隠匿
「美味しかったね」
そう言って隣で微笑む恭虎に、私は頷きを返す。
私たちは今、都内屈指の夜景が見られると話題のフレンチレストランに来ていた。
店内の照明は落とされ、テーブルごとに小さなキャンドルが灯されている。その柔らかな光が、白いクロスに影を落とし、グラスやカトラリーに煌めきを与えていた。
「お肉はもちろんだけど、このソースが特に美味しかった。今度家で作ってみようかな」
うちのシェフは口にしただけで調味料の種類や配合、隠し味に使われているものまである程度分かってしまうらしい。このステーキを家で食べられる日が来るかもしれないという期待に胸を膨らませ、視線を前に向ける。
全面ガラスの向こうには、無数の光が散りばめられていた。信号の点滅、看板のネオン、窓から漏れる明かり。車のテールランプが高層ビルの間を縫う。
ただ、人間が活動しているだけの光に過ぎない。この光のせいで、空に瞬くべき星が霞んでしまうのだと思うと寂しささえ感じる。
なぜ人は、こんなものに美しさを感じるのだろう。
私は意識を切り替えるようにゆっくりと瞬きをして、ガラスにぼんやりと反射した男女に意識を集中させた。
「奥さん、だいぶ恨んでるんだろうね。不倫デート中に、女の目の前で旦那を殺してほしい、なんて」
隣を見ると、恭虎も私と同じように二人に視線を注いでいた。
私たちの後ろの席で女と仲睦まじく寄り添い、手を重ねて談笑をしているこの男こそが、今夜のターゲットである。一流のIT企業に勤めながらも、裏では個人情報の売買をしている。
そして結婚二年目にして、職場の十歳年下の女と不倫。都内でこんな堂々とデートをしていればバレるのも当然だ。
「女の恨みは怖いからな」
「そうだね」
恭虎は微笑みながら、自身の胸ポケットに軽く手を添えた。
「この薬も、久しぶりに使うよ」
──体内から毒が検出されない薬。
保険金を貰いたいから遺体は残してほしい、という依頼主の要望に応えるためこの薬を使うことになった。
「あと三分か」
今夜、この近くで冬の花火大会が開催される。このレストランから見える花火は絶景らしい。客たちが花火に目を奪われている間に、ターゲットのグラスにこの薬を落とす。
薬は瞬時に溶け、飲めば数十秒で死に至る。依頼料が一気に跳ね上がるため、滅多に使うことはない。
「食事をゆっくり楽しめなかったのが残念だけど」
「また、来ればいい」
「その時はみんなで来たいね。今度はコースにしよう」
「ああ。帰ったら飲み直すか」
「いいね」
恭虎はさらりと微笑むと、グラスに口をつける。その所作は、しなやかで美しかった。
その時──最初の花火が夜空を割り、店内に小さな歓声が広がる。
「じゃあ、行こうか」
彼が差し出した手に、私は自分の手を重ねて立ち上がった。
会計を済ませて店を出ようとした瞬間、背後で女の悲鳴が聞こえた。けれど私たちは振り返ることなく、ただ静かに店を後にした。
****
リビングのソファに腰を下ろし、ガラス越しに夜空を見上げる。遠くから花火の音がかすかに聞こえた。
「ルナ」
後ろから恭虎に名を呼ばれて振り返ると、彼はワインボトルとグラスを手にして立っていた。
「ボスから貰ったワイン、開けちゃおっか」
「ああ」
赤い液体が、ゆっくりと注がれいく。光に反射して、真紅の波が揺れた。
「お疲れ様」
「お疲れ」
グラスの縁が軽く触れ合う音が、静かな部屋に小さく響いた。
「月、綺麗だね。星もよく見える」
「ああ」
それは先ほどのレストランで見た夜景よりも、ずっと美しかった。
「──あなたを、愛しています」
恭虎がふと囁いたその言葉に、体がかすかに震えた。
「夏目漱石の話、知ってる?“I love you”を“月が綺麗ですね”って訳した話」
「……知ってる……覚えてる」
「話したことあったっけ?」
「いや……昔、私にそれを教えてくれた人がいた」
あの日は、雲ひとつない空にくっきりと三日月が浮かんでいた。高校の入学式の日だった。
陽彦の提案で、入学祝いと称して当時すんでいた家のバルコニーでささやかなパーティーをしていた。パーティーとは名ばかりで、テーブルに並んだのはスーパーで買った惣菜ばかりだったと思う──
「友達になれそうなやつ、いたか?」
「いない」
缶ビールを片手にゆるい口調で問いかけてきた陽彦に、私は短い返事をする。下校してすぐに任務に向かうため、校門にバイクで迎えに来た陽彦のせいで痛いほどの視線を浴びた。
「……そうか。学校にいる時くらい、普通の女の子でいていいんだぞ。少しくらい青春したって、バチは当たんねえだろ」
何人もの人間を手にかけておいて、今更普通になんて生きられるわけがない。
「嫌なことしてくる奴いたらすぐ言えよ。俺が殺してやる」
軽く笑いながらそう言う陽彦に、私は少しだけ眉をひそめた。
「犯罪者以外は、殺せないんじゃないの」
「いじめは立派な犯罪だろ。一人の人間の人生、壊してんだからな。……それに、傷つけられたのがお前なら尚更だ。そんだけで、殺す理由なんて十分だろ」
その言葉に、胸の奥が静かにざわつく。
「……まあ獅央も同じ学校だし、大丈夫だろ」
「獅央って、誰だっけ」
「はあ? 今月から俺たちのチームに加わる奴だよ。ほら、アメリカ帰りの。今度の土曜日、ここに引っ越してくるって言ったろ」
「ああ……名前、忘れてた」
正直、気に入らなかった。中学の三年間、ずっと陽彦と二人でやってきた。今更新しい仲間なんていらない。
二人の空気が染み付いたこの家に、知らない人間の匂いが混ざることが、許せなかった。
「お前の一個上だとよ。噂じゃ、相当なイケメンらしい」
「興味ない」
彼はため息混じりに首を振った。
「お前なあ……頼むからギスギスすんのはやめてくれよ。ただでさえ思春期のガキ二人抱えるっつうだけで、こっちは憂鬱なんだからな」
私が知ったことではない。そもそも、私になんの断りもなく勝手に増員を決めたのは陽彦だ。その男と何かあれば、全部彼の責任にすると前から決めていた。
「腹一杯になったか?」
「うん」
「なら良かった」
「ありがとう」
「おう。明日から頑張れよ」
「……うん」
気が重い。強制的に小さな檻に閉じ込められるあの空間は、吐き気がする。右に倣えと、集団行動を強いられ、それに反抗した者から順番に後ろ指を指される。
明日からまた始まる息苦しい日々を思い、私は空を見上げた。そこには、静かに光り輝く月が浮かんでいた。
「陽彦。月、綺麗」
呟いた私に、陽彦はちらと視線を寄越す。
「何だ、俺に告ってんのか」
「は?」
突拍子もない返答に、思わず首を傾げる。
「お前知らねえの。“月が綺麗ですね”ってのは“あなたを愛しています”って意味にもなんだぞ」
「知らない」
「どっかの文豪が、“I love you”をそうやって訳したんだとさ」
「へえ」
「まあ、意味わかんねえよな。そんなんで伝わったら苦労しねえよ」
陽彦は空に浮かぶ三日月に目をやりながら、缶ビールの残りを喉に流し込む。
「……陽彦なら、なんて訳す?」
私はその横顔に、静かに問いかけた。
「そうだな……」
陽彦が、空を仰ぐ。それをじっと見つめて、私は返答を待った。
「俺と、一緒に──」
彼の柔らかい癖っ毛が、風に揺れた。
「……やっぱ思いつかねえわ。文豪の後に言うとか、ハードル高すぎんだろ」
彼はそう言って、缶ビールをもう一本開けた。
「別に、文豪超えろとか言ってない」
「じゃあ、ルナならどうすんだよ」
“愛してる”以外で、この張り裂けそうなほどの想いを言葉にするなら。
「──あなたになら、殺されてもいい」
陽彦のまつ毛が、わずかに揺れた。
「……重いな、お前」
「……冗談」
「いいんじゃねえか。……俺は好きだ」
驚くほど、優しい声だった。
それが妙にくすぐったくて、隠すように私は月にスマートフォンを向けた。
この月を、忘れたくなかった。いつも見ているはずのそれが、今日はどうしようもなく輝いて見えた。
「撮って何になるんだ」
「別に」
「自分の目で見んのが一番だろ」
「写真があれば、忘れない」
「写真ばっか撮ってっから忘れんだよ。綺麗なもん見ても、撮ることに集中してたらそれしか記憶に残んねえだろ」
陽彦はテーブルに置かれた煙草を手に取り、火をつける。ライターの淡い光が、その横顔を照らした。
「まあ、俺がプロのカメラマンなら話は別だけどな。残念ながら俺には実物以上のもんは残せねえから、目に焼き付けんのと一緒に、そん時に感じたことを大切にしたい」
彼の吐いた煙が、月にかかった。
「空気、音、匂い、誰と見たか、その人はどんな顔をしてたか、体温はどんなだったか。俺は全部、自分の記憶に腐るほど刻み込みたい」
「腐ったら、駄目でしょ」
「……そうだな」
陽彦はふっと笑うと、私の手を取り優しく触れた。その手のひらから、痺れるほどの熱が伝わってくる。
私はその熱に縋るように、指先をゆっくりと絡めた。それに応えるように、陽彦が握り返してくれる。
指の皮の厚みまで伝わってくるようだった。私の手とはまるで違う、大きな骨ばった指に、浮き上がった血管。
「……冷たいな」
その囁きとともに、彼の手に力がこもる。徐々にその強さは増していき、血が止まりそうなほどだった。
彼の瞳からは、光が失われていた。
「──簡単に、折れそうだ」
指先が、どくどくと脈打つのを感じた。
「……痛い」
私がそう告げると、彼ははっとしたようにその手を離す。
「悪い」
「……どうしたの」
「何でもない。風邪引く前に部屋入んぞ」
「嫌だ」
「駄目だ。ほら、片付けは俺がやっとくから、お前は風呂入れ」
そう言って私に背を向け、陽彦はテーブルの皿を片付けを始めた。
翌日見返した月の写真は、大して綺麗なものではなかった。
陽彦の言う通り、本物の美しさには勝てないのかもしれない。……いや、きっとあの夜、あの場所で、陽彦と二人で見上げた月だったからこそ、あんなにも特別に感じたのだ。
「……ルナにとって、大切な人が教えてくれたんだね」
恭虎がかけてきたその言葉に、私は目を瞬かせる。
「そんな顔、してたから」
そんな顔とは、一体私はどんな顔をしていたのだろうか。
「……その人と、話したんだ。もし自分なら、“I love you”をどう訳すかって」
「うん」
「俺と一緒に、と言って、その後は何も言わなかった。思いつかないと言っていたが、多分あえて言わなかったんだと思う。……彼は、なんて言おうとしたんだと思う?」
「そうだな……」
恭虎は夜空に視線を移して、しばらく考え込んだ。
「普通に考えたら、俺と一緒に生きてくれ、だと思うけど……どうかな、俺はその人のことを知らないから」
恭虎は眉を下げて、小さく笑った。グラスの中のワインが、ゆるやかに揺れる。
──陽彦はあの夜、一体何を隠したのだろう。




