八月八日竹里館の青猫と遊ぶ
七夕と重陽の節句に挟まれた、秋分の日近く。西洋では無限、日本では末広がりとおめでたい意味もある。笹谷扇はそんな日に生まれた。
15歳になる日、父母は共働きで遅くまで家を空けていた。気の利かない中学生で、数少ない友達に誕生日をアピールすることもできない。孤立もせず、華やかにも生きず、日々淡々と暮らしていた。
塾や習い事もない独りで過ごす15歳の誕生日だった。何か理由があるわけではない。なんとなく、成り行きで、その日はひとりだったのだ。
「笹谷バイバイ」
「またなー」
「うん、また明日」
漢詩クラブという、顧問の趣味サークルのような必修クラブで、笹谷には数人の友人ができた。心底漢詩が好きで中国語まで始めた小林、親が詩吟を嗜むために影響を受けた木下、ほかに数名の古文や漢文が好きな変わり者たち。
「今度カラオケ行こうぜ」
彼らは1990年代の子供であった。様々なジャンルのバンドが元気で、若者も中年も、そして老年までもが上手くても下手でも喉を限りに愉しむ時代であった。
「ええー、僕は音痴だから」
笹谷が尻込みをする。
「そんなの関係ないって!」
小林が励ました。
「俺なんか、旨い下手以前に、詩吟しか知らないんだけど」
木下はニタリと笑った。
「ぶわははは!でも、童謡とかもあるらしいぜ?」
小林が豪快に笑いとばす。
「中国語の歌あるかなー?」
「ええー、お前以外、わかんないからやめろよ!」
詩吟は読み下しである。日本語である。木下は中国語が出来ない。笹谷も出来ない。国語科の花井先生と気が合ったので、必修クラブで漢詩クラブを選んだだけだ。
「いいから行こうぜー」
小林は両腕を伸ばして2人の肩に回した。
「うん、こんどなー」
木下が笑いながら小林を押し退けて、帰り道の曲がり角へと消えた。
「じゃあなー!」
小林も四ツ辻の別の方面へと消えた。
「また明日!」
笹谷もにこりと笑って、家路についた。その日が誕生日だとか、今日の予定はどうなのかとか、友人たちに聞こうという発想すら湧かなかった。
***
いつもの通りに鍵を開け、誰もいない公共住宅に入る。歳の離れた姉は、遠方で子育てに励んでいる。両親は仕事だ。笹谷は静かにひとり着替えると、窓の外に目をやった。
「いい天気だなあ。散歩にでも出るか」
とことこと目的もなく、笹谷は真夏の街を歩いてゆく。今日で15歳になった。
「ワレ、ジュウユウゴニシテ、ガクニココロザス」
漢文の授業が脳裏によぎる。
「孔子先生にも、15の時があったんだなあ」
花井先生の熱弁を思い出しながら、笹谷は全く違う感覚で孔子の言葉を味わっていた。普通の人と違う偉人の若き日としてではなく、どんな人にも15歳の日があったのだということが、笹谷には何故か胸にどすんと落ちてきたのだ。
悠久の時の歩みに思いを馳せながら、笹谷扇はゆったりと歩いて行った。普段は曲がらない角を曲がり、知らなかった小路を辿る。心のままに彷徨っていると、いつしか宵闇に月が明るく昇っていた。
「竹里館同人グループ展?」
住宅街に突然現れた立て看板は、流れるような墨跡で、夕風に残る真昼の灼熱に清涼感を添えていた。
「なんだろ?王維?」
同名の詩を遺した盛唐の詩人の同好会だろうか?笹谷も漢詩クラブ員の端くれである。多少の知識はあるのだ。
「ふうん?」
何の気なしに入った民家には、竹林どころか筍の気配すらなかった。ママレード色の仔猫が胡散臭そうに桑の木陰から細目を投げてよこす。シオカラトンボが縞々の身体で月光を受け、寝ぐらを求めて飛んでゆく。
「まだやってるんだ?」
中学生の笹谷は、そろそろ帰らないといけない時間。しかし看板文字の不思議な魅力に惹かれて、笹谷は地味な民家へと入って行った。
「ごめんください」
笹谷はガラリと引き戸を開けて奥へと声を掛けた。
「グループ展はまだやってますか?」
「はあい」
奥から間延びしたよう老爺の声が返ってきた。しばらく待つと、こざっぱりした浴衣掛けの小柄な老爺が廊下の奥から走ってきた。
「おや、お若い」
笹谷を見て、老爺は目を丸くした。
「ささ、どうぞどうぞ」
すぐに気を取り直して、老爺は一階の一間に笹谷を通す。
笹谷の足が入り口で止まった。
「あれ?どなたかのご紹介ではなかったんですか?」
老爺が不思議そうに聞いてきた。
「いえ」
笹谷は短く答えると、入り口にある和綴の冊子に記帳した。
「筆ペンもありますよ?近頃は色々と便利になって」
言いかけて老爺は言葉を切った。笹谷は柔らかに筆を走らせていたのだ。決して達筆ではない。義務教育書道の楷書しか知らない。だがその記名には、独特の和らぎが漂っていた。
「では、ごゆっくり」
老爺はその後何も言わずに、入り口に立って笹谷を見守っていた。
***
次の日、笹谷は小林たちに前日のことを話した。
「書道の展覧会かと思ったんだけどさ」
昨晩のひとときを思い出し、笹谷はふと微笑んだ。
「竹人形のグループ展だったんだ。なるほど竹里館だよな」
「えっ、お前」
木下が息を呑んだ。
「大丈夫か?」
「なんだよ、木下」
小林がヘラヘラと笑う。
「笑い事じゃねぇんだよ」
木下は真面目な顔で小林を見据えた。
「なんだよ?」
笹谷はムッとした。昨日の体験を穢されたように感じたのだ。
「お前、知らないのか?呪いの竹人形の噂?」
友人の安っぽい物言いに、笹谷は深くため息をついた。
「あっ、バカにしたな?けっこう有名な話なんだぜ?住宅街に突然、竹人形を飾ってる家が現れるんだ。遭遇してしまった者は呪われるんだよ」
小林がお腹を抱えて笑った。
「ギャハハハハ!なんだよ、それ!どんな呪いなんだよ?失礼だろ!」
「詳しくはわからないんだ。そこが怖いだろ?」
木下はあくまでも真面目である。
(幸運の、ならまだしも)
笹谷は反論を胸のうちに収めておいた。
一年後、竹里館同人グループ展から案内の葉書が笹谷に届いた。今年も笹谷扇の誕生日を跨いでの開催である。高校生になった彼は、去年の展示を懐かしんだ。
「どれも心洗われる作品だったけど」
特に印象深かったのは、いちばん素朴な作品だった。それは親指と人差し指で作る円程度の太さで、笹谷の掌に隠れてしまうほどの丈であった。青々と薫る若竹は、数カ所切り込まれて愛嬌のある猫となっていた。
(悪戯そうなのに、賢さまで見えた)
笹谷は青竹の猫を目に浮かべた。
(作家の名前は、たしか、なんとか天竹、なんとか、なんだっけ?今年も出品してるかなあ)
笹谷は期待を胸に、16歳の誕生日に再び竹里館同人グループ展へと向かった。
「ほお、こんにちは。去年もおいで下さいましたでしょう?」
月光のように寂寥を滲ませる微笑みに惹かれて、笹谷の頬も微かに弛んだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
言われるままに観覧し、笹谷は天竹の作品の前で足を止める。
(そうそう、ツルマキ。弦巻天竹さんだった)
案内人の老爺が目を細めた。
「去年もご覧になってましたね。天竹君なら、そろそろ来ますよ」
「えっ、この作者の方が?」
笹谷はグループ展というものに来たのは二度目である。前年と、今日だ。作者が大昔にこの世を去っている展覧会しか知らなかった。値札の付いている展示も物珍しく感じた。だから、生きた製作者が展覧会にやってくるとは思いもしなかったのだ。
「ええ、歳も近いし、話も合うかもしれませんよ」
老爺の応答に、笹谷は益々驚いてしまった。
「こんな深い作品をお造りになる方が、僕と歳の近い方なんですか?」
老爺は優しく微笑んで、何か言おうとした。
その時、玄関の引き戸が開く音がした。
「こんばんは」
規則正しい足音が続いた後、落ち着いた声と共に青年が現れた。ひょろりと高い短髪の青年だが、ふしくれだった指にはタコがある。肩や腕には職人特有の筋肉がついていた。
「噂をすれば。天竹君。ファンがみえてますよ」
「先生。からかわないでください。この方もお弟子さんなんでしょう?」
青年の言葉を、笹谷は慌てて否定した。
「いえっ、僕は。不器用ですから。観るだけですっ!」
「おや、そうなんですか?」
青年は、落ち着いた雰囲気から大人のように見えていた。だが、キョトンと見下ろしてくる面差しにはまだ幼さが残っていた。
「あの」
笹谷は歳の近さを実感して、つい気安く聞いてしまった。
「去年、青竹の仔猫、ええと、孤月、を出品なされた天竹先生ですか?」
「去年の作品につけた題名を覚えていてくださったんですか」
天竹は嬉しそうに声を弾ませた。
「今にも駆け出しそうで、それでいて息を潜めているような、不思議な作品でしたから。とても印象に残っているんです」
「そこまでお分かりいただけましたか!この子は人懐こい顔をしながら気難しいですから。お分かりいただけて喜んでるに違いありませんよ」
笹谷はものづくりとは縁がない。自分が生み出した作品を我が子のように扱う人には戸惑った。しかし、嫌な気持ちにはならなかった。
それから少し竹人形の話などをして、笹谷は遅くなりすぎないうちにお暇をした。
(来年はぜひ天竹先生の竹人形を買いたいなぁ。天竹先生の作品は今年も小さくて頑張れば買えそうな値段だった。バイトさがそうっと)
目標ができて心も軽く、笹谷は明るい月を見上げた。
(呪いだなんて、全く馬鹿げた噂だったな)
中学校卒業以来、疎遠になってしまった小林と木下の姿が脳裏をよぎった。
(久しぶりに連絡してみるかなぁ)
結局は実現しなかったカラオケに誘ってみるのもいいかもしれない。
(あいつら、元気かな。騒がしいやつらだったよな)
竹里館にはおよそ似つかわしくない少年たちだった。それに比べて、ふたつ年上だと判った天竹こと弦巻甚五は、竹里館にふさわしい静けさを纏っていた。
(僕は音楽も出来ないけど、去年の仔猫や今年みた竹の乙女たちと一緒に月の竹林で過ごしてみたいなあ)
いつになく高揚した気分で、笹谷は花井先生に教わった王維の詩を口ずさむ。
獨リ坐ス幽篁ノ裏
琴ヲ彈ジテ復タ長嘯ス
深林人知ラ不
明月來リテ相照ラス
(そんな中に、あいつらが笑い声をあげていても、またいいもんかも知れないな)
美しい古詩を真っ向から否定するような発言だが、月光はあまねく夜の世界に降り注ぐ。
(よし、絶対連絡しよう!)
辿り着いた公共住宅で、笹谷は我が家を見上げた。灯りが点っている。父母のどちらかが早く上がれたのだろうか?それとも姉が遊びに来ているのだろうか。笹谷は、にこにこしながらエレベーターのボタンを押した。
***
節のところで切った竹に薄甘い冷水を満たして、弦巻甚五は縁側にいた。グループ展を行っている家に、今夜は泊まる予定である。
「先生、来年はゼンマイを使ってみようかと思うんです」
「天竹君、いよいよからくりに挑戦するのかね?」
「はい」
そういうと、天竹こと弦巻甚五は、青竹の仔猫を取り出した。くるりと渦巻く細いヒゲを、無骨な人差し指でちょいちょいと突く。
「お前も月まで跳ねたかろ?」
「ほほっ、人影のない竹林にでもゆくかね?」
老爺はちょんと青竹仔猫の鼻をつついた。細く古家を巡る回縁に、ほの白く月の波が揺れている。青竹の仔猫は虚ろに空いた穴の眼に、蒼い光を湛えて身震いした。
みゅうぅ
夜風にそよぐ青竹のヒゲを微かな声が分けてゆく。
「ほお、そうか、そうか」
「先生、けしかけないで下さいよ」
天竹が苦笑いした。
「無理に引き留めてはいけないよ?」
「それは重々承知致しておりますが」
「初めて月の息吹を受けた人形だからなあ。分からないこともないが」
老爺は少し厳しい顔付きになった。
「何事も自然に逆らってはいけないよ?」
「ええ」
天竹は顔を曇らせた。
「先輩方の失敗を教訓にな?」
「はい」
青竹の仔猫は、三角に空いた虚ろな眼をまろく月の弧に似せる。それから、つと冷たい竹の頬を天竹の掌にすりつけた。