9. 文字の練習
どうしたら綺麗な文字を書けるだろうか。
文字の練習に疲れて本棚を眺めていた私は、本を一冊抜き出して頁を捲る。
表紙を開き、幾枚かの頁を繰り、更に頁をぱらぱらと進め、文字を見つめる。本を閉じ、本棚に戻すと、隣の本を取り出す。
最初に手に取った本は、難し過ぎて何が書いてあるのか私には分からなかった。
だけど意味は分からなくとも文字は読めたし、本に並んだ文字は整っていて美しい。
けれど美しくとも、本の文字はペンで書く文字とは違う。精巧な細工のような文字をペンで書くことは出来ないだろう。
私は、私が書くことが出来そうな美しい文字を求めて本を眺めては見たものの、本の中には見つけることが出来なかった。
仕方がない。気分転換も出来たし、練習に戻ろう。
書いているうちに少しは美しくなっていくかもしれない。
私は、机に戻ると再びインクの蓋を開けた。
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そろそろお昼だろうか。
窓の外の日は高い。それにしばらく前から漂ってきた食事の香りに気が惹かれる。
私がこの辺で切りをつけるべきかと思い始めたところに、ヤンさんが部屋にやって来た。
私はヤンさんの顔を見た瞬間に思わず、お願い事をしてしまった。
「ヤンさん、お願いがあります!」
「…何でしょう?」
ヤンさんは私の突然の言葉に驚いたように瞬いた。
「あの…文字のお手本を書いてくれませんか?」
私がお願い事を口にするとヤンさんは少しだけ黙って、さっき書いた私の文字を見た。
少しヤンさんが笑ったように感じた。
「分かりました。私で良ければお手本を書きましょう」
ヤンさんは長椅子に掛けるとペンとインク、そして紙を並べる。
ペンを手に取って少しだけ考えるように動きを止めると、ヤンさんが私を見た。私の隣の椅子にヤンさんの視線が一瞬向いた。一拍置いてヤンさんはペンを戻した。
「こちらに」
ヤンさんが自分の左側を手のひらで示した。
「…?」
私は一瞬意味が取れずに瞬いたけれど、すぐにヤンさんの心遣いに気づいた。
ヤンさんは文字を書くところを向かいではなくて、横から見せてくれようとしているのだ。
私は慌てて立ち上がるとヤンさんの横に座り直した。
ヤンさんがインクの中にペン先を浸した。
インクをたっぷりと溜めてペンが持ち上げられると、そのまま少し戻り、ペン先は瓶の端で余分なインクを振り落として、紙の上へと運ばれる。
少しの躊躇いも無駄もない手の動きに私は見惚れた。ヤンさんの文字を書く姿はとても美しい。
長い指がペンに添えられ、それが紙の上を滑るように動く。綺麗な指の軌跡のように紡がれていく文字を、私は瞬きすることなく見つめた。
目の前で紡がれる美しさをずっと見ていたいと思ったとしても、アルファベットには限りがある。最後の文字が紙の上に記され、ペンが離れていくのを、私は少しだけ残念に感じた。
だけど、紙の上の美しい文字はそのままそこにある。
この美しい文字は私のためのものだ。
私がヤンさんの書いたアルファベットを眺めていると、ヤンさんはもう一度ペンをインクに浸した。
「?」
書き終わったはずでは?
私がペンを見つめていると、ペンはアルファベットの下に新たに文字を綴った。
『サラ』
ヤンさんは続けてペンを紙に置こうとしたように見えたけれど、ペンは紙から離れていった。
ヤンさんが書いた私の名前の美しさに、私は息を呑んだ。
これを目指そう。私は紙の上に綴られた美しい名前を見て思った。
私はまだまだ不格好だけど、いつかヤンさんが書く文字のように美しくなろう。
「ヤンさんありがとうございます」
机の上を片付けるヤンさんに、私はこの嬉しさが伝わるといいなと思いながらお礼を言った。
ヤン「半日でこんなに文字の練習をしたのか…随分ペンの扱いが上手くなっている。…はあ…本当にこのまま働いてほしい…」