赤髪の彼女
玄関の扉を開けると、見慣れない靴が目に入った。
──赤い、ピンヒール。
知り合いにこういったものを履く人間はいただろうか。
ふとリビングの方から、明るい話し声が聞こえてきた。少し警戒しながらリビングの扉を開けると、見知らぬ赤髪の女性が獅央と並んでソファに座っていた。奥に座る獅央と目が合うと、女性は勢いよくこちらに顔を向け、ぱっと顔を輝かせる。
「もしかしてあなたがルナちゃん?! やだー! あたしずーっと会いたかったの!」
満面の笑みと共に駆け寄ってきた彼女に両肩をがっしりと掴まれ、その気迫と力強さに思わず一歩後ずさる。
「ああ、驚かせてごめんね。あたし、七星。獅央とはアメリカにいた時に知り合ったの。気軽にナナって呼んでね」
「……ルナ、です」
差し出された手は大きく、指先まで丁寧に手入れされていた。赤いネイル。身長は私より頭一つ分高い。
「噂通り絶世の美女ね、獅央!」
彼女が獅央の方へ振り向くと艶のある髪が揺れ、ふわりと石鹸のような香りが鼻をかすめた。
「あまりルナを困らせるな」
獅央は淡々と彼女を制しながら、ゆっくりと立ち上がり一人用のソファへ移る。
「はあい。ほら、ルナちゃんもはやくこっち座って」
興奮した様子の彼女に有無を言わさぬ力で腕を取られ、私は強制的にソファへ座らせられた。
「これは、どういう……」
獅央に状況説明を求めると、彼はテーブルの上のタブレットを手に取った。
「ボスからルナ指名の任務が下りてきた。今回は特例で、こいつと一緒に仕事をしてもらう」
隣に座る七星さんは、にこにこと楽しそうに微笑んでいる。獅央がタブレットを操作すると、壁に取り付けられた大型テレビに一人の男の顔写真が映し出された。
「ターゲットは福村智成。表向きは国際的な投資家で慈善事業家の肩書きも持っているが、裏ではマネーロンダリングや人身売買の常習犯だ」
映し出された男はスーツを着て端正な顔立ちをしているが、その目には冷たい光が宿っていた。
「二人には、この男が参加するオークション会場に潜入してもらいたい」
「オークション?」
思わず聞き返すと、獅央は画面を横にスライドさせて新たな資料を映し出した。
手枷をつけられ、美しいドレスを身に纏った女性たち。それに歪んだ笑みを向けるスーツに身を包んだ大勢の観客。吐き気を催すような光景だった。
「通称──奴隷オークション。福村は気に入った人間がいれば、毎回必ず落札している。どんなに高額になろうとな」
「……わざわざ潜入する理由は?」
「福村は常に護衛を二人つけて生活をしているほど、用心深い男だ。だが、そんな男が唯一護衛を遠ざけるタイミングがある。それが、オークションの夜だ。買った人間を控え室に呼び、必ず二人きりになる。ルナには商品として、ナナにはスタッフとして潜入してもらいたい」
「ルナとナナって、なんか響き似てない? あたしたち、いいコンビになれそう」
「……でも、どうして七星さんが?」
「ナナ」
彼女に食い気味に訂正され、私は一拍遅れて言い直す。
「……どうして、ナナさんが?」
「売られる側もスタッフも、全員女性なんですって。それに一人で潜入なんて危ないからね」
そう言って彼女は長い足を組み替えた。
「オークション当日はバイヤーとして俺も潜入するが、何かあってもすぐには助けられない可能性が高い。こいつを近くに置いた方が、危険が少ない」
獅央は彼女を余程信頼しているらしい。相当な腕利きなのだろうか。とは言え、ナナさんも女だ。
心の奥で呟いた言葉が通じたのか、彼女は私に向かって自分の二の腕をぱんっと叩いてみせた。
「力なら心配しないで。あたし、筋肉量だけは男だから」
そう言って彼女は、ぱちりとウインクをした。
「……でも、もし福村に選ばれなかったら?」
「その時はナナに動いてもらうから問題ない。それにお前なら大丈夫だ──必ず福村に選ばれる」
こちらを真っ直ぐと見据える獅央の目に、迷いや不安は一切感じられなかった。
「心配しないで。あたしもついてるから。必ずあなたを守ってみせるわ」
ナナさんに先ほどまでの明るい調子はなく、優しく冷静に、重く言葉を発した。
正直、気乗りしない。福村を殺すだけなら何も考えずに引き受けられた。だが今回は、“商品”である彼女たちを近くで見なければならない。様々な理由で、様々な苦しみを抱える彼女たちのそばにいなければならない。私は、それに耐えられるだろうか。
「ボスからの指名とはいえ、お前が嫌がることはしない。断るか?」
獅央の言葉に落とした視線を上げると、真剣な表情をした二人と目が合う。ナナさんの力強い眼差しに、彼女もこの世界のプロなのだと実感した。
「……問題ない。必ず遂行させる」
この二人と一緒なら、大丈夫だ。
私は、静かに覚悟を決めた。
****
「ルナちゃん、大丈夫?」
「はい」
舞台袖で問いかけてきたナナさんに、私は淡々とした声で答えた。
三日前。私は商品として、ナナさんはスタッフとして収容施設に潜入した。そこでは様々な検査や試験、それに応じたランク分けが行われた。
泣き叫ぶ者、怒り狂ったように暴れる者、全てを諦めた者。それぞれが、それぞれの絶望を抱えていた。
「でも、すごく気分が悪いです」
「そうね。この三日間、何度も吐きそうになったわ」
中には、小さな子どももたくさんいた。泣き疲れて眠るその横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。今までに、一体どれだけの人間がこうして売り出されてきたのだろう。
「本日最後の商品は、このオークション史上最高の美貌と知性を兼ね備えた一級品です!」
大袈裟なほどの熱量に満ちた司会の声とは対照的に、ナナさんはいつもより少し低い声で静かに呟いた。
「……さあ、出番よ」
私はそれに頷きを返して前を向いた。息を整えて一歩踏み出すと、ヒールの音が静まり返った会場に響く。
脚に絡みつくドレスの布地が重い。
ホルターネックの黒いドレスは、素材のきらめきとその形の美しさで観客の視線を奪う仕立てだった。まるで芸術品のように繊細で、皮肉なことに“商品”として舞台に立つには申し分なかった。
ステージの中央まで進み、立ち止まって前を向く。天井のライトが私の姿を照らすと、ざわりと会場の空気が波打ったのが分かった。薄暗い客席の奥に幾つもの目が光り、見定めるような視線が全身を舐めるように這う。
ただ真っ直ぐ、正面を見つめた。
観客席の中央、足を組んで薄く笑いながら私を品定めする男──福村智成。
そしてその後方、ワイングラスを手にした獅央と視線が交わった。真っ黒なスーツに身を包み、品のいいバイヤーになりきった彼が、静かに目を細めてこちらを見つめている。
その刹那、喉の奥がきゅっと詰まった。
「こちら五百万からのスタートです。希望価格のある方は札をお上げください」
「六百」
「六百五十」
「七百」
「一千」
「一千五百」
「──待て」
次々と声が飛び交う中福村の声が響き、一瞬で会場が静まり返る。
「ドレスを脱いでくれないか」
誰かが、息を呑む気配がした。異を唱える者はいない。運営側が止める気配もない。ここに立つ者に、尊厳などない。
熱を帯びた視線が、一斉に集まる。押し殺された興奮が、皮膚をなぞるように伝わってくる。
私は怒りを押し殺し、腰のファスナーに手を伸ばした。手首に付けられた枷が音を立てる。首元のリボンを解くと、ドレスはするりと滑り落ちて足元に広がった。
ナナさんは、舞台袖で拳を握りしめて俯いていた。
羞恥はない。これで任務が果たせるのなら、大したことではない。
獅央はただ静かに、福村に鋭い視線を向けていた。
会場全体を包む空気が、熱を帯びていく。
「一億」
福村の声が静寂を切り裂く。その口元には、薄く笑みが浮かべられていた。
「一億が出ました! さあ、一億です。他にご希望の方はいらっしゃいますか?」
司会が興奮を抑えきれない様子で会場を見回すが、誰も札を上げる者はいなかった。
「オークション史上最高金額、一億円での落札です!」
自分につけられた値段が、どこか遠くに、他人事のように聞こえた。




