5. ちょっとした問題
本を借りた私は、翻訳作業の為に寮へと戻る。
もちろんだけれど、私はエマさんの絵本を二冊とも寮へ持って来ていた。
家では中々翻訳を進められなかったから、王立学院にいるうちに進めたいと考えていたからだ。
王立学院で翻訳をしようと考えていたのは、単純に自由になる時間があるだろうという予測故だったけれど、図書室の蔵書を見た今となっては、翻訳に必要な資料も充実していることが分かったので、この作戦は正解だったと少し浮かれた気分だ。
王立学院の二年次は、三つの学科に分かれるけれど、官吏科には外国語の授業もあるそうだから、図書室の外国の本はその授業の為の資料でもあるのかもしれない。
多少は興味があるものの、女生徒はほとんど教養科に進むので私も教養科に進級することになるだろう。
まあ私が目指しているのは外国語を学ぶことではなくて、エマさんの絵本を読めるようになることだから問題ない。
それに来年のことを考えるより前に、一年次の前期を無事終えることを考えるべきであろう。
今のところは勉強にそれほど苦労は感じていない。
ダンスもこなせているし、礼儀作法も問題ないと思っている。問題があるとすれば…
「あら?今日はお一人なのですね?」
寮に戻ってきて、部屋に向かおうとしていたところで声をかけられた。
私は振り返ると意識して微笑みを返した。
「こんにちは。マノンさん」
彼女は私が手に持つ本に視線を走らせた。
「あら、珍しい本をお持ちですね。この国の本ではないようだけれど…」
神話の本はパジェス語で書かれているものの、装丁には異国らしさがある。それに辞書は当然ながらアスカム語なのだから、見れば外国の本であることが分かったのだろう。
「アスカムの本です」
私は言葉少なに返して、切り上げようと頭を働かせた。
「まあ。もしやサラさんはパジェス王国で暮らすのがお嫌なのかしら?」
予想もしなかった言葉がマノンの口から出たことに、私は目を剥きそうになった。
マノンがこのように干渉してくることに、私は慣れ始めていた。
だからといって気持ちが良いわけではないし、平気なわけでもない。
「考えてもみないことをおっしゃられるので、びっくりしてしまいました。そう考えられたのはマノンさんがそう思われる故でしょうか?」
「なんですって?」
「私はパジェス王国を愛しておりますので、そのようなこと思いつきもしませんでしたわ」
マノンは眉を顰めてから、私に視線を投げた。
「あら。貴族であればそう思うのは当然ですね。私、平民の方はまた違うお考えがあるのではと思っただけですのよ」
これだ。
私がアルノー子爵の養女であることは隠していることではない。実は子爵の兄の娘であることは多くの人が知っているだろう。口にはしないが母が平民であることもきっと知られている。
だからといってそれを気にする人は実は多くはない。…と、王立学院に入学するまでは思っていたのだ。
家族は私を大事にしてくれたし、お茶会や夜会でも招待客たちに、にこやかに接してもらえていた。もちろん皆んなと仲良くなれたわけではなかったけれど、そんなのは貴族どうしだって当たり前のこと。
リズもソニアも気にせず仲良くしてくれる。
だから私は養女であることも、母が平民であることも深く考えたことがなかった。
のだけれど。どうやら片親が平民であるということが気になる貴族がいるということを私は知った。
マノンだけではない。けれど話しかけてくるのはマノンくらいだ。
嫌なら話しかけなければいいのにと思うけれど、姿を見ると声をかけずにいられないようだ。
「まあ。マノンさんは空想がお好きなのね」
私は会釈を返してとっとと部屋へと行くことにする。
マノンは呼び止めなかった。
平民扱いされることは気にしてはいないが、母さんを馬鹿にされることは我慢できない。実害がなければこちらも気にしたりはしないのに、話しかけられれば応戦するしかないではないか。
浮いた気持ちを邪魔されてしまい。
溜息を隠しながら私は部屋に戻った。




