってあげるよ」
「離してください」
「嫌だ」
手を振り解こうと腕に力を込めると、男は焦ったように握りを強めた。爪が皮膚に食い込む。
「いい加減に──」
「ルナ」
突然低い声で名前を呼ばれて視線を向けると、そこには獅央が立っていた。
「陽彦さんが待ってる。さっさと帰るぞ」
彼は男に視線を向けることなく、無表情のまま私に告げた。
「……邪魔すんなよお前」
それが癪に障ったのか、男は苛立ちを隠すことなく怒りに震える声で呟いた。
獅央の冷えた視線が、男を射抜く。
「どうせお前らもやってんだろ。たまに迎えに来るあの男とも、どうせやりまくってんだろ? なあ、なら俺にもやらせろよ──この淫乱女」
男の血走った目が、こちらへ向けられる。
もう、慣れている。こういう扱いも、言葉も。その度に、私の中の何かがすり減っていくこの感覚にも。訂正したところで、彼の中の“都合の良いストーリー”が書き換わることはない。
再び離すように言おうと息を吸った瞬間──獅央の手が、勢いよく男の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけたことを抜かすな。謝れ」
彼の放つ殺気が、放課後の賑やかな空気を一瞬にして凍りつかせる。
「ちょ……い……いや、冗談だって。だからそんなまじになんなよ」
「冗談だろうと彼女を傷つけたことに変わりはない。今すぐ謝れ」
──この出来事をきっかけに、私は少しずつ獅央に心を開くようになっていった。感情なんてまるでないと思っていた彼が、他人のことであんなにも怒りを露わにするとは思っていなかった。
「その顔は、心当たりあるって感じ?」
ナナさんの声に顔を上げると、彼女はどこか嬉しそうに微笑んでいた。
「なんか偉そうに語っちゃったけど、全部獅央が教えてくれたの。心の奥底にある優しさは、今と同じだった。だから、あたしが強くなれたのは獅央のおかげ。あんなに薄情に見えるのに人のために怒れるなんて、ほんっといい男よね」
自分の“好き”を貫き通してきた彼女は、私が想像もつかないほどの棘のある言葉を浴びてきたのかもしれない。きっと彼女も獅央に救われ、自分もそうあろうと、そうあるべきだと、強くなったのだ。
「ま、残念ながらルナちゃんには別の想い人がいるみたいだけど?」
「……え?」
悪戯めいた笑みを浮かべながら放たれた言葉に、胸の奥がかすかに波打つ。
──どうして、彼女がそれを。
「……誰から聞いたんですか?」
「さあ、誰だったかしら」
彼女は小さく首を傾げ、ケーキに乗せられた苺を口に運ぶ。
恭虎と琳凰にはそれとなく話したことはあるが、二人は前にナナさんが家に来た時が初対面だった。そんな彼らが話すとは考えにくい。琳凰に関してはまともに会話すらしてなかった。そうなると、おそらく獅央だろう。二人の間で、一体どういう経緯で陽彦の話になったのだろうか。彼女は、どこまで知っているのだろう。
ふと隣に座る男女の仲睦まじい笑い声が耳に入る。お互いを慈しむように見つめ、手を重ねる。
彼らは、怖くないのだろうか。何かを愛するということは、相手との別れが約束されているということでもある。陽彦がいなくなったあの日から、私はそれがたまらなく怖くなってしまった。世界からひとつ色が抜け落ちてしまったような喪失感が、今も胸の奥に沈んでいる。
「ねえ、ルナちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げると、温かい視線が注がれた。
「過去に何があったのかは知らないけど、ルナちゃんが今よりちょっとでも幸せになれるお手伝いができるなら、あたしはなんだってするわ。だってあなたは──あたしの大切な友達の、大切な人だから」
どうして彼女は、出会ったばかりの私にこんなにも真っ直ぐな優しさを向けてくれるのだろう。
「……ありがとうございます」
「うん。あ、もちろんルナちゃんもあたしの大切な友達よ。この前知り合ったばっかだけどね」
「嬉しいです」
「あたしも嬉しい。ねえ、今度会う時今日買ったリップつけてきてね。絶対似合うから。あの家の男たちは気づいてくれるかしらね〜」
くすりと笑うナナさんの赤い髪が、窓から差し込む柔らかな光を受けてきらりと光る。毛先まで丁寧に手入れされたその赤は、彼女の強さと優しさを象徴しているように思えた。
「……ナナさん。隣駅に、気になってた喫茶店があるんです……良ければ、今度一緒に行ってくれませんか」
「え! もちろん。行こ行こ!」
勇気を出した誘いに、彼女はとびきりの笑顔で応えてくれた。
ケーキは少し溶けていたが、淡い甘さが口いっぱいに広がった。それは私の胸の奥まで温めてくれるような、優しい味だった。




