8. 見習い仕事が始まらない
翌日ーー
私は昨日と同じ部屋で文字を書く練習をしている。
*
ヤンさんから昨日合格をもらったのだから、今日からは見習い仕事が始まるものと思っていた。
どんな仕事をするのだろう。そう思いながら部屋を訪れた私の前に、ヤンさんはインクとペンを置いた。
「お昼まではここで文字の練習をしていてください」
練習用の紙の束を机の上に置くとヤンさんは部屋を出て行った。
文字の練習。
私はまだ何も書かれていない紙を見る。
ペンを見て、インクを見て、そして昨日書いた自分の文字を思い出す。
思い出した自分の文字に眉を寄せつつ、ヤンさんの文字を思い浮かべる。頭の中でそれを比べながら私は深く納得する。
うん。確かに練習が必要だ。
私は早速、インク壺の蓋を開けるとペンを手に取りインクに浸す。余分なインクを落としてインクの量を確認すると、紙に名前を書いてみる。
『サラ=ケラー』
昨日、最初に書いたときよりは上手く書くことが出来た。
とはいえ、ヤンさんの文字に比べたら…いや、比べなかったとしても、美しい文字ではない。
私は書いた文字をじっと見つめた。
どうしたら文字が美しくなるのだろう。
しばらく考えていたけれど、どうしたら良いのか分からない。
私はアルファベットを一文字ずつ書いていく。
どうしたら文字が美しくなるのかは分からないけれど、とりあえずインクとペンに慣れなくては。
余分なインクを落とすことを覚えてから、台無しになるほどに紙にインクが滲むことはなくなった。
けれど、時々、力加減を間違えて、紙にインクを滲ませてしまう。
十分に読める。けれども滲んだインクが不格好だ。
まずはインクを滲ませないように、力を入れ過ぎないように書けるようになろう。
何度かアルファベットを書いているうちに、一度のインクでアルファベットを書き切ることが出来るようになった。
力加減が分かってきたようで、インクが滲んでいる箇所はない。インクを滲ませるとその分インクを消費してしまうから、途中でインクが尽きてしまうのだけれど、一度にこれだけ文字が書ければなかなか良いのではないだろうか。
とはいえ。まだ滲まずに書けるようになってきただけ。到底美しい文字とは言えない。
私は右手のペンを握り直すと、ペン尻を親指で押した。
「っと…」
本日何度目かの親指への圧迫感に思わず声が出た。
アルファベットを何度か書いて、滲みが少なくなってきたことに口元を緩めた私は、気がつけばペン尻に親指を当てていた。何度目かの無意識の動きが不思議で、私は親指を見つめる。
どうやらインクが掠れそうになると、この動作をしているように思う。
何故ペン尻に指を当ててしまうのか、自分でも分からない。気がつけば勝手に手が動いているようで気味が悪い。それにペンを掴むこの手は少しも美しくない。
私は眉を寄せるとペンを置いた。続けてインクに蓋をすると腕を伸ばす。
夢中で書いていて、疲れてしまったのかもしれない。
私は自分が書いたアルファベットたちを眺める。ペンの扱いには少しずつ慣れてきているけれど、文字が上手くなっているとは言い難い。
どうしたものかと思いながら、伸びをして、首を回す。
立ち上がって部屋の中を歩いてみる。
体を動かしてみると、今までずっと座って文字を書き続けていたことで、自分が疲れてしまっていたのだと感じた。
首を捻って、体を捻る。深呼吸してから、もう一度部屋の中を一周してみる。
気分が少しだけ上を向いた。
私は本棚に近づいて、本を眺めた。
ヤンさんから丁寧に扱うなら好きに見て良いと言われたことを思い出したけれど、たくさん並んでいてどれを手に取れば良いのかが分からない。
考えてみれば、今までの私は与えられた本を読んでいただけで、本を選んだことなどなかった。並んだ本からどうやって読みたい本を選んだらいいのだろうか。
少し悩んだけれど、とにかく開いてみるかと目の前の一冊を取り出した。手にした本を開くと文字を目で追う。
「…」
とても難しい本だということが分かった。
知らない単語が多くて、書かれていることが少しも分からない。
ヤンさんは昨日、それだけ読めれば十分と言ってくれた。
だけど、やっぱり私はまだまだ足りないのだ。
私は知っている単語を本の中に探し求めたけれど、すぐに諦めると本を閉じた。
棚に戻そうと本を抱えなおした時、昨日のヤンさんを思い出した。
ヤンさんが本を持つ手は、とても丁寧で、そして美しかった。
私が本を持つ手はあんなに美しくない。
本を持つ自分の手を見つめて、私はまた少しだけ悲しくなった。
ヤン「ハンスさんが来るまで10日くらいか。それまでの間だけでもサラさんに手伝ってもらいたいものだが…はあ…後々それが問題になったとしたら困るのは確かだ。………人手が…」




