7. 商家の見習い
家を片付け終えて商家に移ったのは、両親が亡くなってから10日くらい経ってからだった。
父さんと母さんのお葬式は、他の勤め人の人たちと一緒に、商家が上げてくれた。
だけど事故にあった身体は損傷が激しく、葬儀で棺を開けることはなかった。
だから私は父さんと母さんが死んでしまったことを理解はしていたけれど、全然実感出来ていない。
もう帰って来ないのは理解出来た。ひとりぼっちになったことも分かった。だけどそれでも、父さんも母さんもそばにいないだけ。そんな感覚がある。
父さんと母さんと一緒に住んでいた家はもう私の家ではない。私の家は商家になって…。だから、かも知れない。
私にとっては、父さんと母さんがいなくなったというよりも、私が父さんと母さんから離れてしまったという気分だったのだと思う。
私たちの家は片付けて、手放してしまった。けど、それでもそこに父さんと母さんを置いて来てしまったように感じていたのではないだろうか。
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商家に移り住んで、最初にしたのは読み書き計算をしてみせること。
番頭のヤンさんにどれくらい文字が読めるのかと聞かれた私は、父さんと母さんに買ってもらった本を読み上げた。
エマさんに文字を教えてもらった私は、エマさんが貸してくれる本を少しずつ読んでいった。最初の一冊を読み終えた私にエマさんは次の本を貸してくれ、そしてそれも読み終えると次の本、そしてまた次。
そうしているうちに遂に私は、エマさんが持っている本を読み尽くしてしまった。
読む本のなくなった私に、父さんと母さんが買ってくれたのがこの本だ。
最初の頁から3頁の途中まで読んだところでヤンさんは合格をくれた。
「この本を最後まで読んでいるのですか?」
「はい。何度も読んでいます」
ヤンさんに聞かれて私は答えた。
「なるほど」
ヤンさんは本に目を通しながら捲っていき、最後まで捲り終えると本を閉じた。本に触れるヤンさんの手がとても美しく見えて、私は少しだけ見惚れた。
ヤンさんは本を私に返してくれると「これが読めるのであれば十分でしょう」と褒めてくれた。
ヤンさんから受け取った本は脇に置く。
机の上にヤンさんがインクとペンを並べた。本を読んだ後は、文字を書くようだ。私の前に紙が一枚差し出された。
「名前を書けますか?」
私は頷くとインク壺に手を伸ばした。
どきどきしながらインクの蓋を開けると、ペンを手にして観察する。インク壺とペンとに視線を巡らせると意を決してペン先をインクの中に浸けた。
ペン先に溜まったインクに目を遣る。
「ふぅ…」深呼吸する。
紙にペンを置くと、インクが紙に滲んで広がった。
「…!」
習字と一緒!ゆっくり書いてはダメ!
咄嗟に頭の中で叫びながら、私は急いで自分の名前を書いた。
『サラ=ケラー』
途中でインクが掠れてしまったから、再びインクをつけ直し、今度は滲まないように気をつけて一気に名前を書き切る。
ヤンさんが少しだけ眉を寄せた。
インクとペンは父さんが時々使っていた。私も一度だけ使わせてもらったことがあるけれど、私が文字を書くのは地面であることが一番多く、紙に書く時に使っていたのは鉛筆だ。
きっと仕事で文字を書くのはインクとペンを使うのだろう。
ほとんど使ったことがない割には上手く書けたと思うのだけど、仕事で文字を書くにはまだ練習が必要かもしれない。
そういえばさっき、慎重になり過ぎてインクが紙に滲んでしまった時に、咄嗟に何かが頭をよぎったけれど何だっただろうか。私は思い出そうと首を捻ったけれど、通り過ぎた感触だけがあって思い出せそうもない。
何となく気持ち悪い心地でいたが、ヤンさんからの次の課題に意識を戻した。
名前の次は、ヤンさんがお店の商品を読み上げて、それを私が書きとった。
いくつか知らない商品の名前があって、それは綴りが分からず書けなかったけれど、その都度ヤンさんは教えてくれた。
「基本的には書くのも十分ですね」ヤンさんが私の書いた文字を見ながら言った。
「それにしても素晴らしいですね。読むだけならまだしも、文字を書く機会は少なかったのではないですか?よく教育されている」
「えっと…」
私はエマさんに文字を教えてもらったけれど、確かにヤンさんの言うとおり書く機会はそんなになかった。エマさんだって、書くためというよりも読むために最初は文字を教えてくれたように思う。
文字を教えてもらった私が楽しくて、エマさんが洗濯を終えるまでの間に地面に文字を書いて遊んだり、市場に連れて行ってもらった時に見かけた気になる品の札を覚えて帰って、家でメモを書いたりと、文字を覚えたのが嬉しくて遊んだ結果、書けるようになったようなものだ。
ヤンさんは教育されていると言ったけれど、遊んでいたら書けるようになりましたと返しても良いものか。悩んだ私は曖昧に笑い返した。
「ただペンの扱いには慣れていないようですね」
ヤンさんはそう言いながら私が文字を書いた紙を見る。
初めてでこそないが、インクとペンで書くことに慣れてるわけもない。
眉を下げた私の前で、ヤンさんがペンを手に取った。ペン先にインクを浸す。
「このようにインクが多く付いてしまった場合、インク壺の縁でインクを落とします。これくらいが書きやすいでしょう」
言いながら、付き過ぎたインクを落としてみせてくれる。
「慣れないうちは、試し書きして使いやすいインクの量を覚えていけば良いでしょう」
さらさらと紙に『ヤン=ベロム』と書く。
ヤンさんの文字はとても綺麗だった。それに文字を書いているヤンさんの手はとても美しくって、私は思わず自分の手を見つめてしまった。
続けて計算もしてみせた。
ヤンさんは目を見張って「こんなに出来るなんて!」と褒めてくれたけれど、私は紙に書いた数字の不格好さに何だかがっかりした。
鉛筆で書いていたならばこれでも良かったけれど、インクとペンで書くならば、もっと綺麗な数字であるべきだろうと思ったのだ。
ヤンさんは私が文字を書いた紙と計算した紙を手にし、「では、あなたの仕事をどうするか、オベール様と相談しますので今日は休みなさい」と告げた。
私は与えられた部屋に戻って、商家での一日目が終わった。
明日からは何をするのだろう。見習いならばまずは雑用からだろうか?
そんな風に考えながら早めにベッドに入ったけれど、翌日私がすることになったのは見習い仕事の雑用ではなかった。
オベール「サラは読み書き計算がそんなに出来るのか…」
ヤン「はい。明日からはどういたしましょう」
オベール「ハンスさんはおそらくあの子を引き取ることになるだろうと言っていたし、下手に下働きをさせるわけにもいかないだろう。もしもこのまま働くことになるなら有能なのは嬉しいことだが…」
ヤン「急いで礼儀作法を教えてくれる講師を手配しようかと思うのですが、いかがでしょう」
オベール「それはいい!残るとしても礼儀作法を教えて損はないし、子爵家へ入るなら覚えておいた方がいいだろう」